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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


 空の絵本





 全ての天候をシステム管理されたドーム状の不夜城都市――23区TOKYO−CITY。
 雨も降り、雷も落ちれば気温は日々変化し、日本ならではの四季を満喫する事が出来る。管理センターから配信される天気予報は90%以上の的中率を誇り、ごく稀に謎の台風などが発生する以外は、はずれる事などなかった。

 そして今、ごく稀に起こる謎の台風がTOKYO−CITYに近づいていた。







【起承転結の起】 本を開けば物語りが始まるのは道理

 CITYを覆うドームの外に広がる自然保護区域――通称NATは、今尚、本物の月と太陽が空を巡り、地球の自転に則した自然を満喫する事が出来る、この世界では数少ない場所の一つだった。ここには自然保護団体が作る大小合わせて16のコミューンが存在する。
 この他にNATにはCITYから逃れてきた犯罪者達の組織もあると噂されているが、こちらの方は噂どまりである。公にはそんなものは存在しないと発表されていたからであるが、勿論これは、お偉方の言葉を借りるなら『嘘も方便』という類のものであった。
 いずれにせよ、自然保護区域といえば聞こえはいいが、実際には巨大な産業廃棄物処理場の一面も持ち、遺伝子操作され手に負えなくなった異形の産物――総じてキメラと呼ばれている――が蔓延る危険地帯でもあった。こんなところに好き好んでくるのは、コミューンの住人や犯罪者を狩る者達を除けば、怖いもの見たさの好奇心を押さえ切れなかった観光客と――シオン・レ・ハイ、彼ぐらいであろう。
 長い髪を後ろで束ね、高そうな服を砂まみれにさせて、彼は1人武蔵野のブッシュの中を歩いていた。左にはスーパーの袋を抱えている。右手にはメモ帳。開かれたページには彼の最高傑作ともいえる、NATの地図が描かれていた。これさえあれば絶対迷子にならないのだ。
 この危険地帯を歩いて移動。
 それだけでも彼がただ者ではない事を物語る。しかも彼は武器らしい武器を何一つ持たず、しかし臆するどころかどこか楽しげな面持ちで木々の合間を軽やかに歩いていたのである。
 そんな彼を突然謎の触手が襲った。植物の太い蔦か何かのようだ。それが彼の腰に巻き付いたかと思うと、彼を持ち上げた。
「わっ」
 突然の事に驚いて、シオンはバナナを落としそうになる。
 触手が彼を引き寄せた。
 そこにはグロテスクな赤色をしたラフレシアのような巨大な花がその中央に鋭い牙のようなものを光らせて大きな口を開けていた。肉食植物――マンイーター(食人花)である。
「やぁ、お久しぶりです」
 シオンは呑気に片手をあげて食人花ににこやかに声をかけた。つわものである。
 しかしマンイーターは何も答えない。口は食べる為にのみ存在しているのだろう。
「今日はおみやげを持ってきたんですよ」
 彼はそう言っていそいそとスーパーの袋からバナナの束を取り出すとその内の1本をマンイーターの口の中へ放り込んだ。肉食植物に果物を食べさせても大丈夫なのだろうか。
 マンイーターは咀嚼するように口を動かし、それからペッと皮だけ吐き出した。
「あぁ、皮をポイ捨てしたら危険じゃないですか」
 シオンがメッと怖い顔をしてみせたが、果たしてマンイーターにそれが伝わったかどうかは永遠の謎である。
 とにもかくにもマンイーターはシオンをおろした。
「お利巧さんですね」
 シオンはマンイーターの花弁を撫でてやる。
 このマンイーターとはまだ付き合いの日は浅い。しかしこの子のお母さんとは仲良しだったシオンである。だからこのマンイーターの事は我が子のように思えるのだ。マンイーターとお友達。やはりただ者ではない。彼はある意味NATの王者かもしれない。さすがは野生児。あのCITYでも普段から野宿ばかりしていた成果というやつだろうか。――ものは言い様であった。
 かくして久しぶりの再会にシオンがマンイーターを抱きしめていると、
「わぁっ!!」
 突然、先ほどマンイーターがバナナの皮を吐き捨てた辺りから悲鳴にも似た声があがった。誰かが地雷を踏んでしまったらしい。
 シオンが茂みの向こうを覗くと、1人の男が尻餅を付いていた。
「大丈夫ですか?」
 シオンが声をかける。
「何でこんなところにバナナの皮が落ちてるんだ」
 空色の髪に空色の瞳をした男が、紺のブルゾンとジーンズの土を掃いながら立ち上がって、ぶつくさと呟いた。
「すみません」
 シオンが頭を下げて謝った。
「あぁ、あんたが捨てたのか?」
 男が白い目を向ける。
「はい。私のお友達の……」
 言いかけたその時、男を触手が絡めとった。
「あ、マンイーターさん! 彼は食べちゃダメですよ」
 シオンが慌てて止めに入る。
「マンイーター?」
 男は別段慌てた風も取り乱した風もなく言って、触手の先にある、大きくグロテスクな花を見下ろした。
「へぇ〜」
 何とも呑気に呟いた。この期に及んで動じた風もない彼も、ただ者ではないだろう。こちらも手に本を持っているだけで武器らしいものは何一つ持ってはいないのだ。
 マンイーターは男を口へ運ばずそこに下ろした。
「ありがとうございます」
 シオンがマンイーターにお礼を言う。
「あんたこいつが操れるのか?」
 男が尋ねた。
「操れるわけではありません。マンイーターさんはお友達です」
 シオンがマンイーターの花びらを撫でながら答えた。
「なるほど。あんたいい人そうだな」
 男が人懐っこい笑みを向けた。
「はぁ……」
 シオンは困惑げな笑みを返す。いい人といわれるのはなんだかくすぐったい。
「俺は空野彼方」
 男が言った。
「あ、私はシオン・レ・ハイと申します」
「あんた、いい人そうだから、いい事教えてあげるよ」
「はい?」
「もうすぐ、嵐がくるよ」
「……え?」







