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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


安らぎの香りは危険な誘い(後編)

 シュライン・エマが友人の一人から電話を受けたのは、翻訳の仕事中、ちょうど息抜きを入れようと、手を止めたところだった。
 用件は、事件調査への誘い。電話の相手であるリンスター財閥総帥、セレスティ・カーニンガムは、今、一人の少女が過去を夢に見られるという香を焚いて眠り、目覚めなくなってしまった事件について調査中とのことだった。調査の方は一段落ついて、これから眠りっぱなしの少女を救出するための策を練るという。
 興味を覚えたシュラインは、頭の中で素早く仕事のスケジュールを確認し、調整が可能かどうかを検討する。この間、わずか1秒未満。
「ご一緒させていただくわ」
 そう答えると、受話器の向こうで小さく笑みが漏れた。

「香は女子中高生の間で流行ってて、正体不明の配布人が配っている。入手は極めて簡単。夢に出てくるのは長い廊下と扉。一番奥の扉の向こうは『混沌』の世界。そこに三下くんと問題の女の子は迷い込んでいて、おそらく自分が誰かもわかっていない状況だと思われる。救出するには、こちらから迎えに行かなければいけない……か」
 電話を切ったシュラインは、セレスティから聞いた情報を、頭の中で反復した。あたかも自ら収まる場所を知っているかのように、情報の断片は端から整理されていき、次にとるべき行動がはじき出されてくる。
 シュラインはまず、友人知人の女子中高生たちに連絡をとった。香は人数分あると聞いていたが、念のために入手しておくに越したことはないだろう。はたして、すぐに香を譲ってくれる少女は見つかった。シュラインは礼を述べ、バイト先の探偵事務所に届けてくれるように頼む。彼女やその友人たちが香を使わないように、と伝えるのも忘れない。
 そして、混沌の中で自分を見失わない方法、問題の少女と三下に自分を取り戻してもらうための策を考えながら、鞄を手に取り、上着を羽織って外出の準備をする。
 今もっともしなければならないこと、セレスティたちと合流するために。

 今回の調査員はセレスティの他には、モーリス・ラジアル、海原みそのの2人で、シュラインにとっては顔なじみともいえるメンバーだった。軽く挨拶をかわしただけで、自然と話題はすぐに本題へと入る。
「お母様に伺いたいことがあるのだけれど」
 少女に自分を取り戻してもらうためには、迎えに行く自分たちも彼女のことをよく知っておかなければなるまい。
 今後の調査についてシュラインがそう切り出せば、セレスティも、その絶世の美貌に穏やかな笑みを浮かべた。
「私たちもそう思っていたところです。それと、母親に名前を呼ばれて戻ってこられた子もいます。今回も親御さんに名前を呼んでもらえば効果があるかもしれません」

 シュラインたち4人を出迎えた依頼人は、30代も半ばと思われる女性だった。が、その頬はこけ、目元はくぼんで前髪も乱れたまま額に張り付き、疲れきっているように見える。新顔のシュラインがいることに気づく様子もないあたり、よっぽど憔悴しているのだろう。娘が眠りっぱなしとあってはそれも無理はないが。
 依頼人はそれでも世話になっている礼を述べ、4人を居間へと招き入れた。依頼人がおぼつかない手つきでお茶を出し、腰を下ろすのを待って、セレスティが簡単に調査経過についての報告を始めた。ただでさえ憔悴しきっている母親を追いつめないようにとの配慮だろう、その詳細は、本質を失わない程度にぼかされている。
「……ですから、その間、ずっと側で名前を呼んで差し上げて頂きたいのです。それと、我々がお嬢さんをお探しする手がかりにするために、お嬢さんの小さい頃から最近のお話を聞かせていただけないでしょうか」
「あと、お嬢さんがお腹の中にいらした時に、お母様が聞いてらした曲や音、子守唄などあればそれも教えて下さい」
 セレスティの言葉の後に、シュラインが補足を加えた。セレスティからの話を聞く限り、今の少女の状態は、母の子宮内時期に近いように思えたのだ。なら、お腹の中にいたころに聞いていた声や歌がきっと手がかりになるだろう。
「え、ええ……」
 なかば呆然としながら話を聞いていた母親は、いまだ戸惑い覚めやらず、といった風情ながら、その言葉に応えようとうなずいた。
「あの子は……」
 記憶をたどるように呟いて、しかし、母親の言葉はそこで途切れた。ほんのわずかの沈黙の後に、その唇が細かく震え、母親はわっと声を上げて泣き伏せた。
「こんな……、こんなに思い出せないなんて……。私は……!」
「大丈夫ですよ。気が動転していらっしゃるだけです」
 両手で頭を抱え、首を振る母親に、シュラインが優しく声をかけた。この家に入った時から、シュラインはここに「父親」の影がないことに気づいていた。母親独りで子どもを育てていくのは大変なことだ。いつの間にか大切なものを見失ってしまうくらい、忙殺されないと生活が成り立たないことさえある。その間に小さな行き違いが積み重なってしまったとして、誰がこの母親を責めることができよう。
「まだまだ間に合います。母子手帳とか、昔のアルバムとかは、ありませんか? ゆっくり思い出しましょう」
 しばらく泣きじゃくっていた母親がゆっくりと顔を上げる。涙で濡れた顔に、ほんのわずかながら泣き笑いの表情が浮かんだ。

