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<東京怪談ノベル(シングル)>


彼女がそこにいるならば

 描舞治が漫画を描くことを生業にしてからもう数年が過ぎる。小学五年生で漫画化デビューという偉業を成し遂げて以来、数百冊に及ぶ作品を世に発表してきた。ハイペースとも呼べるその作品発表ペースは今も変わることなく続き、あらゆるジャンルで人気を得るに十分な作品を発表し続けている。常にノートとペンを携帯しており、アイディアが生まれれば忘れる前に場所を選ばず描き始めてしまうほどに治にとって漫画を描くということは大切なことだった。高校生と漫画家という二束の草鞋を履くことは決して楽ではなかったが、それでも漫画を描くということを続けられるのであればと努力することができる。
 今もまた漫画を描くために飽くことなく治は机に向かっている。作品のことを考えている時はその世界だけが総てになる。周囲に存在する多くのものが意識の端からはらはらとこぼれ落ちて、自身の内側から生じるものだけが総てになる。それらを手にしたペンで紙の上に描き出し、目に見えるものとして形にすることで別の世界が鮮明になっていく気がする。
 新たに一つの世界を作り上げるプロセスは治をひどく楽しい気持ちにさせた。特に今、机に向かっている描いている作品は特別にその思いが強い。楽しい気持ちとはまた別の気持ちが漫画を描く行為をいつも以上に充実したものにしてくれる。
 今までも治の作品は確実にヒットをし続けてきたが、この作品はそのなかでも特別大ヒットしている作品である。爆発的なヒットといっても過言ではない。戦う青色の髪のショートカットの女性が主人公であるその作品は、男女問わず若者を中心に幅広い世代に受け入れられてコミックの売り上げ冊数も新刊が発売される度にその数を伸ばし続けている。
 しかしこの作品が治にとって大切なものである理由はそればかりではない。深紅の剣を手に魔物と戦い、己が身を血で濡らす主人公の女性にはモデルがあった。だからといって普段の生活が主人公の女性と同じなのかといったらそうではない。全く違う生活を、作品の世界観とは全く違った生活を現実世界で送っている。治が作品に盛り込んでいるのは女性の性格や外見、考え方といったものだけである。現実世界にいる彼女とは違う、自分なりに昇華した彼女の姿を描き出すのは楽しいことだった。勿論現実との齟齬に違和感を覚えることもないわけではなかったが、それさえも自身が考えた一つの形となって紙の上に現すことができれば治を楽しくさせる一つになった。
 だからといって決して現実の彼女と作品の彼女とを混同しているわけではない。現実とは違う彼女が紙上にいるのだということが、どこか新鮮な感覚となって治を楽しませるだけである。頭ではきちんとそれぞれに別の存在なのだということはよくわかっている。だからこそ漫画を作品の一つとして楽しむことができるのだ。彼女ならこのように考え、このような行動を起こすだろう。そう考えることはまるで同じ一つの出来事を共有しているかのような温かさを与えてくれた。別の場所で別の生活を送る彼女と一つの世界を共有することができているかのような感覚は不思議なものでありながらいつも治の身近にある。彼女が作品のなかで傷を負えば共に痛みを共有し、悩みを抱けばそれを共に解決したいと思う。嬉しいことがあればそれは同時に治のものである。僅かな感情をも共有することができているという喜びは、ペンをとる手に休むことを忘れさせた。
 この作品を描くようになってから、治は週刊誌での連載であるにも拘わらず締め切りに悩むことがなくなった。連載途中に陥りやすいネタ切れに悩むようなこともない。それどころか面白いほどに溢れてくる多くのネタは、総てを描くことが困難なくらいだった。溢れる総てを一つ一つ丁寧に描きたいと思えば思うほどに枚数という規定に哀しくなる。できることなら彼女の総てを描きたいというにも拘わらず、それが困難である現実がもどかしかった。ささいな変化さえも漏らすことなく描き出したい。そうした思いは連載を続けていけばいくほどに強くなる。そして諦めなければならないのだということがとても哀しい。
 展開が一段落ついたところで治はペンを置いた。そして発売前にもらった週刊誌に手を伸ばす。その号は主人公の女性が血まみれになっている姿を仲の良い少年に目撃される話だった。描いている最中もそうだったが、改めて読み直してみてもやはり複雑な感情が生じてしまう。簡単に片付けられないそれは、もし自分が思いもよらぬ彼女の姿を現実で目にした時にどのような反応をすべきなのかどうかと考えてしまうことに由来する。作品のなかの少年は驚きながらも彼女を傷つけないような反応をとるが、果たしてそのような冷静な対応が自分にできるのかどうかは定かではない。嫌悪感を露にしてしまうとも限らない。できることなら作品のなかに描いた少年のような反応を返すことができればいいと、そんな切実ともいえる治の願いが今週号にはこめられていた。
 一通り自分が描いたことが正しかったのかどうかを確かめて、治は雑誌を元に戻す。そしてこれからある予定のために身支度を整え、家を出る準備を始める。今日はこれからサイン会があるのだ。その後は打ち上げになるだろう。きっと帰りは夜になる。そんなことを考えながらも、連載作品の次の展開が治の頭の片隅に離れることなく存在していたのはいうまでもない。