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てのひら
ある平日の――妹が遊びに出かけている時刻。
(お父さん、どうしたんだろう)
急に帰ってきたお父さんを横目に見つつ、あたしは疑問に思っていた。
いつも突然家に帰ってくるお父さん。大抵裏で“何か”しているんだけど……。
(もう三日経つのに、何かをしている様子もないし)
「みなも、どうしたんだい? ボウっとして」
「ううん、何でもないの」
「そうか。……じゃあ、もっとこっちへおいで」
お父さんはテーブルの上にアルバムを広げていた。小さなあたしがたくさん写っているのを熱心に眺めて、その一枚一枚をあたしに見るように勧めるのだ。
――あたしは苦笑した。
三日間ずっとなんだもの。
お父さんはお仕事をする代わりに、常に家に居た。
毎日アルバムを見て――そうそう、その前には、居間を締め切ってクーラーをつける。
しかも、寒いくらいに。
「六月なのに」
勿体無いなぁ、と思いながら呟くあたしに、お父さんは笑みで返した。
「これくらいが丁度いいんだよ」
そしてグラスについだお湯の中へ、花の形をした塊を一つ落とす。
妖しい匂いが漂い初めたのち、カーテンを閉め、電気を薄暗くして――お父さんはアルバムを開く。
薄暗い部屋、むせ返る程の強い香り、その中でお父さんはあたしの耳元に小声で呟くのだった。お父さんと二人で、幼い頃の自分の写真を眺めている光景は異様で――少し怖いような、ドキドキするような気分になってくる。
「何だか悪いことしているみたい」
そう言ったあたしに、お父さんは低く笑う。
――そんなことはないよ。
「変わった匂い……」
――慣れるさ、すぐにね……。
自分たちの家の中なのに、あたしたちはヒソヒソと話していた。
親に隠れてかくれんぼをしている子供みたいとあたしが言う。そして低い笑い声。
やがてお父さんは一枚の写真をアルバムから出した。
微かに触れ合っているお父さんの胸が小刻みに震えている。
「笑っているの?」
――少しね、見てご覧。
目が慣れているから、見るのに苦労はしない。それはあたしの部屋の写真だった。
小さな子供用のテーブルの上にクレヨンの箱が置いてある。開いた窓から風が入ってきているのだろうか、画用紙が数枚飛んでいた。
――みなもが三歳か四歳のときだろう。
「うん」
写真はまだ色あせていなくて、ずっと眺めていると、この中へ飲まれてしまいそうなくらいに綺麗な写りをしている。
けれど、肝心のあたしがいない。
――さぁ、みなもは何処へ行ってしまったんだろう?
「……」
お父さんの唇の先が静かに伸びて――……愉快そうに喉仏が動いている。
「どうしたの?」
あたしが訊くより前に、お父さんは立ち上がって部屋の電気をつけた。
その頃にはあの匂いもしなくなっていて、そればかりか花の塊さえ溶けて消えているのだった。
(変なの――)
そして数日が過ぎた。
休日の午前。
(何だか頭がボウッとする……)
ここ数日は頭の回転が鈍くなってきているような気がする。
(それに)
景色がぼやけることがあるのだ。
(疲れているのかなぁ……)
目を細めると、やっぱり景色が遠のくような感じがする。水で薄めたような視界のずっと奥に、誰かがいるような幻さえ――。
(あの小さな影は)
幼い頃のあたし?
まさか!
(やっぱり疲れているんだ)
あたしは掃除機のスイッチを切って片付けてから、額の汗を拭った。
風のある日だけど、部屋には熱気が篭りがちで蒸し暑い。
(あ、そうだ)
ちょっと時期が早いけど、麦茶を冷やしていたんだった。区切りも良いし、休憩にしよう。
二人分コップに注いで、テーブルに置いた。
「みなもはいつも忙しそうだね」
「そんなことないけど」
あたしは肩をすくめた。
家事と勉強の両立――それはあたしの担当だもの。
やろうと思えば出来ない筈がない。
でも忙しさを感じているのも事実だった。それにアルバイトもある。
「時間の使い方が下手なのかなぁ」
「そんなことはないさ」
そう言ったあと、あんまりお父さんがあたしの顔を眺めているものだから――あたしは恥ずかしくなって俯き加減にコップを揺らした。
カラン。
氷の心地良い音がする。
お父さんは慣れた手つきでカーテンを閉めてからクーラーをつけて、こちらを見た。
「みなもの部屋の窓も、閉め忘れると大変だから今閉めてきたらどうだい?」
「う、うん」
あたしはフラフラと立ち上がって、自分の部屋へ向かった。
眩暈がする。
さっきまではしなかったのに。
(飲み物を飲んだのが悪かったの?)
