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蝶の慟哭〜水深の蓋〜
●序
体の内を流れるものは、生の証か、幻か。
秋滋野高校という、極々ありふれた高校がぽつりと郊外にある。校則は厳しくなく、それでもある程度の節度を持っている。至極普通の高校である。
高校で使われる水は、一部山の湧き水を使っている。清らかなその水は、水道水に比べて断然美味しいと、生徒たちの中でも評判となっている。
その水を巡り、校内で妙な闘争が起こってしまった。
湧き水を好んで飲んでいる生徒たちの一部が、突如水道水しか飲まない生徒を襲ったと言うのだ。
教師は生徒たちを呼び、話を聞いてみることにした。
「あいつら、薬を飲んでるようなもんじゃん。俺は、それを心配して止めてやってるんだよ」
湧き水を好む生徒たちは口々にそう言い、自らの正当性を説いた。一方、水道水しか飲んでいない生徒は生徒で、それは心配という事からは程遠かったと断言する。
「水道の水を飲んでたら、いきなり掴みかかってきやがったんだ。大きなお世話だっつーんだよ」
教師達は、とりあえずその場は二度とそのような事でもめないように注意し、終わる事にした。
だが、闘争が終わった訳ではなかった。否、それ以上に酷くなっていたのだ。
湧き水を好む生徒たちの一部に、何か問題が起こっているのではないか、と教師達は考えた。変わったのは、明らかに湧き水を好む生徒たちだったのだから。
かと言って、尋ねても何も核心に触れる返答は得られなかった。湧き水を調べても、特に変わったものは何も無かった。
そうしている間にも、原因不明の静かなる闘争が、じわじわと広がりつつあった事にも、教師達は気付かないのであった。
●始
投げられた賽は、留まる事なく転がり続ける。
セレスティ・カーニンガム(せれすてぃ かーにんがむ)は、草間興信所内で険しい顔をしていた。
「また、秋滋野高校ですか」
ぽつりと出てきたのは、溜息混じりの言葉だった。草間はそんなセレスティの言葉に「そう言うな」と呟くように言い、煙草を口元に持っていく。
「俺だって、またかって言っちゃったくらいなんだ。あの高校から、ここ最近で二件目の事件が起こるって事はどう考えたって異常だからな」
草間はそう言うと、依頼書をセレスティの前に置いた。草間の字でさらさらと書かれた依頼書には、秋滋野高校からの大まかな依頼内容が書かれていた。
それに目を通しながら、セレスティは「水……」と呟いた。水霊使いでもあるセレスティにとって、水の関わる事件には数多く出会ってきた。だが、今回は少しばかし違う雰囲気を纏っていた。
「……草間さん、人体の構成を知ってますか?」
「あ?」
煙草に火をつけようとした草間に問い掛け、セレスティは苦笑しながら言葉を続ける。
「人体の大半が水で構成されている、というものです」
「ああ、それなら知ってるが……」
草間が答えたのに対して頷き、セレスティは真剣な顔をして口を開いた。
「つまりは、体内に入れば干渉は容易だと言う事です」
「……湧き水、か」
「そうです。もし湧き水の中に干渉する存在があれば、このような事件を起こす事は用意だと思います」
セレスティの言葉に、草間は小さく首を傾げる。
「しかし、それなら何で干渉される奴と、そうでもない奴が存在するんだ?水ならば、どの人間でも持っているものだろう?」
「これはまだ予想の域を出ないのですが……享受力の違いだと思います。勿論、調査をしなければ断定は出来ないのですが」
干渉を受けやすい人間と、受けにくい人間がいて当然の事だ。だがしかし、草間の言う通り人間なら誰しも水で構成されている。違いが出る理由が、あると見て間違いない。
「……とりあえず、引き受けてくれるんだな」
草間の確認に、セレスティはこっくりと頷いた。
秋滋野高校からの依頼、と聞いた瞬間から、セレスティは何があっても依頼を受けるつもりであった。前回調査した、イチョウの葉の件も手伝って。
「詳しく、教えていただけますか?」
セレスティの問いに、草間は煙草の煙を吐き出しながら、一つ頷いたのだった。
