コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


菖蒲と雨月

 
 それは、梅雨入りする前の、少しばかり気の早い長雨が降る日の事だった。
「入れば必ず死ぬ廃墟ですって?」
 アトラス編集部の編集長である碇・麗香の視線が、真っ直ぐに三下・忠雄を捉える。
「そそそそそうなんです」
 めずらしく心惹かれる情報を入手してきた三下の顔は、しかしとても青ざめて冷や汗を垂らしている。
 碇は三下のそんな表情を確かめた後に、フゥンと呟いて目を細ませた。
「そんな廃墟、噂が事実だったら、警察沙汰になっていてもおかしくないわよね」
 そう返した碇の言葉に、三下はごもごもと口篭もった後に俯いた。
 碇が問いを続けようとした時、編集部に一人の男が足を踏み入れ、口を挟んだ。
「その話、俺が続きを話そう」
 黒いスーツに顎ヒゲをたくわえた男。アトラス編集部に出入りするようになった田辺・聖人がそこにいた。
「あら、田辺さん」
 デスクから立ちあがって田辺を迎えた碇に、田辺は口の片側をつりあげて笑みを浮かべる。
「実は最近、鬼が一人、こっちの世界の秩序を乱してるっつう情報が入ってきたんだけれどもな」
 言いつつ、手にしている白い紙箱を碇へと渡す。開けると、その中には多彩な色の洋菓子がおさまっていた。
「鬼ねぇ? それでその鬼が、さんしたくんの持ってきた情報と、どう繋がってるのかしら?」
 田辺の土産を三下へと手渡して、茶を持ってくるようにと命じた後に、碇は田辺に椅子を勧めた。
「その鬼が居座っている場所ってんのが、その廃墟なんだよ。物見遊山に来た連中を、まんまと美味しく食らってるってわけだよ」
「で、ででも、廃墟に入りこんだ人達は、身体的には大きな損傷を受けていないって……」
 茶を運んで来た三下が、おどおどとそう述べる。田辺は笑って頷き、足を組んでカップに指を運んだ。
「鬼にも色んな奴がいるのさ。肉を食う奴もいれば、中身だけを好んで食う奴もいる」
「中身?」
 カップを口に運びつつ、碇が訊ねると、
「魂だけを食うのさ。こう、啜ってな」
 田辺はカップの中の琥珀を喉に流しこんだ。
「フゥン……それは面白そうね」
 呟き、碇は腕組みをする。
「行けば命を落とす廃墟。そこに居座っているらしい、鬼。……調べれば、面白い記事が出来そうだわ」
 紅茶を一息に飲み干すと、碇はおもむろに立ちあがり、編集部内を見渡した。

 + + +

「なるほど……。そういう事なら、ちょっと行ってきてみるわ」
 応接用のソファーに腰をかけ、足を組んだ姿勢をとっていたシュライン・エマが微笑した。碇はその言葉に目を細ませて肩を竦め、「よろしくね」と返す。
 シュラインの横では、マリオン・バーガンディが、田辺作の洋菓子の三つ目を口に運んでいる。
「それで、報酬はあるですか?」
 洋菓子を頬張る口をもごもごさせながら、マリオンは田辺の顔を見やる。田辺は壁にもたれかかった状態で腕組みをしていたが、マリオンの言葉にわずかに眉を寄せ、答えた。
「報酬か。……そうだな、考えていなかった」
「あ、それなら、店頭に並ぶ前の新作スイーツでお願いするです」
 にっこりと微笑みつつ田辺を見上げるマリオンに、シュラインがこぼすように笑みを浮かべた。
「それじゃあ私もそれで」
「新作? アァ、それならもちろんOKだ。いくつでも、希望通りのものを作ってやるよ」
 頬をゆるめ、安堵したように息を一つついた後に、田辺はその目をマリオンの隣へと向ける。
 そこには、ついさきほどまではいなかったはずの少女が一人、腰掛けていた。否、少女、と表現するには、少しばかり小さすぎるかもしれない。
「あれ? あんたは」
「四宮灯火さん。時々こうして遊びにきてくれるのよ」
 田辺が少女に言葉をかけるより早く、碇がそう口を挟んだ。灯火と紹介を受けた少女は、絹糸のような黒髪をさらさらとならしながら、丁寧に頭をさげた。
「鬼……ですか……」
 呟き、テーブルの上に並ぶ洋菓子を眺める。その視線をそのまま横へとずらすと、四つ目の洋菓子をたいらげたマリオンが満面に笑みを浮かべている。
「そう、ね。必要な情報を揃えたら、早々に出かけることにしましょう。現地までの足は?」
「私が運転していくです」 
 シュラインの言葉に、マリオンが茶をすすりながら手をあげた。
「マリオンさんが? そうね、現場はわかりやすい場所にあるのかしら?」
 碇が頷きつつ顎を撫でると、三下がおずおずと口を挟んだ。
「車でしたら、一時間半ほどあれば着くだろうと思うのですが……」
「道路事情によるよな」
 三下の言葉に続き、田辺が口を開く。
「現場までは俺がナビさせてもらう。どうせいくつか質問なんかもあるだろうから、それは向かう途中で話してやるよ」
 田辺の言葉に頷きつつ、シュラインが腰を持ち上げた。
「じゃあ、向かいましょうか。今回のメンバーはこれだけ?」
「あ、実は先に一人、現場に向かってくれてるのよ。退魔なんかの専門家なんだけど、先に行って準備なんかしておきますって」
 碇はそう述べつつ、シュライン達の背後に目を向ける。
「――――ああ、もう一人メンバーが増えるかもしれないわ」
 艶然とした笑みが向かう先を見やると、そこには綾和泉匡乃の姿があった。匡乃は一同の視線を受けつつ、穏やかに笑って首を傾げた。
「暇が出来たので伺ってみたのですが……どうやらちょうどいいタイミングだったようですね」