 翌日、シュラインたちはセレスティが提供してくれたホテルの一室に集まった。セレスティ、モーリス、みそのに加えて、問題の少女と母親、そして三下と碇。これだけの人数になると、さすがに編集部で眠るわけにはいかないというセレスティのはからいだ。
 下手な一戸建てよりも広いのではないかと思われるその部屋には、人数分の豪華なベッドが並んでいた。同室にしているのは、「向こう」で何かあったときに、「こちら」でも誰かが対処できるように、という配慮があってのことだろう。
 ちなみに、三下が戻って来れるよう呼びかけてくれるようにセレスティに頼まれた碇は、多忙な中、編集部を離れることに難色を示したが、1時間経っても起きない時には自分たちを起こして欲しい、とシュラインが頼めば、快諾してくれた。碇の中で、三下と仕事と友人の優先順位はかなりはっきりしているらしい。
 シュラインは持ち物の中からMDウォークマンを取り出した。混沌の中で自分を見失わないように、自分の名前や趣味、生育歴、家族友人、そして大切な人のことを吹き込んでおいて、これをイヤホンで聞きながら眠るつもりなのだ。
 いわば、命綱となる道具だけに、うまく動いてくれなければ困る。何度も繰り返した動作確認にもう一度とりかかろうとしたシュラインの視界に、ふとみそのの姿が映った。
 興味深げにわずかの笑みをたたえ、部屋を見回しながら、みそのは上着を脱ぐ。と、その下から現れたのはシースルーのネグリジェだった。大人びた雰囲気をもっているとはいえ、まだあどけなさを残した顔立ちに、豊満な身体をうっすらと透けて見せるネグリジェ姿は、その微妙なギャップさえもがどこか貫禄にも似た妖艶さを漂わせる。覚えず苦笑を浮かべたシュラインに気づいたのか、みそのは微笑みをたたえたまま振り返る。
「今度シュラインさまもご一緒にいかがですか?」
「……考えておくわ」
 再び苦笑を浮かべ、シュラインはウォークマンのイヤホンを耳に差し込んだ。
「さて、そろそろ始めましょうか」
 眠らずに「こちら」に残る少女の母親と碇に、これからのことを最終確認してから、セレスティが声をかけた。
「ええ、わたくしはいつでも」
「準備はできているわ」
 みそのはゆったりと返事をし、シュラインも締まった顔で頷いた。
「では」
 とモーリスが各人に小さな香炉に入った香を配る。シュラインはそれをしばし見つめ、火を点けて枕元に置いた。次いで、モーリスの能力が発動し、シュラインの周りに見えない檻が現れる。
 シュラインは隣のベッドに目を遣った。眠り続ける少女の手を、母親がしっかと握りしめ、耳元でその名を呼び続けている。シュラインはひとつ息をつくと、自分のベッドに身を横たえ、意識を深く沈めていった。耳元では、イヤホンが繰り返し、シュラインを形作る要素を伝えていた。