秋滋野高校から依頼がきたのは、前回から二週間経った頃であった。
「度々すいません、草間さん」
秋滋野高校の理事長はそう言いながら、草間の出したコーヒーに手を伸ばした。たまたま事務所内に誰もいなかったため、草間自らが出すという羽目に陥ったのである。
それはさておき、草間が「それで」と口に出すと、理事長はコーヒーカップを再び机に置いて真剣な眼差しで草間を見つめた。
「またイチョウの木ですか?」
「いえ、あれから不思議な現象はすっかりなくなりました。……尤も、今後は違うことが起こったのですが」
「違うこと?」
草間が問うと、理事長は一つ溜息をつく。
「うちの学校内で、密やかに抗争が起きているようなのです」
「はぁ?」
抗争、といわれて思い出すのはヤクザ映画の一場面である。思わず草間は眉間にしわを寄せた。
理事長は件の事件を話し始めた。どうやら、ヤクザ映画とは違う様子である。
「表面上では、そのようないさかいが収まっているようです。ですが、廊下を歩いていても距離を保っていたり、反対のグループに対して悪口を言ってみたりと、小さな喧嘩のようなものは未だにあるようなのです」
「……放っておけば、治まるんじゃないのか?聞いたところ、どうも子どもの喧嘩のようだし」
「確かに、今は子どもの喧嘩のようです。ですが、最初に起こった突如として殴りかかると言う事態が起こらないと、どうして言えますか?」
草間は問われ、小さく唸った。理由が理由なだけに、そのような事が起こりえないとはいえないのだ。
「本当に変になったのは、湧き水を好んで飲んでいる生徒たちなんです?」
「ええ、それは間違いありません。保護者の方にも尋ねた所、最近湧き水を好んで飲んでいる生徒の一部が、水道水に対して異常とも言える嫌悪感を訴えていると言うのです」
「つまりは、学校を離れた場所でも水道水を嫌っていると?」
草間の言葉に、理事長は頷いた。
「ともかく、どうしてそのような事になったのか皆目見当がつかないのです」
理事長はそう言い、再三草間に頭を下げ、草間興信所を後にするのだった。
話を聞き終えたセレスティは、じっと考え込んでいた。草間は煙草の灰を灰皿に受け、セレスティに「という訳だ」と付け加えた。
「……変な感じですね」
「だな。確かに、変な依頼だよ」
「それもありますし……」
セレスティはそう言い、再び考え込んだ。
(個人ではなく、集団を操ったり被害を広げたりするのは、愉快犯に見えるんですが……)
そこまで考え、ポケットに入っている手帳に挟んだイチョウの葉を思い返す。
(学校を試験場にしているようにも、見えるんですよね)
「とにかく、行ってくれるか?何かが起こってからでは遅いからな」
「分かりました」
草間の言葉に、セレスティはソファから立ち上がった。再び、秋滋野高校に向かう為に。
●訪
知らぬ間に存在し、知る頃には何処かに潜む。
秋滋野高校は、以前と変わらぬ雰囲気を持っていた。セレスティは高校を、目を細めて見つめ、小さく溜息をつく。
(何も変わっていませんね……いえ、多少は変わったのかもしれませんが)
セレスティは校舎にかかっている時計を見る。午後2時、つまり午後の授業中である。
「この時間ならば、先に理事長さんに会ってみる方が良さそうですね」
草間から聞いた情報だけでは足りない為、セレスティは高校の校舎内に足を踏み入れた。受付で理事長に取り次いで貰うと、快諾されて理事長室に案内された。
案内されて理事長室に行く間に、セレスティは冷水機をちらほらと見かけた。その隣には、蛇口もある。
「こちらの学校では、山の湧き水も飲み水にされているそうですが、それがあの冷水機ですか?」
案内をしてくれる事務員に尋ねると、事務員は「いいえ」と言って微笑む。
「隣の蛇口が、湧き水なんです。冷水機は、普通の水道水です」
「そうですか。……因みに、貴方は湧き水を飲まれたことがあります?」
「ええ。結構美味しいんですよ」
「そうですか」
にこやかに言うセレスティは微笑みながら頷いた。
(この方は、大丈夫でしょうか?)