【起承転結の承】 頁捲れば物語進みて……

 その車の後部座席で財閥総帥セレスティ・カーニンガムは銀時計を手に切れ長の目を少しだけ細めた。その碧眼は時計の針を捉えてはいなかったが、彼の類稀なる感覚が15時を教えてくれた。
 それから彼の視線は車窓へと投げられた。
 23区TOKYO−CITYの本日の天気は快晴。最高気温28℃は初夏の陽射しである。しかし空をドームに覆われたこの都市に過度の紫外線が降り注ぐ事はない。それ故か、街行く者もファッション向けの帽子はともかく日傘さす者は殆どない。
 それをスモーク越しに感じ取ってセレスティは何とも微妙な顔で小さく首を傾げた。
「雨が強くなってきましたね」
 外は相変わらずの青空だ。
 しかし運転席でハンドルを握っていた運転手は大して驚いた風もなく答えた。
「はい、旦那様」
 視力の弱い主人に気を遣っているのだろうか。
「何か胸騒ぎがします。ウェストゲートへ向かってください」
 セレスティの言葉に運転手は「はい」と答えると、ハンドルをゆっくり左へ切った。
 CITYを覆うドームの外、自然保護区域――NATもこの時はまだ空は青かった。

 同じ頃――。
「おや、雨ですか」
 東京の片隅にある知る人ぞ知る小料理屋、山海亭の店先で同店主が空を見上げて呟いた。
 彼の見上げた先には青空が広がっている。
 明日の天気予報も晴れだった。
 しかし一色千鳥は小さく溜息を吐き出す。
「困るんですよねぇ。嵐になると店の客足が減ってしまって」
 彼はのんびり独りごちた。まるでこれから嵐が来る事を確信しているかのような口ぶりである。
 全ての事象を見通す力を持つ彼であったが、未来を見る事は自らの意思では出来ない。殆ど制御不能だからだ。ともすれば彼はたまたま偶然それを見てしまったのだろうか。
 いや、そういうわけでもなかった。
 よく当たる勘のようなものだ。
 システム管理されたCITYの天気予報がはずれようとしている。だが、真にはずれるとすれば、そこには何らかの作意が働いていると考えていい。当然、それは止める事も可能な筈である。
「参りましたねぇ」
 千鳥は困惑げに頭を掻いた。
 それから1つ肩をすくめると、店の入口にかかっている【準備中】の札を掛け替えたのだった。
 【本日休業】。