 薄暗く、長い廊下が続いていた。両側にはいくつもの扉が並んでいる。楽しかった思い出が閉じ込められているというその扉の向こうにいるのは誰だろう、ふと浮かんだそんな考えを振り払い、シュラインは耳元に意識を集中させた。イヤホンの声はしっかりと聞こえている。
 意を決し、シュラインは先へと歩き始めた。幾重にも響く足音は、まるで反時計回りに渦を巻いているようであり、過去へ過去へとさかのぼっている印象を嫌でも強くする。
 やがて突き当たりへと行き着いた。そこには話に聞いていたとおり、黒くて重い扉が立ちはだかっている。シュラインは再びイヤホンの声を確認すると、ゆっくりとその扉を押し開けた。
 途端、ふっと先ほどの廊下も、扉もかき消すようになくなった。代わりに深い深い闇がまるで押し寄せ、あっという間にシュラインを飲み込んだ。あたかも、砂でできた城が満ちつつある波に削られるように、シュラインの意識の一部は周囲へとさらわれ、同時に、周囲がシュラインの中へと入り込み、そしてイヤホンから聞こえる声に導かれるように元に戻る。
 耳から延びるアリアドネの糸によって、自我を見失わずに済むことはシュラインにいくばくかの安堵をもたらしたが、それでも自分の輪郭が溶け出すような感覚は、心地よいとは言いがたいし、気を抜けば闇にさらわれてしまうかもしれない、という危機感が常に心のどこかにある。できれば、早いうちに少女と三下を連れ戻したいものだ。
 シュラインは、得意の声帯模写で母親の声を真似て、この闇のどこかにいる少女に呼びかけた。何らかの反応を示す影なり物音なりがあれば、と思っていたのだが、これだけ自我がバラバラになりそうな空間では、それもまた難しいかもしれない、と頭の隅で考える。
 と、不意に闇が揺れ動き、その中から浮かび上がるように2つの人影が現れ出た。
「セレスさん、モーリスさん……」
 シュラインは目を丸くして2人の名を呼んだ。
「これは……?」
 モーリスも訝しげに眉を寄せる。
「私は今、彼女の名前を呼んだけれど……」
 もし、この事態が何らかの行動の結果によるものなら、思い当たることは1つしかない。
「私もです。……モーリスもですね。」
 金髪の部下は黙って頷くのを見て、セレスティはどこか感慨深げに続けた。
「これは興味深いですね。同じ目的をもって同じ行動をとった、ということで知覚を共有できるようになったということでしょうか」
「そういえば、周りからの侵襲がだいぶ弱くなったわ……」
 他者を認識し、自分もその相手に認識されていると意識することは、もっとも「自分」を確かに留めておく方法なのかもしれない。シュラインは慎重にイヤホンを外した。どうやら、大丈夫そうだ。
「どちらにせよ、ありがたいことです。あの、自分が溶け出す感覚はどうも快適とは言いがたいですからね。……さて、では『彼女』を探しましょうか。といっても、仮の彼女を形作ると言った方が正確かもしれませんけれどね」
 何せ、ここにいるメンバーは、彼女のことを直接知っているわけではない。どれほど彼女の情報を集めたところで、それが本来の彼女と同じような人格を形作る可能性は極めて低い。最終的には彼女が自分で自分を取り戻してもらわなければならないが、その補助として、ある程度の形は作ってやる必要があるだろう。
 セレスティの言葉に頷き、3人は闇の中、母親から聞いた少女の生育歴や嗜好物を次々と呼びかけた。それはちょうど、彼女のかけらを拾い集めるような作業だった。深い闇は、3人の言葉に反応するかのように、うねり、うごめきながらアメーバのような塊を作り出す。そして、やがてそれは人に見える形をとりつつあった。輪郭は曖昧だが、おぼろげながら顔のあたりには表情のようなものも読み取れる。
 今なら「彼女」の意識の部分にも届くかもしれないと、シュラインは母親から聞いていた子守唄――それは、「ねんねんころりよ」で始まるごく一般的な歌だったが――を口ずさんだ。
「……歌……? 知ってる……? 懐……かしい? ……声……? ……少し……違う?」
 空気が揺らめくような音で、影は呟いた。その口調には、どこか違和感を感じているような響きが残っている。
「よく耳を澄まして下さい。キミのお母さんが呼んでくれているはずですよ」
 若い頃の母親と声色が違っていたのかもしれない、と歌うのを止めたシュラインの横で、セレスティがさらに呼びかける。
「……歌……。聞こえる……。……お母さん」
 しばし、黙って揺らめきながら耳を澄ましていた影が、不意にはっきりとした言葉を紡いだ。途端、その姿は揺らめきながら、はっきりとした輪郭を形作り、一人の少女へと変貌した。彼女が自我を取り戻したと見たモーリスが能力を発動させ、迷い込む以前の姿へと戻したのだ。
「ここは? あなたたちは……? ……私……」
 戸惑う彼女に、シュラインたちは簡単に自己紹介をした。自分たちの名前を知っていれば、彼女もこの空間で比較的楽に自我を保てるはずだ。
 セレスティが少女に事情を説明している間に、シュラインは碇の声で三下の名を呼び、彼についての情報を矢継ぎ早に付け足した。が、全くといっていい程反応がない。
「妙ですね。三下くんは今も昔もあのキャラクターですから、すぐに見つかると思っていたのですが……。もしや、跡形もなく拡散してしまったとか……」
 傍らでモーリスが軽く首を傾げ、物騒な言葉を口にする。
「そういえば、みそのさんもいないわね……。みそのさん?」
 そのシュラインの声に反応するかのように、みるみるうちに闇が凝集し、少女の姿を形作った。
「はい?」
 少女はおっとりとした笑みを浮かべる。間違いもなく、海原みそのその人だった。
「三下くんが見つからないんだけど」
 そう告げたシュラインに、みそのは微笑みをさらに深いものにした。
「三下様なら、先に戻られました。碇様がお呼びとのことで」
 おそらく、みそのによって自分を取り戻した途端、三下は碇の叱咤に脊髄反射で反応して、飛んで帰ったのだろう。
「……三下くんらしい、んでしょうね……」
 ぼそり、とどこか悔しそうに呟いたモーリスが、せっかく、より三下くんらしく、あるべき姿に戻してあげようと思ったのに、と意味ありげに小声で付け足したのを、シュラインはしっかりと聞き取っていた。
「ではここには長居は無用ですね。戻りましょう」
 セレスティがそう言っていたわるような視線を少女に向け、少女はしっかりと頷いた。
 