ふと気になり、セレスティはそっと口を開く。
「でも、気になりませんか?湧き水は何も手を加えられていないでしょうから」
「そうですねぇ……気になる人は水道水を飲んでいるようですよ」
普通に会話を返してきた事務員に、セレスティは小さく頷く。
(この方は、特に変わったことは無いようですね)
湧き水を好んで飲む人かもしれないが、水道水を飲むことに対して異様なまでの嫌悪感は無いようだ。やはり、干渉をされやすい人とされにくい人がいるのかもしれない。
「こちらです」
事務員はそう言い、理事長室の戸を開いた。戸の向こうでは、座っていた初老の男性がちょうど立ち上がるところだった。
「すまんが、茶を入れてきてくれるか?」
「分かりました」
理事長に頼まれ、事務員は頭を下げて理事長室から出ていった。理事長はセレスティに椅子を勧め、その前に自分も座った。
「申し遅れました。私は草間興信所から参りました、セレスティ・カーニンガムです」
「失礼ですが、リンスター財閥の……?」
「ええ。ご存知でしたか」
「勿論です。……いやはや、リンスター財団の総帥に来て頂けるとは、恐縮です」
「いえ。前回された依頼も引き受けましたので……」
セレスティがそう言うと、理事長は「それはそれは」と言って、再び頭を下げた。
「二度に渡って来て頂けるとは……申し訳ない」
セレスティは苦笑を返しながら「早速ですが」と切り出した。
「こちらの学校にあるという、湧き水と水道水の分布を教えていただけますか?」
「分布は……ああ、これを見ていただいた方が早いでしょうな」
理事長はそう言い、机から見取図を取り出した。それに赤のペンで何箇所か丸をしていく。校舎内は一つの階に一つの丸が三階分、それに校庭に一つと体育館近くに一つ。計5箇所である。
「これが湧き水の蛇口を設置している場所です。同じく、近くに冷水機を設置しています」
「さっき拝見したのですが、冷水機は普通の水道水を用いているのですね」
「はい。……ああ、あとここの湧き水の蛇口は地域住民の方にも使って頂いてます」
理事長はそう言い、校庭にある丸を指差した。
「つまり、この区域の方も湧き水を使ってらっしゃると?」
「そうです。本当ならばそれぞれのお宅に水をひきたかったそうなのですが、何分ここらは古い家が殆どです。湧き水を引く設備ができる前に建てられた家ばかりなので」
「新しい家の方は、湧き水を引いてらっしゃるのですか?」
「それも予算の関係で、できないご家庭が殆どですね。私共の学校に直接尋ねに来られてますよ。水を分けてもらえないか、と」
(なるほど……)
セレスティは頭の中で整理する。
湧き水を引く設備があるのは、現在の所この学校だけだ。しかし湧き水が美味しい事を聞きつけ、ここら辺の地域住民が学校に頼んで湧き水を汲みに来ている、と言う事なのだ。
「それで、源泉はどこにあるんですか?」
「山の中ですよ。と言っても、そんなに遠い場所ではないです」
「山とは、あの裏山の事ですか?」
「そうです。ここから歩いて、10分ほどでしょうか」
「そこを見せていただく事は可能ですか?」
セレスティが尋ねると、理事長はにっこりと笑って頷いた。
「それで何か分かると言うのならば、どうぞ見てやってください。ただ、足場が余りよくないので充分気をつけてください」
理事長はそう言い、詳しい場所をセレスティに伝えた。セレスティはそれを手帳に書き込み、再び収めた。
「因みに、その周辺で何かが起こっただとか、そういう事はありますか?」
「それならば、図書館に行ってみてください。話をしておきますので」
理事長は申し訳無さそうにそう言った。おそらく、彼の口から語るよりも図書館で調べた方が早いのか、それとも口に出したくないことがあるのだろう。セレスティはとりあえず頷いておいた。