 + + +

 都心から離れた閑静な場所に、その廃墟は建っていた。周囲には陰湿な印象が漂う林道が続き、その向こうに、ようやく数軒の民家などが確認出来る。
 高峯弧呂丸はその廃墟の入り口で足を止め、言葉なくその佇まいを眺めていた。
 アトラスを出立する際、田辺はいくつかの情報を弧呂丸に寄せていた。
 空には重い灰色の雲が広がり、今にもどっと降り出してきそうな気配を漂わせている。その空が落とす影が、工場跡だという廃墟にさらなる影を生み落とさせている。
 弧呂丸は、見れば一目で陰陽師だと分かるような装束をまとい、手にしている球をざりざりと鳴らした。鳴らしながら言葉を発し、言葉は呪を成して廃墟を取り囲む。
 弧呂丸は廃墟の周りに結界を成したのだった。それは、興味本意で廃墟に足を踏み入れる人間をおさえるためのもの。ある一定以上の能力を保持した者であれば容易に踏み入ることの出来るものではある。結界を張るという処置を施したのは、これ以降、犠牲となる者が出ないようにとの配慮であった。
「あとは、皆さんの到着を待つだけですね」
 呟き、小さなため息を一つ。
 太陽の沈みかけた空から、小粒の雨粒をこぼしだしていた。

 + + +

「おいおいおい、すげぇ速度だな、こりゃ」
 マリオンが運転している車の助手席で、田辺が煙草をふかしながら呟いた。
 車の中には、マリオンと田辺、それにシュラインと匡乃の姿がある。
「灯火さん、無事に現場に着けたのかしら」
 思案気味に告げるシュラインに、匡乃が返事を返す。
「用意しておきたいものがあるとか仰っていましたから、それを探していかれるのでしょうね。先に現場に到着している方もいらっしゃるそうですし、大丈夫だと思いますよ」
 穏やかに微笑みながら返す匡乃に、シュラインは小さく頷いた。
「それじゃあ、田辺さん。いくつか確認しておきたいのだけれども」
「ん? あぁ、了解。お答えしますよ、俺が分かっている範囲でならば」
「じゃあ、まず一つ目。遺体を回収した方がいるっていう事は、厳密には”廃墟に向かった全員が死亡した”わけではないのよね?」
 シュラインの問いに、田辺は煙を吐き出しつつ目を細ませる。
「まぁ、そういう事だな。奴が食うのは人間の魂だけ。肉には興味がない。だから中がカラになったものは、全部外へ放り投げやるわけだ」
「……なるほど」
 メモ帳の上でペンを走らせているシュラインに代わり、匡乃が唸るように呟いた。
「それじゃ、鬼に危害を与えようとしている人だけ襲っているとか、そういう条件があるわけではないのかしら」
「特にそういう条件はないだろうな」
「鬼のお腹が一杯になっているすきに、目を盗んで逃げ出してこれたりって事はないですか?」
 ハンドルを握りながら訊ねたマリオンの言葉に、田辺はかぶりを振ってみせる。
「よっぽど大人数で行って、よっぽど運がいいとかでなければ、可能性は低いかもしれないな。……犬なんかは食い物をどうやって保管しておく?」
「犬、ですか?」
「――――骨なんかは埋めておいて、後で掘り起こして食べるっていうわね」
 ペンを止めて発したシュラインの言葉に、匡乃が小さな声をあげて顔をあげた。
「なるほど。鬼は、食料――捕獲した人間を、次の食事のために保存しておくのですね」
「胸糞の悪い話ではあるが、俺の知る限りでは、そういう事だ」
「じゃあ、もしかしたら、現場にはまだ生き残っている人も……」
「いるかもしれませんね」
 返し、マリオンはアクセルを強く踏みこんだ。