 歌が聞こえる。母親の歌う子守唄が。それは、先ほどシュラインが歌ったものと同じ、そして違うものでもあった。
 ――ああ、そうか。
 シュラインは、いまだ曖昧な意識の中、ぼんやりと考えた。
 子守唄を実際にそのままの歌詞で歌う親はほとんどいないだろう。たいていの親は、歌に乗せて子の名を呼び、その時々の自らの願いと想いを歌い込む。それは親と子の絆を証明する、世界に1つきりの歌。それが娘の意識を呼び起こしたのだ。
 ベッドの上に身を起こせば、隣で少女も目覚めたらしい。涙ながらに娘を抱きしめた母親の声が聞こえる。
「戻って来てくれて、ありがとう」
 その言葉にシュラインは、母子手帳の出生のページに記されていた言葉を思い出した。
『生まれて来てくれて、ありがとう』
 この世で初めて娘に贈った言葉を、もう一度口にした母親。母の子宮内にも似た混沌から出て来た娘。この母娘は今、もう一度親子として生まれ直したのだ。
 ふと視線を落とせば、耳から外れていたイヤホンが、シュラインの大切な人の名を告げていた。

 事務所に戻ったシュラインは、自分の携帯電話にメールが来ていることに気づいた。香を提供してくれた友人からだ。結局、モーリスにもらった香を使ったため、彼女にもらったものは手つかずでバッグの中に眠っている。
『シュラインちゃん、香の効き目はどうだった〜? お肌つやつやになるでしょ? デート前にはヒツジュヒンだよ! またいる時にはあげるからね、ガンバレ〜』
 何とも無邪気な文章だ。きっと彼女は、黒い扉の誘惑に惹かれることはないだろう。そのメッセージに苦笑しつつも安堵して、シュラインは返信を済まし、携帯電話を閉じた。
「お肌つやつや、かぁ……」
 ちょっと心引かれる言葉に、軽く溜息をつきながら。

<了>

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1388/海原・みその/女性/13歳/深淵の巫女】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2318/モーリス・ラジアル/男性/527歳/ガードナー・医師・調和者】
【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】

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■         ライター通信          ■
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こんにちは。ライターの沙月亜衣と申します。
この度は、前編から大幅に時間を開けてしまったこと、改めてお詫び申し上げますとともに、前編から引き続きご参加下さったPC様、後編から新たにご参加下さったPC様に心からお礼を申し上げます。

皆様のおかげで、問題の少女と三下くんは無事(三下くんは「三下くん属性?」がより強化されたようですが……)戻ってくることができました。ありがとうございます。そして、おつかれさまでした。
今回、解けない謎も残ってしまいましたが、当初の目的は達成されたということで、ひとまず筆を置かせていただきます。
続編を企画するかどうかは未定……です。

シュラインさま、初めまして。この度は当作へのご参加、まことにありがとうございます。
少女が自分を取り戻す決定打となった母親の子守唄は、母親に会った時に子守唄を聞くというシュラインさんのプレイングより生まれました。これがなければ救出作業にもう少し手間がかかっていたかもしれません。
そのこともあって、今回は母娘関係をテーマにかかせていただきました。お気に召せば幸いです。

なお、今回、各PC様ごとに、おまけ程度ですが、違いがございます。お気が向かれれば、他の方の分にも目を通してみて下されば幸いです。
ご意見等ありましたら、遠慮なくお申し付け下さい。できるだけ真摯に受け止め、次回からの参考にさせて頂きたいと思います。
それでは、またどこかでお会いできることを祈りつつ、失礼致します。本当にありがとうございました。