「では、校内を見せてもらってもいいですか?」
「はい、是非。宜しくお願い致します」
セレスティが立ち上がると、理事長も立ち上がって礼をした。セレスティはそれに対して軽く会釈し、理事長室を後にした。
「では、まずは湧き水から見せていただきましょうか」
セレスティはそう言い、理事長から受け取った地図を手に歩き始めるのだった。
●水
感情と同じく流れ、落ちていく。ゆっくりと、だが確実に。
セレスティは校内を回り、それぞれ設置されている蛇口から少しずつ瓶にとってラベルを貼り付けていった。
蛇口から出る水は冷たく、澄んでいた。
「流石は湧き水、といったところでしょうか」
セレスティはそう言って小さく微笑んだ。すでに手に入れた水の小瓶は四つ、あと一つで全ての箇所の水が揃う。
「あとは……校庭にある、近隣の方も汲みにこられる所ですね」
セレスティは小さく呟き、校庭の蛇口へと向かう。すると、ちょうど汲みに来たらしい中年女性がペットボトルを持って立っていた。足元に一本置いてある所を見ると、二本分汲みに来たらしい。
「こんにちは」
セレスティはにこやかに微笑み、話し掛けた。女性は突如表れたセレスティに「あ」と声を上げた。綺麗な顔をしたセレスティに、驚いたのだろう。顔を赤くし、何故か服をぱんぱんと叩き、俯きながら小さな声で「こんにちは」と答えた。
「ここには、水を汲みにいらしたのですか?」
「え、ええ。……ほら、ここの水は山からの湧き水で、とても美味しいので……」
相変わらず頬を赤らめたまま、女性は答えた。セレスティはにこやかに笑ったまま頷く。一つ一つの動作が実に優雅な為、女性をうっとりさせるのに充分である。
「この高校でも、湧き水を好む生徒さんがいっぱいいると聞いたのですが……」
セレスティがそう言うと、女性は少しだけ目を逸らしながら「ええ」とだけ答えた。
(何か聞けそうですね)
女性の様子にセレスティはそう判断し、じっと女性の目を見つめた。どきり、と胸が高鳴りそうな視線である。
「……何があるのか、教えていただけますか?」
セレスティの言葉に、女性は少しだけためらいつつも口を開いた。
「この学校の生徒さん、二つの派閥に分かれているそうなんですよ」
(やはり)
セレスティは心の中で頷く。そんなセレスティの様子に気付かず、女性は先を続けた。
「何でも、水道水と湧き水のどちらを飲むかで争っているとか。私もここの湧き水を飲んでいるから、生徒さんに聞かれたことがあるんですよ」
「それは、どちらの派閥の生徒さんですか?」
「湧き水の方です。……この水が一番美味しいのだから、水道水なんて飲むものじゃないって言ってきましたよ」
「貴方も、そう思われましたか?」
セレスティの問いに、女性は首を振った。
「そりゃ、ここの湧き水は美味しいと思いますよ。でも、だからと言って水道水が飲めたものじゃないなんて思わないし、あんなに憎らしそうにする必要も無いですし」
「憎らしそう、ですか?」
セレスティの言葉に、女性は頷く。溜息混じりに。
「水道水を憎んでいるのでは、と思う言い方だったんですよ。……今までそんな事無かったのに、最近になっていきなり……」
「それは、いつ頃からでしょうか?」
セレスティが尋ねると、女性は「そうですねぇ」と言いながら記憶の糸を手繰り寄せる。
「二週間くらい前でしょうか」
(二週間前……!)
セレスティは思わず目を見開く。二週間前と言えば、ちょうどイチョウの木の調査に来た頃と重なるのである。学校を試験場にしているのでは、と思っていた自分の考えが合っているように思えてくる。
「学校以外では、そのような事は起こっていないんですか?」
「近所の事しか分からないですけど……聞きませんね」
(つまりは、学校限定の出来事と言う事でしょうか?)