 ◇◇◇


 ウェストゲートの入出管理室の前でセレスティが出門手続きをしている頃、千鳥もウェストゲートへ到着した。互いに出門理由は同じである。
『観光の為』
 しかし、バスツアーのように事前申請していない一般人が個人でゲートをくぐるには国外に出るような手間が必要となる。
 その手続きが、突然途中でキャンセルされた。
 訝しげにセレスティと千鳥が背後を振り返る。
 迷彩柄のシャツを着た男が立っていた。
 ゲートをフリーパスで入出できるだけでなく入出管理まで許可されたIDタグを掲げている。
「今、NATに出るのは危険です」
 男が言った。
「司法局の方ですか」
 セレスティが尋ねた。
 出門手続きを却下出来る人間といえばそう多くはないのだ。
「間もなく嵐が来ます」
 千鳥が柔和な笑みを向けた。
 多くの説明はなかったがそれで話しが通ったろうか、男がIDタグを下ろして言った。
「僕は司法局特務執行部高野千尋と言います。捜査にご協力願えますか」
「勿論です」

 そうして彼らがウェストゲートを出たのは絵本を封印する為のチーム――司法局特務執行部仁枝冬也率いる、神宮寺夕日と綾和泉汐耶がこのゲートをくぐるより、丁度30分前の事であった。


 ◇◇◇


「空野彼方が現れました」
 千尋がハンドルを握りながら言った。
 千鳥もセレスティも司法局のオフロードに乗り換えている。ウェストゲートを抜けると都会の喧騒は消え車窓は一転して岩肌を覗かせた荒地に変わった。アスファルトの道はオフロードのそれへと変わる。ツアーバスなどが行き来して出来た旧中央線跡地を走りながら千尋が続けた。
「青い絵本の持ち主です」
「青い絵本……とは、確か水を操り嵐を起こす本でしたよね」
 セレスティが確認するように言った。
「はい」
「絵本が開いたのですか?」
「いいえ。正確には本は一度開いてすぐに閉じています」
「え?」
 千尋の言葉にセレスティがわずか身を乗り出す。絵本は一度開くと最後のページを捲るまで閉じないのではなかったのか。
「空野彼方は絵本を自在に扱えるんです」
 千尋が淡々とした口調で言った。
「なんですって……」
 セレスティは信じがたいといった顔で千尋を見返した。けれどその一方で彼はその方法に全く心当たりがなかったわけでもなかった。乗りだしていた体を戻してシートにゆったりもたれかかると、考えるように顎を指でなぞる。
「つまり嵐の規模も彼の手で自由自在というわけですか」
 千鳥が尋ねた。
「そうなります」
「恵みの雨とは申しますが、過ぎたるは尚及ばざるが如し。では、彼に適当なところでやめていただけば宜しいのですね」
「出来ればCITYに入る前に止めたいのですが」
 嵐もNATでなら多少は耐えうる。
 セレスティが口を開いた。
「本が開けば雨が降り嵐を招く。それがいきなり広範囲に起こるとは思えませんから、NATの詳細な天気予想図と過去のデータ、それに現在の気象データがあればいいのですが」
 セレスティの言葉に千尋はA5サイズのノート型パソコンを開くと、それらのデータをディスプレイして、後部座席にも見えるように投影した。
 3Dホログラムによりセレスティと千鳥の前に現在の気象映像が1秒毎に更新されながら映し出される。そしてここ一時間ほどの気象映像が早送りで流された。
「30分ほど前に国分寺観光セーターの傍で雨が降っていますね。今はどこにも降っていないようですが……」
 セレスティが気象データを確認しながら呟く。
 千鳥が千尋に声をかけた。
「そういえば何か、空野さんの『証』になるようなものはありませんか?」
 それがあれば相手の足取りを追うのも容易になる。しかし返ってきたのは申し訳無さそうな声だった。
「残念ながらそういったものはないですね」
 千尋の返答に千鳥は1つ頷いた。
「では、とりあえずここに行ってみましょう」
 国分寺観光センターの傍を指して千鳥が言った。既に本人は移動しているかもしれないが、彼に関する何らかが残っているかもしれない。今はそちらからあたっていくしかないだろう。
「はい」
 車が更に加速した。







