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<東京怪談ノベル(シングル)>


変望刻


 囚われ、逃げる。捕らわれ、選ぶ。


 人里離れた山奥に、退魔一族がひっそりと生活しているのだという。一見、どこにでもある村に見えるものの、その村における建物の配置や人の振る舞いが、確かに退魔という特殊な存在を思い起こさせる。
「……これは」
 そんな村で、一人の赤ん坊が誕生した。産湯につけられて泣き叫ぶ赤ん坊は、産婆を始めとするその場にいた人間を、一瞬の内にはっと息を飲ませた。
「これは、なんと……」
「なんと……美しい」
 人々は口々にそう言い、赤ん坊を見つめた。
 透けるような白い肌に、泣き止んで皆を見つめる目はくりっと大きく、通った鼻筋ときりりとした口元。それは赤ん坊に対してよく言われる形容詞である「可愛らしい」という言葉より、通常は赤ん坊には使われない「美しい」という形容詞が自然と出てくる。
「美しい……」
 ほう、と溜息が漏れる。
 ただ綺麗で、美しいと言う訳ではない。背筋がぞくりと凍るかのような、神がかり的な美しさがその赤ん坊にはあったのだ。
「しかし、この美しさもいずれは衰えるだろう」
 一人の村人が、そう呟いた。いくら赤ん坊が美しいとしても、その美しさが持続するのはあまり例を見ないことだ。
 だが、産婆は静かに首を振った。
「……恐らくは、このままだろうよ」
「何故、そう思う?」
「長年の勘としか言いようは無いがね。……この子は、このまま美しいままだろうよ」
 産婆はそう言い、美しい赤ん坊の頬をそっと撫でた。
 そして、産婆の言う通りに赤ん坊は美しいまま、十年の時を経た。背筋が凍るほど、美しい少年に。


 雷鳴の轟く、暗い夜だった。
 夜は二度と明けないのではないかと疑いたくなるほどの、暗雲がうごめていている空だった。暗く、重く、圧し掛かるかのような空。
「……ここにいなさい」
 美しく成長した少年は、母親にそう言われて襖の中に押し込められた。少年が母親の裾をきゅっと掴み、行かないで欲しいと目で訴えるが、母親は優しく微笑んで少年の頭をなでただけだった。
「大丈夫。……大丈夫だから」
 母親はそう繰り返し、裾を持っていた少年の手を優しく振り解いた。
 その時、どこからか悲鳴が響いてきた。「きゃあぁぁ!」という若い女性の叫び声が聴こえた。割合に近くに住んでいる、近所のお姉さんの声だ。
 少年はガタガタと震え、再び母親の裾を掴もうと手を伸ばした。だが、その手は優しく母親の手に包まれただけであった。
「いいから、ここにいるのよ」
 母親はそう言い、ゆっくりと襖を閉めた。少年は襖を開けようとしたが、再び聞こえてきた「うわぁぁぁ!」という叫び声にぴたりと手を止めてしまった。隣に住んでいる、人の良いおじさんの声だ。
 ザア、という雨からバタバタと言う強い音に変わった。それでも、叫び声は絶えることなく聞こえて来る。それも、知った人の声ばかりが聞こえて来る。
 優しかった人たち、大事にしたいと思った人たち。その人たちの叫び声は、激しい雨音の中で耳を塞いでも聞こえて来る。
 少年は逃げ出したい気持ちを必死で押さえこみ、同時に泣き出したい気持ちをも押さえ込んだ。実際は、恐怖で声も出ないし、指一本動かす事も出来ないのだ。
 できることといえば、耳を塞ぎ、小さく縮こまっている事だけだ。
 ばたん。
 少年は、その音にはっとして顔をあげた。その音と共に、外の雨音が更に大きくなった。家の戸が開いてしまったのだ。
 ついに、少年宅まで到達してしまった。
「……立ち去ってください」
 母親の、毅然としている声が聞こえた。だが、相手の声は全く聞こえない。何かを言っているのかもしれないが、雨の音でかき消されている。
 否、雨の音だけではない。
 少年の体を波打つ鼓動が、心臓の音が、音を遮断していた。どくんどくん、と大きな音で鳴り響いてたまらない。
 そんなに大きな音を出したら、ここにいることがばれてしまうと言うのに。
「どうしても、去らないと言うのですか。その血塗れた体で……!」
 少年の体が、びくんと波打った。
 血濡れた体。真っ赤な体。赤く染まった全身。
 見たわけでもないのに、毅然と言い放つ母親の言葉だけで容易に想像してしまう。勿論、相手の顔や体格はよく分からない。イメージとして浮かんでくるのは、赤い体をした男というだけだ。
 母親の前に、そんな赤い男が立っている。
「立ち去りなさい!」
 声を荒くしながら、母親が言い放った。途端、少年の体が再びどくんと跳ねた。
 それは、予感ではなく確信だった。
 母親が殺される。目の前に立っている男によって、殺されてしまうのだと。少年はそう確信してしまった。
 そうして、少年が小さく「あ」と呟いた瞬間、雷が近くに落ちた。ドゴォン、という爆発のような音であった。
 少年は耳を塞ぐ事も忘れ、ぽたりと涙をこぼした。手がわなわなと震え、開いた口は閉じる事をしない。
 少年の耳に聞こえたのは、雷鳴と共に聞こえてきた母親の叫び声であった。
 母親は死んでしまったのだ。突如やってきた殺人者によって。真っ赤な体をした男によって、殺されてしまったのだ……!
 少年がうちひしがれていると、突如襖が開いた。目を見開いた先にいたのは、全身を赤く染めた男であった。少年の生まれ育った村の人たちを殺し、母を殺した男である。
 それなのに、少年は逃げようとはしなかった。逃げる気力すら湧かなかった。隠れていろといった母親は、既にこの世にはいない。優しかった村人たちも、誰もいない。それなのに、どうして生きてなどいようか……!
 しかし、男は少年を殺さなかった。にやり、と下品な笑みを浮かべ、少年を掴んでそのままどこかに向かってしまったのだった。