 + + +

 動物か何かが遠くで吼えているような声がして、弧呂丸は不意に目をあげた。
「――――今の声は」
「……人間の……声、だと……思います」
 視線を持ち上げた途端聞こえてきた小さな声に、弧呂丸は急ぎ足元を確かめる。そこには、いつのまにか一人の少女――灯火の姿があった。
灯火はガラス玉のような青色の眼差しで弧呂丸を見上げ、きちんと一礼してみせた後に、その眼差しを真っ直ぐに廃墟へと向ける。
「多分……まだ生きていらっしゃる方が……いるのだと……思います。……それと……一つ、気になることが……」
「気になる事ですか?」
「……鬼は、どうして……このようなことを……しているのでしょう……」
 灯火の言葉に同意を見せながら、弧呂丸もまた廃墟へと目を向ける。
「それは私も気になっていました。なぜ人を食らうのか。また、鬼が奪った人間の魂は、もう元には戻らないのか」
「……わたくしには……鬼は、空腹を満たすためだけに……そのような事をしているのだとは思えません……」
「何か事情があるのだと?」
 灯火は弧呂丸の言葉に頷いて、改めて弧呂丸の顔を見上げた。
「申し……遅れました。……わたくし……四宮灯火と……申します」
 恭しく腰をまげる灯火に、弧呂丸も頭をさげる。
「高峯弧呂丸と申します。……どうやら、私の考えと灯火さんの考えは近いものであるようですね。……先に中に入ってみますか?」
 灯火はしばし思案した後に、ゆっくりかぶりを振った。
「鬼の居場所を……廃墟の中の物達に……訊ねて……みましょう」
 答え、灯火は懐から数本の菖蒲の花を取り出した。
「鬼は……菖蒲の匂いを嫌うと……説話などで読みました。……他の皆様と合流するまで、……慎重に……」
「そうですね。まずは中で情報を集めましょう。多分、中はこの世ならざるもの達で溢れかえっているのでしょうし」
 それを祓いながら進む必要もあるでしょうしね。そう続け、弧呂丸は微笑んでいた表情を一変させる。凛とした面持ちで見据える廃墟の上、暗い雨雲が圧し掛かるように広がっていた。

 + + +

「これが例の廃墟だ」
 陰鬱な印象のある工場跡の門の前で止まった車の中、田辺が煙草に火を点ける。
 本格的に降り出した雨が窓を打ち、陽は一気に落ちてしまったのか、薄闇が辺りに広がり出している。
「工場跡だって言ってたわよね」
 折りたたみの傘を広げながら、シュラインが訊ねる。田辺は言葉なく頷いて、返事の代わりに煙を吐いた。
「灯火さん達は先に行ってしまったでしょうか」
 キーをポケットにしまいながら微笑むマリオンに、匡乃もまた微笑する。
「そうそう、碇女史はともかく、貴方はどうなさりたいんですか? 私達が鬼と対峙したとしたら。捕縛してお渡しすればいいのか、それとも潰してしまっていいのか」
 穏やかに笑う眼差しに一筋の光彩を帯びる。
 田辺は匡乃の顔を見やりながら口許を歪め、楽しそうに肩を竦ませた。
「冥土からの通達は特にない。相手はどちらかといえば本能のみで生きている類いのものだ。女史に渡すだけの資料が揃ったら、潰してしまって構わんよ」
「――――わかりました」
 ドアを開けて降り立った匡乃に続き、シュラインも車外へと降り立つ。マリオンが振り向き、田辺に問いた。
「田辺さんはどうするですか? ここで待ってるですか?」
 返事の代わりに片手をひらひらさせている田辺を確かめ、マリオンは小さく頭をさげてドアを閉めた。
「――――陰気な場所ね」
 雨に煙る景色の向こう、心なし人の鳴き声のようなものを響かせている廃墟を見やり、シュラインがそっと眉根を寄せた。