【起承転結の転】 かくて他人を巻き込みたり

 高速道路を下りてNATを東へ向かいながら、八王子の標識にシュライン・エマはふと時計を見た。午後5時。何とか日暮れまでにはCITYに帰りつけそうである。
 NATに高速道路は走っていない。そもそも舗装された道路もない。旧中央線跡地と呼ばれる場所に、それらしいオフロードが走っているだけだ。23区TOKYO−CITYから外部都市へ出かけるにはいくつかのルートがある。最もポピュラーなものは飛行機だ。これが最も安全であると言われている。次に使われているのが船だった。そして地下鉄へと続く。地上を走る電車はCITYの中だけにしかない。車という選択肢は珍しい部類であろう、誰も好き好んでこの危険地帯を走りたいとは思わないものだ。
 しかし間が悪かったのか、どのルートも満席で乗車券を買えなかったシュラインは、どうしても今日中にCITYに戻りたくてレンタカーを借りたのだった。
「何もありませんように」
 別段信仰心が篤いわけでもないが、こういう時は八百万の神々に祈っておく。
 しかしその言葉が全く届かなかったのか、不吉な雨がフロントガラスを叩き始めた。
 シュラインの脳裏に嫌な予感が過ぎる。
 ラジオのスイッチを入れた。NATといえどラジオの電波は流れていた。NATの天気予報は晴れだ。コンピュータの介在しない自然保護区域はCITYと違って天気予報がはずれることもよくある。
 とはいえ、ここまではずす事はないだろう、シュラインは眉間にしわを寄せた。
 雨が滝のように降り出しかと思うと、更に強い風が吹き始める。彼女の特殊な耳が急激な気圧の変化を伝える振動をキャッチした。
 それはあまりに突然に、ありえないほど唐突に起こった。
「地震、雷、火事、大山嵐(おやじ)」
 シュラインは嫌そうに呟いて減速した。
 どうやらヤバイところに突っ込んだらしい。とはいえNATを車で横断するには、この道しかないのだが。
 減速した車体が風に煽られ軽く浮く。シュラインは息を呑んだ。ハンドルを握る手に力が篭る。
 時計の秒針がきっかり1周するだけ考えて、彼女はハンドルを切った。
 これは台風などではない。彼らの多くは赤道付近の海洋で発生する。こんな場所でこんな唐突に発生したりはしないのだ。だが台風のような一面もある。空はまるで渦を巻いていた。ならばその中心から離れるよりも中心に入ってしまった方が安全ではないのか。台風の目が安全域ならいっそ台風の目と共に東に進む方がいい。それに台風は中心より進行方向を向いて左側の方が比較的風が弱いのだ。
 そう結論付けた彼女は台風の目を目指した。森林の道なき道を押し通る。風に今にもなぎ倒されそうな木々の合間を縫って、大木の傍を選んで走った。
 その判断が果たして正しかったのかどうか。
 台風の中心に、謎の上昇気流がある。
 それと気付くにはちょっと遅すぎた。
「!?」
 次の瞬間、彼女は車ごと空へと舞い上がっていた。