ますます、試験場説の信憑性が高くなってくる。セレスティは再び女性に微笑みかけながら、頭を軽く下げる。
「とても参考になりました。有難う御座います」
「い、いえ。そんな……」
女性は再び頬を赤らめる。
「ちょっと入れさせてくださいね」
セレスティは女性に断ってから、最後の蛇口から水を小瓶に取った。これで、全ての蛇口から水を取り終えた事になる。
セレスティは女性に対して更に会釈し、その場を後にした。
「次は……図書館ですね」
セレスティは小さく呟きながら、先程の校庭の蛇口から取った小瓶をポケットの中に収めるのであった。
図書館に行くと、司書が一冊の本をセレスティに渡してくれた。
「これで、分かると思います」
「有難う御座います」
司書から受け取りながら、セレスティはにこやかに礼をした。そして改めてタイトルを見る。
(秋滋野山録……ですか)
セレスティはそっと表紙を開く。そこには、青々とした山の写真が大きく挟んであった。窓の外から見ると、どうやら湧き水の源泉のある山の写真のようだ。青々としている所を見ると、初夏だろうか。
目次を見ると、第一章「山の歴史」、第二章「名称の由来」、第三章「戯曲的逸話」と言う風に分かれている。
セレスティは第一章をぱらぱらと捲る。その中に「水源」という文字を発見し、そこを重点的に見るが、特に何もないようだった。美味しい水が沸き出ている、という事と、それが秋滋野高校の飲み水として一部使われている、という事くらいだろうか。
(という事は……逸話、でしょうか)
セレスティは第二章を飛ばし、第三章を捲った。その中に「水源の逸話」を発見し、目を通す。
「……これは」
内容は、特に珍しくもない、よくある昔話ではあった。山に迷い込んだ旅人が神と出会い、旅人の喉の渇きを癒す為に水を湧き出させた、というものである。だが、問題なのは水に纏わるところであった。
水を飲んだ旅人は、旅を終えた後も水の味を忘れられず、ずっと飲み続けたというのだ。妻や子、多くの人々にも勧めたが、湧き水に執着したのは旅人当人だけ。ついに旅人は湧き水の近くに小屋を建て、住み始めた。そうして毎日何度も水を飲んでいると、再び神が現れて言うのだ。
『汝、我の思いを汲み取る者である。我について来よ』と。
かくして神の使いとなった旅人は、湧き水の水源を護り、時に迷い込んだ旅人の喉を潤す為に道標ともなったというのだ。
「……汝、我の思いを汲み取る者……」
その一節が、妙に気になって仕方が無かった。昔話ゆえ、水を汲み取ると思いを汲み取るというのをかけているのは良く分かる。こういう洒落じみた事は他の伝記にも多く残されているのだから。だが、問題なのはそれではない。
「他にも妻や子を始めとするたくさんの人にも飲ませたのにも関わらず、水に執着したのは旅人だけ……ですか」
セレスティは立ち上がった。本を司書に返し、早歩きで校舎を駆け抜けていく。
「私の考えが間違っていないのならば……」
セレスティはぐっと奥歯を噛み締め、先を急ぐのであった。
●源
此処にいるのが分かって貰えず、此処にいないのを嘆いてばかりいる。
秋滋野高校から歩いて10分、確かに水源に到着した。理事長が言っていた通り、足場は余りよくない。しかし、最近は雨が降っていなかったお陰であろう。特に足を取られる事も無く、無事に辿り着く事が出来た。
水源地はぽっかりとした空間のようだった。頭上にある大きな岩の間から止め処なく水が流れ落ち、下にある中が空洞になっている大きな岩の中に溜まっていっていた。良く見ると、下にある大きな岩の下の方に水道管がついている。これが、秋滋野高校に湧き水を届けているのだろう。
「随分豊富な水源ですね」
これならばあの逸話が成り立つのかもしれない、と妙に納得する。セレスティはゆっくりとあたりを見回し、ふと気付く。
水源の近くに、小屋のようなものがあったのだ。
(まさか、あの逸話の……?)