 + + +

 四体目ほどになる物の怪を祓い終えた後、弧呂丸は振り向いて灯火の姿を確かめた。灯火は弧呂丸の後ろで静かに佇み、青い両目で真っ直ぐ前方を見据えている。
 廃墟の中はそれなりの広さを誇っていたが、作り自体は難しいものではない。大きな廊下を歩き進めてくることで、二人は迷うことなく工場の奥へと進んでこれたのだった。
「この一番奥にある大きな部屋に、鬼はいるのですよね」
 弧呂丸が訊ねると、灯火はかくりと首を動かした。
「……さきほどの物の怪が、……そのように……仰っていました」 
 そう返し、灯火はふと視線を背後へと移す。
「また物の怪でしょうか?」
 灯火の目線に気付き、弧呂丸は毅然とした眼差しで灯火の目線を追った。しかし灯火はかぶりを振って、ゆっくりと片手を持ち上げた。
「皆様の……ご到着……です」
 灯火の指差した方向にある空間が、刹那、ぐにゃりと大きく歪む。次の瞬間にはそこに大きな扉が現れ、ゆっくりとドアが開かれた。
「ほら、追いつけましたですよ」
 開いたドアから姿を見せたのは、満面の笑みを浮かべたマリオンだった。その後ろからはシュラインと匡乃が続き、周囲の様子を観察するように視線を動かしている。
「便利な能力ねぇ。旅行とか行き放題だわ」
 感嘆のため息と共に呟いたシュラインに、マリオンが首を傾げて微笑んだ。
「報酬をいただけるでしたら、いつでもどうぞなのです」

 + + +

 人の鳴き声のような低い音は、工場跡の奥へ進むごとに大きくなっていく。
 途中、持参してきたチョークで壁に落書きを残していくマリオンを横目に、弧呂丸が声を低めて告げた。
「鬼とは隠、つまり悪霊の類いをさすのだと言います。田辺さんが仰る鬼がそれを示しているのかは分かりませんが、仮に悪霊だとすれば、その片鱗はそこかしこに影響を及ぼしていると考えられます」
「悪霊……人間の霊が転じた姿、というわけかい?」
 訊ねる匡乃に、弧呂丸が頷く。
「そう考えれば、鬼が人の魂を食らっている……そして田辺さんが言っていた言葉の意味が通ってくるかもね」
 落書きを終えたマリオンを眺めつつシュラインが口を開く。
「……生きたい……逝きたい……。彼等はそう……仰ってます」
 灯火が呟く。
 その時、それまで低音で響いていた声が、大きな地鳴りのような音へと転じて壁を揺らした。音は割れたガラスにヒビをいれ、もろくなった天井からは砂のようなものがこぼれ落ちる。
「――――きましたね」
 弧呂丸は咄嗟に呪符を掴み、辺りに気を走らせた。シュラインは手にしていた鞄から大きめの容器を取り出し、その中から菖蒲の花を掴み取る。

  + + +

 黒い霧のようなものが立ちこめ、視界が瞬間悪くなった。しかしそれはすぐに人の型を形成し始めて、黒い影のみの人型が完成される。
 影には表情らしいものもなく――顔らしいものが見当たらない。ただ、大きく小さく響く鳴き声のようなものを響かせて、ぞろりと細長い腕を持ち上げる。
「急々如律令奉導誓願可」
 呪を唱えて符に気をこめる弧呂丸の横で、匡乃もかすかに歩みを進めて鬼を見据える。
「ねぇ、ちょっといい? いくつか直接訊いてみたい事があるのよ」
 二人の行動をやんわりとおさえ、シュラインが足を止めた。匡乃が頷いて了解を示し、弧呂丸に目線を配る。
「えぇと、高峯さん? このまま鬼の動きを縛る事は可能でしょうか?」
「可能です。――――縛々々律令!」
 弧呂丸が手を揮うと、ようやく形を成した影を縛り上げる光の縄が完成した。それは影を縛り上げ、蜘蛛の巣のように壁に足を伸ばす。
「ありがとう」
 シュラインの言葉に笑みを返し、弧呂丸はかすかに首を傾げた。