 少年が連れてこられたのは、闇の世界であった。
 あの雷鳴轟く悪夢の夜に入った、襖の中の世界よりも尚も暗い闇の世界。太陽の光が届かぬ地下室に、少年はぽつりと存在していた。少年の首につけられたのは鎖であり、その他には何も身につけてはいなかった。
 少年は、彼の持つ美しさによって生かされたのだ。人間ではなく、奴隷という身分に成り下がって。
 毎日が悪夢で、地獄だった。動けばじゃらりと鳴り響く鎖が解かれることは無く、また拒否する事も出来ぬまま男の性欲を満たす事だけを強いられた。
 だんだん意識と存在が曖昧になりつつあった少年の耳に、地下室の扉が開く音が響いた。またか、とぼんやりと考えていた少年であったが、そこにいたのはいつもの殺人気ではなかった。
「……契約だ」
 突如声が響いた。闇が支配し、光の届かぬ地下室に、全く聞いたことの無い声が響いたのだ。
 ゆっくりと顔をあげた少年に、それは再び口を開いた。
「私は悪魔だ。……どうだ、契約をしないか?」
 少年はぼんやりと考え始める。契約、という言葉だけを頭の中で繰り返して。
「私と来るなら、自由と今以上の快楽を与えよう」
 自由、快楽。
 ああ、ああ。どんなに待ち望んだ事か、どれだけ渇望していた事か。
 しかし、悪魔は「だが」と言葉を続ける。
「お前は人間を捨て、悪魔となる」
 気付けば、少年は頷いていた。
 今が人間なのだと、どうして断言できようか。悪魔として契約をし、ずっと渇望していたものが手に入るのならば、どうしてそれを拒否できようか。
 少年は願った。契約をと求める悪魔の手を、じゃらりと鳴り響く鎖にも構わずに。
 契約を、と少年は呟き、同時に小さく口元だけで笑むのであった。

<変わる事を望む刻にて・了>