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<東京怪談ノベル(シングル)>


失色


 男の前にそのセールスマンが現れたのは、初夏を告げる雨が大地を濡らす、とある日の午後の事だった。
 黒いスーツに、締めているネクタイももちろん黒。表情を隠すように伸ばされた髪は漆黒で、反して肌は気味が悪いほどに白い。
「あなた様にぴったりの品をお持ちいたしました」
 満面に笑みを浮かべてそう口にしたセールスマンは、男が問うと、名前を”影”と名乗った。
「オレにぴったりな品だと?」
 男は眉根を寄せて、訝しげに影の顔を見据えているが、影と名乗ったセールスマンは笑みを乗せた表情を一片も乱す事なく頷いた。
「ええ、そうです。よろしければ是非ともお試しいただきたく思うのですが……えぇと、今、お出ししますね」
 影はそう言って膝をつき、手にしている黒いトランクをゆっくりと開いた。
男がトランクを覗き見ようとすると、影はふわりと笑んでそれを制した。
「こちらがその品でございます」
 影がトランクから取り出したのは、両手ほどの大きさをした箱だった。
それは一見オルゴールのようにも見える、華美な彫り細工のなされたもの。影はそれを取りだしてトランクを閉めると、改めて男の方に向き直る。
「……なんだ、それは。オレはそういうモンには興味はないんだが」
 男は箱に目を惹かれながらも、憮然とした口調でそう言い放つ。すると影はわずかに首を傾げ、しかしやはり笑みは絶やさずに、
「失礼ながら、あなた様は今、傾いた会社を持ち直させるため、少しでも多くの金子をご所望になっていらっしゃるはず」
「なぜそれを……!」
 訊ねたが、影は男のその言葉を受け流し、首を傾げて微笑した。
「一日に一度だけ、この蓋を開けてください。そうしますと、箱の中に金子の元となる物を確認いただけるはずです」
「? 貴様、何を戯けた事を」
 影を訝しんでいた表情に怒気が浮かぶ。しかし影はその怒気を怖れる様子も見せず、変わらずにこやかな笑顔で表情を満たしたままだ。
「疑われるのも無理はありません。ですから、どうぞここで真偽を確かめていただきたいのです」
 言い聞かせるようにゆったりとそう述べて、影は箱を差し伸べた。
箱は影の手によって開かれている。その中には、何もおさめられてはいない。男は少し躊躇してみせたが、憤然と箱を奪い取って、無遠慮に蓋に手をかけた。
 箱の蓋が開かれる。聴いた事のない曲調の音が奏で始めた。影は糸のように細めた眼を金色に輝かせ、男の顔を確かめる。
「――――これは……」
 箱の蓋を開けて中を確かめた男の目が、徐々に輝きを帯びていく。
「宝石の種類は日によって異なるかとは思いますが、どれも極上の一品です。そちらを換金されていけば、幾らかほどにはなるはずです」
 満面に笑みをたたえてそう述べる影に、男は上気した眼差しで一瞥した。
「一日に一度と言ったな。数度では駄目なのか?」
「申し訳ございません、お客様。その箱をお譲りする際の条件として、一日に一度だけというお約束を飲んでいただかなくてはならないのです」
 首を傾げてそう返した影に、男は、しかし満足そうな顔で頷いた。
「よし、分かった。一日に一度だな。それで、この箱の値はどれほどになる?」
「いいえ、お客様。そちらの品は私からのプレゼントでございます。どうぞ、お収めください。――ただし、約束はゆめお忘れなきよう」
 影は男の言葉にかぶりを振ってそう返し、笑う。男は影の言葉にわずかな躊躇を見せたが、感謝の言葉もそこそこに、車の中へと消えて行ったのだった。

 男を乗せた車が消えていくのを見送りながら、影は小さく笑って肩を竦める。その口は両端を歪めるようにつりあげ、人が見れば薄ら寒くなるような笑みを浮かべていた。
「御代はいただきませんけれどもね」
 くぐもった笑みを共に吐き出されたその言葉を、去って行った男は永遠に知らないまま。

 
 怪奇探偵という呼ばれ名は、決して本人が望んだものではない。それは確かな事。
「俺はハードボイルドを目指しているんだ」
 何度そうぼやいたか知れない言葉を、草間武彦は煙草の煙と共に吐き出した。
 大きな交差点の前、信号が変わるのを待っている草間は、傘もささずに空を睨みつける。空には重く圧し掛かるような灰色の雲が広がっている。

 気鬱になりそうな長雨の日の午後、彼の元に一件の依頼が舞いこんできた。
『主人が、抜け殻みたいになってしまったの。箱を開けた途端によ。あぁ、だから私は気味の悪い箱なんか捨てちゃえばって言ったのよ』
 支離滅裂な電話の主は、とある企業の社長夫人だと名乗った。
「箱ですか?」
 ひどく取り乱しているらしい女性にそう訊ねると、今度は社長の秘書だったという男が電話口に出た。
『社長はある日、オルゴールのような箱を持ち帰りました。社長は誰にも見せてはくれませんでしたが、箱は蓋を開けるたびに、上質な宝石を吐き出してくれるのだと仰っていました』
「オルゴールから宝石が?」
『どこぞの胡散臭げなセールスマンが譲ってくれたのだと仰っていましたが……。確かに、社長は毎日数知れぬ宝石を手にしていらっしゃいました』
「……セールスマン?」
 