 鬼は時折金切り声のような音を発し、光る糸から逃れようとしているのか、ひどく身をよじらせている。
「私達の言葉はわかるかしら?」
 片頬を撫でつつ訊ねるシュラインに、しかし、鬼は気付いている様子の一片も見当たらない。構わず、シュラインは言葉を続ける。
「ねえ、なぜあなたはここにいるのかしら。ここは昔工場だったらしいけど、衣服なんかを作るようなところだったって聞いてるわ。調べたとこ、特に亡くなった方もいないようだし……」
「ここに所縁のあった方なんでしょうか?」
 マリオンがシュラインに続く。鬼は二人の言葉に気付いた様子も見せず、身をよじりながらひどい鳴き声を発している。
 どこからか、それとは異なるすすり泣きのような声も聞こえる。それを聞きとめると、シュラインは周りを見渡して、それからふと、鬼の後ろ――工場の奥へ目を向けた。
「――これは人間の声、かしら」
「そのようですね。行ってみますか?」
 匡乃がそう返すと、シュラインはしばし鬼を見やった後、言葉を返すよりも早く踵を鳴らした。鬼の横を通りぬけようとした時、鬼の触手のようなものが伸びてシュラインの腕を掴もうとしたが、それは匡乃の手刀がわけなく破った。
「もしかしたらまだ生きている方がいるのかもしれません。それを確認し、もしもそういった方がいらっしゃったら、私達で確保してきます。万が一違う存在であれば、私がなんとかしますから」
 穏やかに笑んでみせる匡乃に、弧呂丸が小さく頷いた。

 + + +
 
 鬼はやはりひどい鳴き声をあげて、弧呂丸の術から逃れようと身を大きくよじらせている。不意に、マリオンが思案気味に眉をひそめた。
「なんだか、周りから、影がどんどん集まっているように見えるですね」
「……わたくしにも……そう、見えます」
 消え入るような声でそう返し、灯火はゆるりと足を進め、鬼の前まで寄っていった。そうして鬼を真っ直ぐに見据えると、ガラス玉のような青い双眸に鈍い光を宿らせる。
「……どうして……人を、襲うのですか……?」
 窓を叩く雨足が勢いを強め、灯火の小さな声を飲みこんで消していく。影は見る間に集い、重なり、大きくなっていく。
「おまえが奪った魂を元に戻すことは出来ないのか?」
 印を結びながら弧呂丸が問う。弧呂丸が結んだ術の中、鬼はすでに光の帯をひきちぎらんばかりに膨らんでいる。
 鬼は二人の問いかけに答えようとはしない。それが耳に届いている気配さえもない。
「影は、奥から流れてきているように思えるですね」
 マリオンが眉根を寄せた。その視線は、シュラインと匡乃が向かった先を見つめている。

  + + +

 廊下の奥にあったドアを開けると、そこは黒い霧が一面に広がり、やけに生臭いような匂いが漂っていた。
ともすれば戻しそうになるのをこらえ、シュラインは部屋の中へと足を入れる。それを庇うように、匡乃もまた部屋を進む。
 すすり泣きのような声は確かにその部屋の中から聞こえる。
「視界が悪いわね……」
 シュラインはそうぼやき、懐中電灯のスイッチを押す。真暗だった室内が途端に光を得て、それまですすり泣いていた声の主が弾かれたように立ち上がった。
 痩せ細り、頬もこけ、ひどくよろめきながら立ちあがってこちらを見やる男を見とめ、匡乃が穏やかに微笑みを浮かべる。
「もう大丈夫ですよ。――――でも、少し待っていてくださいね」
 男に駆け寄って菖蒲の花を周囲に撒き散らしているシュラインに相槌を送ると、匡乃は部屋を埋め尽くす黒い霧に目を向けた。
「まずは、これを祓ってしまいますから」

 + + +

 鬼は何を訊ねても応じることはなかった。
 見る間に膨らみ、闇を増していくそれを目の当たりにし、弧呂丸は唇を噛み締めて手を揮った。揮った手には紫色の数珠が握られている。それは弧呂丸の言葉と同時に形を変えて、白焔を帯びた弓を成したのだ。
「灯火さん、それを祓います。残念なことに、それにはこちらの言葉など届いていないようですから」
 灯火は弧呂丸の言葉に何か言いたげな表情を浮かべたが、ゆっくりと睫毛を伏せると、しずしずとマリオンの横へと移動した。
「周りにある分は、私に任せてくださいです」
 灯火を守りながらそう述べて、マリオンもまた手をあげる。
 光る矢が闇を貫通したのと、マリオンが扉を創りだし、異次元への通路を開いたのは、ほぼ同時のことだった。
闇は怒声にも似た地鳴りを響かせ、光に飲み下され、あるいは次元の異なる場所へと送還されて、間もなく姿を消していった。