そう考えてから、首を振った。何時の時代に作られた逸話だったかは書いてなかったが、そんなに新しいものではないだろう。小屋が残っているとは到底思えない。
「誰かが、あの逸話を元に建てたんでしょうかね?」
セレスティは小さく呟き、小屋に近付く。全体的に木で作られた小さな小屋は、どちらかと言えば物置のようにも見える。
そっと中を開けると、柄杓やバケツ、ホースや箒といった道具が置いてあった。実際に物置小屋として使っているのだろう。柄杓やバケツなどは、割合にして新しい。
「……そりゃ、そうですよね。水源として今も使っているんですから」
セレスティが納得した所で、ふと気付いた。何かの気配がするのだ。
(これは……人ではないですね)
何となくある、と言った方が正しいのかもしれない。ちゃんとした「誰かがいる」という実感ではなく、何となく「誰かがいるかもしれない」という直感的なものなのだ。
つまりは、人ではないものが発している気配という事になる。
勿論、動物の放つものとはまた違う。
「……出てきてくださいませんか?」
セレスティが問い掛けると、水を受け止めている大きな岩の中から、ゆっくりと少年が出てきた。鋼色の髪に、透き通る青の目をしている。年は5・6歳くらいであろうか。
「汝、汲み取りし者……か?」
少年は戸惑ったように尋ねてきた。セレスティはじっと少年を見つめながら「いいえ」と答える。
「ですが、貴方に是非会いたいと思っている者です」
「我に?」
セレスティは頷き、そっと口を開く。
「貴方は、選定をしていたのでしょう?あの学校を使って」
びくり、と少年が体を震わせた。だが、震わせただけで何も語ろうとしない少年に、セレスティは尚も続ける。
「最初は、学校を試験場のようにしているのかと思っていました。さもなければ、愉快犯かと。ですが、この水源に纏わる逸話を見て漸く分かりました」
少年は透き通る青の目をセレスティに向けた。セレスティも負けじと少年をじっと見据える。
「旅人の妻や子、その他の人にも水を飲ませたと言うのに、執着したのは旅人だけでした。ここに小屋を建てるほどまでに。そうして結局神の使いとなるわけですが、あれは神が彼を使いとして選定していたのではないでしょうか?」
自分の使いになるに相応しい者を、水を使って選んでいたのだ。美味しい水ならば、多くの人々が飲みに来る。神の使いになるに相応しい人物を選定する為の水を。そうしてその水に尤も執着した者こそが、相応しき人物と言えるのだ。
「あれを逸話と終わらせるのは、簡単な話です。ですが、今起こっている事実を考えた時に、逸話として処理できない事態となっています」
水を飲んだ者の中に、妙に水道水を厭う者が出てきた。水道水を排他してくれる者を探し出す為に、水にその選定要素を入れていた為だと考えれば、納得はいく。
「どうして、水道水を厭うのですか?」
「……相応しくないからだ」
漸く、少年は口を開いた。少年の声ながらも、妙に大人びている口調である。
「相応しくない、とは何に対してですか?」
「この水に、深き所の存在に」
「深き所の存在……?」
セレスティが眉間に皺を寄せると、少年はそっと目を細めながら秋滋野高校を見つめた。慈しむように。
「もう少しで、全てが始まる。始まる為の賽は投げられている。あとは清めなければならぬ」
中々詳しい話を聞き出せない。とりあえずセレスティは、焦らないように言葉を選ぶ。
「水道水だと、清められないと言うのですね」
「そうだ。……不純物が多すぎるが故、深き所に到達せぬ」
「深い所には、何があると言うのです?」
「……本来ならば、このようなことは不本意なのだ」
少年は残念そうにそう言い、溜息をついた。
「一体、どういう事ですか?」
セレスティが尋ねると、少年は青の目を大きく見開いた。そして気付けば、青の目は赤に変わっている。
「……蓋だ。蓋を、開けねばならぬ」
「……その蓋を開けたらどうなるというのです?」
セレスティが問うと、少年はにやりと歪んだ笑みを返してきた。
「もう暴動は起きぬだろう。あとは清めるだけなのだから」
「待って下さい!」
セレスティが叫ぶが、遅かった。少年はゆっくりと水の中に沈んでいったのである。慌ててセレスティは水の中を覗き込み、水霊を呼び出そうとした。
「……どうしてです?」