さっきから鼻に纏わりついてる、あの匂い。
積みすぎた積木のようにグラグラと揺れている視界。
その向こうにいるのは、
部屋の中央で立ち止まった。
窓は開いている。
当たり前だ、自分で開けたのだから。
(だけど)
(だけど)
この散らばっている画用紙は?
このテーブルは何処から?
このクレヨンは?
(何処から?)
(ああそうだ)
(何処から?)
(そうだったんだ)
身体に鈍い痛みが走った。
「あ、あ、あ……」
(あたしは、)
掌が目の前でどんどんと小さくなっていく。
胸の膨らみは徐々にしぼんで、
(どうして)
(怖い?)
(助けて)
(ううん)
(あのね、)
(うれしいの)
(助けて!)
(パパがね)
(パパがね)
(お父さん、早く来て!)
(今おうちにいてね)
(お父さん!!!)
(今日ね、おえかきにつれていってくれるって)
むせ返るような、匂いがする。
蝶々みたいにフワリと飛んだ画用紙。
「あ、だめー!」
必死に掴まえようとするけれど、大きな服が邪魔で上手くジャンプできない。
慣れない動きで飛び跳ねていると、後ろから手が伸びてきて身体を持ち上げられた。
「パパ!」
みなもは安心感で笑っていた。お父さんという言葉をこの前お母さんに教わったけれど、まだ上手く口に馴染まないのだ。
「みなも、コケてしまうよ。……ほら」
お父さんは集めた画用紙をみなもに手渡した。
「そんな大きな服を着ていたらいけないね。みなもはまだ三歳だろう?」
みなもはニッコリしながら、こくりと頷いた。窘められたことよりもさっき抱っこされたことが嬉しくて、せがむようにお父さんの足に抱きつく。
「今は駄目だよ。みなもがその服を脱いで、ちゃんと着替えるまで抱き上げないよ」
みなもは数度目を瞬いて考えてから、再び頷いて着替えるのだった。
「おえかき、いくの?」
「そうだよ」
「いつ? いつ?」
「今からだよ。お弁当作って、そうだな……原っぱへ行こう」
「みなもね、おにぎりさん作れるの」
「それは凄いな」
みなもは小さな掌を水で一度濡らしてから、まずは“お父さん用に”大きなオカカおにぎりをこしらえた。
火傷をしないか心配するお父さんを余所に、みなもは小さなおにぎりと大きなおにぎりを作っていく。いくつか握り終える頃には、手はご飯粒で一杯になっていた。
原っぱに行くならヒラヒラのスカートよりもキュロットを着せるべきかとお父さんは考えたけれど、それはみなもが嫌がったのでやめにした。幼児は幼児なりにお気に入りがあるらしい。
「きゃろっとは、やぁ」
キャロットとキュロットが混ざってしまう年頃のみなもは、舌足らずの口調でそう主張するのだった。
お弁当と画用紙、それから新品のクレヨンを持って、二人は手を繋いで歩いた。
「しっずかっな ごっはんの もっりの かげっから」
「“こはん”だよ、みなも」
「こ……?」
みなもは首を傾げた。三歳の子供の頭には湖畔という言葉はない。
「ははは」
「パァパも歌わないとだめー」
「ごめんごめん」
「しっずっかな ごっはんの もっりの かげっから……」
「静かな 湖畔の 森の影から……」
シートを忘れてしまったので、みなもはくすぐったそうにしながら草の上に座ると微笑みながらおにぎりを頬張った。(具が梅干に当たったときだけは口をすぼめたけれど)
お父さんの作ったから揚げを食べ、指についたご飯粒を残さず口に入れると、みなもは心の底から楽しそうに身をよじらせた。
「みなもね、みなもね」
この幼い子はよく喋った。
み・な・も。自分の名前をちゃんと言えるようになってから、みなもは自分のことを名前で呼んだ。
「あのね、みなもね」
そこでちょっと言葉を詰まらせる。名前を口に出してお父さんに話しかけたいとは思うものの、何をどう話せばいいのかわからない時期なのだ。