 + + +

 雨は未だ降り続いている。工場跡を囲む林道は陰鬱な空気を漂わせ、湿った土の匂いが辺り一面に広がっていた。

「鬼はいたのか?」
 戻ってきた面々を確かめて、田辺は欠伸と共にそう訊ねた。
「鬼、というよりは、悪霊の類いの集合体のようでした」
 返す弧呂丸に、田辺は深く頷きつつ、
「鬼ってんのは、まぁ、そういうのもひっくるめるからなぁ」
「でも、ここはそれが多すぎだわ。霊が霊を食って大きくなり、それが一つの意思を持った、みたいな……」
 救出した男をマリオンの車に乗せながら、シュラインがそう声をひそめる。
「……人間としての心……それを、求めていたような……気が、します」
 呟いた灯火の言葉に、匡乃が低い唸り声をあげた。
「確かに。そう考えれば、彼等が人間の魂だけを求めていた意味もわかるような気もしますね」
「きっと、ああいう方々が集まりやすい土地なのかもしれないですね」
 一人にこやかな笑みを浮かべ、マリオンが言葉を挟むと、弧呂丸が言葉なく頷いた。
「ともかく、以降、興味本意な遊び心で人が立ち入ることのないよう、結界をもう少し強固なものにしておきましょう」
「それと、あまりああいった類いのものが近寄らないような処置を施しておく必要もあるかもね」
 そう述べて思案するシュラインに、灯火が首を傾げ、菖蒲の花をさしのべた。
「あの……菖蒲には……鬼を寄せつけない効果があると……」
 四人の視線が、同時に灯火へと寄せられる。
「なるほど。この辺を菖蒲で囲うっていうのもいいかもしれませんね」
「場所柄も、条件よさげです」
 匡乃とマリオンが同時に口を開けた。
「そういうことなら、俺が少しばっかり手伝えるかな」
 話を聞いていた田辺が腰を持ち上げ、灯火の手から菖蒲の花を受け取った。

 + + +

「ふぅん、なるほどねぇ」
 匡乃がまとめたレポートを片手に、碇は編集部内をうろうろと巡っている。
「鬼、っていうのは、悪霊の集合体だった、か……なかなか興味深い結果だわ」
 口許に薄い笑みを滲ませつつ、碇はそう呟いて五人を見やった。
「ありがとう、面白い記事が出来そうだわ。――報酬なんかは田辺さんが請け負ってくれるんでしょ?」
「ん? あぁ、そうだったな。んじゃ俺の工房へ行くか」
 アゴヒゲを撫でながら頷くと、田辺はのろのろと歩みを進める。その後ろをマリオンが嬉々としてついていき、さらにその後ろを、灯火がしずしずとついていく。
 シュラインと匡乃は互いに顔を見合わせて微笑し、碇に向けて片手をあげて挨拶をした。
 最後まで残っていた弧呂丸に、三下がこそこそと近寄って耳打ちをする。それを聞くと、弧呂丸は穏やかに笑んで首を傾げた。
「ケーキのお土産、ですね。分かりました。じゃあ、残ったら、お持ちしますね」
「さ・ん・し・た・くん! ケーキもいいけど、まずはお仕事しましょうね」
 弧呂丸の微笑みをよそに、三下は絶叫とともに碇の手によって引きずられていくのだった。



  





□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1537 / 綾和泉・匡乃 / 男性 / 27歳 / 予備校講師】
【3041 / 四宮・灯火 / 女性 / 1歳 / 人形】
【4164 / マリオン・バーガンディ / 男性 / 275歳 / 元キュレーター・研究者・研究所所長】
【4583 / 高峯・弧呂丸 / 男性 / 23歳 / 呪禁師】



□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

「菖蒲と雨月」にご参加してくださいまして、まことにありがとうございました。
和風ホラー、と銘打ちながらも、なかなか思うようにいきません…がくり。
しかも、毎回納期ぎりぎりくらいまでお時間をいただいております。す、すいませ…。
もう少しはやいお届けを。今後の課題であります。

少しでもお気にめしていただけましたら幸いです。
気になる箇所などございましたら、お気軽にお申しつけくださいませ。
それでは、またご縁がありましたら、お声などいただければと願いつつ。