水霊は出てこなかった。それどころか、水を操る事すら出来ぬ。セレスティは溜息をつき、そっとポケットから小瓶を取り出した。
「そういえば……あの時どうして彼は私のことを『汲み取りし者』と言ったのでしょうか?」
それも、戸惑い気味に。
セレスティは考えながら小瓶を見つめ、ふと気付く。逸話にあった洒落と同じことだ。
「全ての水を汲み取ってきたから……でしょうか?」
秋滋野高校に存在する蛇口から、水を汲み取りし者。つまり、思いを全て汲み取りし者という訳だ。
「……一体、何が起こっているというのです?」
少年は、もう暴動が起きないと言っていた。それはそれで良かった事かもしれない。しかし、何かが動いている事も事実ではあった。
気付けば、夕暮れであった。セレスティは少年がしていたように目を細めながら、赤く染まり行く秋滋野高校を見つめるのだった。
●結
帰着した思いは、踏み出す足を加速する。
草間興信所に提出したセレスティのレポートは、いつになく分厚かった。
「……セレスティ、民俗学的考察まで入ってるぞ」
「そうですか?」
きょとんとするセレスティに、草間は苦笑する。
「論文みたいになってるんだが」
「中々、興味深かったものですから」
セレスティはそう言って苦笑し、ポケットからあの時汲んでいた小瓶を取り出して机に並べた。
小瓶は合計四つ。一つは、草間に頼んで分析に出したのである。
「そういえば、分析の結果が出たそうだ」
「教えていただけますか?」
セレスティが尋ねると、草間は乱雑に書類の置かれた机から、クリップで留められた何枚かのレポートを取り出し、渡した。ぱらぱらと捲ると、成分分析が事細やかにされている。
「特に何も問題は無いそうだ」
「まあ、飲み水として用いられているくらいですから」
セレスティが言うと、草間は首を振った。
「逆に、問題が無さ過ぎて驚かれていたぞ」
草間の言葉に、セレスティはレポートを捲った。そしてはっとしたように口を開く。
「……綺麗過ぎますね」
「だろう?分析した奴が驚いていたぜ。純水に近いのに、純水ではないってな」
(清める為に)
少年が頭の中にちらついた。水道水では清められぬと言う根拠が、綺麗過ぎると言う結果に表れているのかもしれない。
「変な争いは終わったみたいだから、良かったけどな」
「……いえ、終わってないでしょう」
草間の言葉に、セレスティはぽつりと漏らした。終わった訳ではない、始まったばかりなのだという風に思えて仕方が無いのだ。
蓋を開けなければ成らないという、あの言葉が残っているからだろうか。
(まるでパンドラの箱ですね)
セレスティは小さく苦笑した。開けてはならないといわれたパンドラの箱。しかし、開けて最後に残されたのは希望だった。
(希望を得ようと、開けたがっているのでしょうかね?)
机の上に並べられた小瓶を見つめ、セレスティは小さく溜息をついた。純水に近い水たちによって清められ、開かれるかもしれない蓋に思いを寄せながら。
<水の深き所にある蓋が蠢き・終>
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い 】
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■ ライター通信 ■
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お待たせしました、コニチハ。霜月玲守です。この度はゲームノベル「蝶の慟哭〜水深の蓋〜」にご参加いただき、有難う御座いました。
普段出している依頼とは違い、一人の方だけで挑んでいただきましたがいかがだったでしょうか?
このゲームノベル「蝶の慟哭」は全三話となっており、今回は第二話となっております。
一話完結にはなっておりますが、同じPCさんで続きを参加された場合は今回の結果が反映する事になります。
実は、今回のノベル中に「蝶の慟哭」の根本となるキーワードが隠されています。勿論、ただ言葉として隠してあるだけなので、気が向いたら探してみてください。
ご意見・ご感想等、心よりお待ちしております。それではまたお会いできるその時迄。
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