 電話を切った後、草間はすぐに事務所を後にした。
 電話で説明を受けたセールスマンという存在に、心当たりがあったからだ。

 社長である男は無残に痩せこけており、窪んで落ちた眼孔が、虚ろに宙を睨みつけている。
 病院のベッドの上で様々な医療機具で繋がれた彼は、心臓こそ動いているものの、意識はまるでないのだという。その症状には、医者も首を傾げるばかり。夫人が言った”抜け殻”という表現は、確かに的を射ていた。
 詳しい話は男からしか聞けないが、夫人や秘書からも、断片的なものは聞く事が出来た。そして、草間は確証を得たのだ。
「そのセールスマンに覚えがあります。……まずその男を見つけだし、おって結果をご報告いたします」

 そのセールスマンを探し出せるという確証があるわけではない。しかし――――
 草間は小さな舌打ちを一つついて、やまない雨を憎々しげに睨みつける。
 赤信号はいつのまにか青に変わっていた。色とりどりの傘をさした人の波が、一斉に足を動かして過ぎていく。
 草間は、雨に濡れた肩を軽く払いながら、その波の中へと身を躍らせる。
 信号がチカチカと点滅し始めた。その時、
「私をお探しですか?」
 草間の耳元で、笑いを噛み殺したような声がそうささやいた。
「――――影ッ?」
 名を呼び、振り向く。しかしそこには誰の姿もない。そう、誰の姿も。
 再び振りかぶって周りを確かめる。そこは交差点だ。周りには高層ビルが立ち並び、信号はチカチカと点滅したままだ。しかし、溢れかえるほどにいたはずの人ごみも、流れていたはずの風も、何もかもが失せてしまっている。ただ雨だけが、アスファルトを打ち続けている。まるで、それ以外に音も色も失くなってしまった世界のようだ。
 草間は何度か振りかぶり、そのたびに男の名前を呼んだ。
「影ッ、影! おまえか!」
 何度目かにその名を口にした時、突然男は姿を現した。
「私を探してくださるとは、光栄です。――何かご入用でも?」
 男は、交差点の真ん中に立っていた。黒いスーツに黒いネクタイ。手にしているのは漆黒色のトランク。目も口も三日月の形を成していて、恭しく腰を曲げて礼をした。
「おまえ最近、妙な品物を押しつけただろう?」
 怒気をこめた声音でそう訊ね、草間はゆっくりと歩みを進める。
「妙な品物でございますか? さぁて、覚えがございませんねぇ。しかも押しつけるなどと、そのような事。私はそのような物騒な真似はいたしませんよ」
 満面に浮かべた笑みを少しも歪める事もなく、影はそう言って首を傾げた。
「おまえから妙な箱を受け取った男が、今じゃまるで生きた屍だ」
「あぁ、分かりました。あの箱ですね。おや、もしかしたらあの御方、私との約束を破られたのでは?」
「――――約束だ?」
 眉根を寄せる草間に、影は片手で顎を撫でながら頷いた。
「一日にたった一度だけしか開けてはいけませんと、そう申し上げたのですよ。一日一度であれば、数年ほどは保ったはずなのですけれどもねぇ」
 残念です。そう続けて小さく笑う影に、草間は舌打ちを一つしてみせる。不思議な事に、足を進めても、距離は一向に縮まらない。
「何言ってるんだ?」
 訊ねるが、影は表情を変える事なく笑みを浮かべている。
 否。その笑みは、今は薄ら気味の悪い嗤いへと変容していた。
「あの箱は、使う主の魂を宝石へと換えていくものだったのです。あの御方、金子にお困りのようでいらしたので、ほんの少しばかり、お手伝いしてさしあげたのですよ」
 クツクツと、くぐもった笑みが響く。 
「魂を宝石にだと?」
 そう返す。糸のような三日月を象っていた影の眼が、鈍く輝く金色を覗かせた。
「御自分の幸福を御自分の命で生み出すのですよ。夢のような品でございますでしょう?」
 クツクツと笑みが響く。凪いでいたはずの風が、何の前触れもなく草間の前髪を揺らした。
「あなた様も、何かご入用な時がございましたら、またいつでもお呼びください。いつ何時であっても、あなた様の御前に伺いますから」
 そう続けて、影は再び恭しく腰を折り曲げた。
 まるで役者のような流麗な動きで草間に礼を見せる影の姿は、再び何の前触れもなく動き出した世界――色とりどりの傘によって飲み込まれ、かき消えた。
「影ッ!」
 人波に肩を押されながら、草間は影の名前を呼んだ。
しかし、返ってくるのはくぐもった低い嘲笑ばかり。
そしてやがて、草間はただ一人、交差点の上に取り残された。

 雨は、止むことなく灰色の雲から降り注がれる。 
 

 
―― 了 ――