おえかきするの、とみなもは板の上に画用紙を置いて、小さな画伯になった。
「パパをかいてもいい?」
そう訊いてお父さんの承諾をもらうと、片手でしっかりと握ったクレヨンをビッと前へ突き出した。それは以前読んでもらった絵本に出てきた“絵描きのおじさん”がやっていたポーズで、勿論みなもは意味を知らない。
けれどみなもはクレヨンをお父さんに合わせると、片目を瞑って「んー……」と真剣そうな声を出した。
真っ白の画用紙に、青色で丸を一つ。そこにグリグリと顔らしきものを描いて、みなもは嬉しそうな表情を浮かべている。
あたりにはアジサイを描いた。まだ“地面”というものを解していないので、画用紙の中で皆宙に浮いている。シャボン玉みたいに。
お父さんの隣には赤色でお母さんを、桃色で自分を載せた。ゴチャゴチャした絵なので、説明されて初めてそれが人なのだと理解できる程だったけれど、この年齢ではそれが当たり前だったし、みなもは大真面だ。
「上手だね」
頭をそっと撫でてもらい、笑みを顔一杯に広げるみなも。
少しだけ得意になる気持ち。
みなもはクレヨンを仕舞うと、お父さんの膝の上に身体を乗せた。
「みなも、すごい?」
頬をお父さんの臍のあたりにつけて、見上げる。
「すごい?」
「うん、凄いね」
瞳を潤ませて、みなもはまっすぐにお父さんを見ていた。
小さな桜色の唇がはにかむように笑って、みなもはお父さんに抱きつきながら身体をピョコピョコと上下に弾ませた。
「みなもは良い子だから」
と、お父さんは自分の身体を仰向けに倒し、みなもを抱き上げて手足でゆっくりと回転させ始めた。それは二人の間で“ひこーき”と呼んでいる遊びで、みなもはこれが大好きだった。
風車のようにスカートが揺れて、そこにみなもの笑い声が重なる――やがて、「もっと、もっと」という声と、苦笑する声が交じり合って広っぱに響いていた。
乱れた息をするお父さんの胸の上で、みなもはクスクスと笑っていた。
もうねだっても無理だぞ、と釘を刺す言葉にみなもは笑顔で言う。
「わがまま言わないもん」
パパを困らせたりしないもん。
「パパ、だいすき」
みなもの柔らかな声に、お父さんは照れたのか何も言わず――代りにみなもの髪を指でスッと梳いたのだった。
――お昼寝しようね。ゆっくり目を瞑って眠りなさい……。
――うん。
あたたかい腕の中でみなもは安心して目を閉じた。
(パパの匂いがする)
夏の日差しに強められて
(まるで)
(おはなみたいな――)
淡い夢を見る。
「みなも、どうしたんだい?」
(え――)
後ろにはお父さん、目の前には開きっぱなしの窓。
(ない)
テーブルも。
画用紙も。
クレヨンさえ。
「…………あたし」
首を傾げながら、
「中学生、だよね?」
「勿論。忘れたのか?」
「ううん、そういう訳じゃないけど……」
(そうだよね)
あたしは中学生で……――窓を閉めに部屋に入ったんだった。
だけど窓に指が触れたときに、あたしは気が付いた。
窓の外は夕暮れの時刻を迎えている。
(さっきまで午前だった筈なのに)
「お父さん……あたしやっぱり……」
「何だい?」
お父さんは優しい声で訊いてきた。
その手にはあのグラスが握られている。ところがその中にあの花の姿はもうなくて、部屋には何の匂いもしていなかった。
「――あたしが小さいときって、お父さんから見てどんな感じだった?」
「そりゃあ可愛い子だったよ」
「……そっかぁ」
あたしはお父さんに近づいて、額をこつんとお父さんにくっつけた。
「それなら……嬉しいなぁ」
はにかんだ笑いが心を突っついている。
嬉しくて笑っちゃうのも、時間の問題だろうと思われた。
終。
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