 ◇◇◇


 滝のような雨はその車の周囲には降り注いではいなかった。
「近づいていますね」
 千尋が車を走らせながら言った。
 雨が降り注がないのはセレスティの力によるものだ。風も水のうねりに飲み込んで車は道なき道を強引に突き進んでいく。
 台風の目とも呼ぶべき風の渦の中心の少し手前で千尋は車を止めて外へ降りた。
「中心に何かありますね」
 千鳥がそれを見上げながら言った。誰か、ではない。何か、と。
「空野さんじゃないのです?」
 尋ねたセレスティに千鳥は何とも複雑な顔を返す。
「わかりません。確かに人のようではあるのですが……!?」
 言いかけた言葉をきって千鳥が身構えた。
「皆さん、少し離れてください。それから、フォローを」
 その言葉に、セレスティと千鳥が後方へ退いて身構える。
 千鳥が前方へ手を伸ばした。
 まるでカーテンかベールの中へ手を入れたように、ふと、千鳥の腕が肘から消えた。
 『何か』を引き寄せるかのように。
 恐らくはこの気流の中心にある何か。
 彼が腕を引いた瞬間、それが姿を現した。
 1台の車だ。
「キャー!!」
 悲鳴と共に車の中から女が1人転げ出してきた。
 セレスティが水でクッションを作って受け止める。
「シュラインさん!?」
「あ……助かった……」
 シュラインは、自分を受け止めた水のクッションの上に座ってホッと息を吐き出した。
「すみません。あの高さから落ちたらただではすまないと、少し手荒な真似をしました」
 千鳥が苦笑を滲ませる。シュラインは立ち上がって手を横に振った。
「いいのよ、おかげで助かったんだから。ありがと」
「そのセリフ、まだ少し早いかもしれませんよ」
 千尋が『それ』を目で追いながら言った。
 3人がその視線の先を振り返る。
 ふと気付くと風と雨は和らいでいただろうか。
 渦巻くその中心に一人の男が舞い降りた。青い空色の髪は濡れている様子もない。片手に青い表紙の本を持っている。
 ゆっくりと本が閉じられると、ぴたりと風がおさまった。
「な……に……?」
 事情を飲み込めないシュラインが無意識に呟いていた。
「おかしいなぁ、足止めを頼んでおいたのに……っと、お久しぶり、ゆき」
 男は人懐っこい笑みを千尋に向けて、まるで旧知の友達に挨拶でもするかのような気軽さで声をかけた。
「彼方……」
 千尋がその名を憎々しげに吐き捨てる。
 【青い絵本】の使い手――空野彼方。
「わかってると思うけど、僕に『それ』は通用しないよ」
 言われて千尋はポケットの中で握っていた『それ』から手を離した。ぎりと奥歯を噛み締める。
 セレスティが一歩前に進み出た。
「何故あなたはその絵本を扱えるのですか?」
「それを教える義理はない」
 彼方が肩をすくめる。
「緑の栞」
 セレスティが言った。それは【赤い絵本】に出会った時から考えていた1つの可能性である。栞は本を途中で閉じるために使うものではなかったか。
「へぇ、あんた生命の絵本に会ったんだ? 緑の栞なんて無粋な呼び方はやめてくれ。生命の絵本には息吹の栞だよ」
「…………」
「そして、空の絵本には太陽の栞」
 彼方は楽しげに笑った。
 セレスティの顔が不審に曇る。
 2人の間で繰り広げられた一瞬の鬩ぎ合いに気付いた者がどれだけいたろう。
 彼方の体に流れる血液を自分の支配下に置こうとしたセレスティはだが、彼を捉えることは出来なかった。目の前に彼の実体はなかったからだ。
 ――では、どこに!?
 視力の弱い彼が視覚に騙される事などありえなかった。
 にも拘らず、セレスティはそこに空野彼方がいると錯覚していたのだ。
「何だか分が悪いみたいだからここは退かせて貰うよ」
 そう言って彼はひらりと舞い上がった。
 その瞬間、彼は忽然と姿を消した。まるで背後の風景に溶けるように。最初からそこにはいなかったように。
「すみません。僕のミスだ。奴の幻覚は視覚だけじゃない……」
 言いかけた千尋に、シュラインが1つ大きく手を打って遮った。
「はい。反省は終わり。何だかよくわからないけど、追うわよ」
「わかりますか?」
 千鳥が尋ねる。
「彼の足取りはわからないけど、あの気圧の変化なら追えるわ」
 音は空気の振動だ。
 彼女の聴覚は遥かに人の可聴域を凌駕する。
 全員が車に乗りこんだ。
「ちゃんと説明してくれるんでしょうね」
 シュラインが言った。
「はい」


 名前は、空野彼方。
 【青い絵本】の持ち主にしてそれを自在に扱う事ができる、司法局管轄のS級犯罪者。しかし彼が扱えるのは【青い絵本】だけではない。人の神経にダイレクトにアクセスして幻覚を見せる。
 その彼が絵本を手に現れた。
「どうして彼は嵐を起こすのかしら?」
 シュラインが首を傾げた。
「わかりません」
「前にもあったんでしょう?」
「はい」
 何年か前にも彼は【青い絵本】を携えて現れた。途中で嵐をやめさせる事には成功したが、彼を捕まえるまでには至らず、CITYの一部のシステムは完全にダウンし、地下鉄などは水没した。そして、その混乱に乗じて起こった犯罪件数が多すぎたばかりに、どれが奴の目的だったのか、或いは、目的は達し得なかったのかがわからないまま、幕を閉じたのである。
 シュラインは道案内をしながら眉を顰めた。奴の目的は一体何であるのか。
「そういえば、先ほど気付いたのですが【青い絵本】は水を操るだけではないんですね」
 千鳥が言った。
「はい。青い絵本は嵐を起こす絵本ですから」
 千尋が答える。
 そこで初めてセレスティは自分が勘違いをしていた事に気づいた。
 水だけでは大雨は降らせても嵐にはならない。水を操れただけでは天を駆る事は出来ないのだ。
 【青い絵本】は、風も操るのである。







【起承転結の結】 栞挟みてひとつの物語を終えん

「参ったな……」
 空野彼方は自分を取り囲む面々を見やりながら言った。
 捜索にあたっていたセレスティと千鳥と千尋とそれから途中合流したシュライン・エマに四方を囲まれている。
 その上、水がうまく制御できなかった。
 しかし彼は言葉ほども参ったような顔をしてはいない。自分の逃げ場を阻むように水が自分を覆っていても尚、彼はのんびりとしていた。
 だが、誰も彼に仕掛けようと動く者はなかった。彼の――いや【青の絵本】の持つ気界鏡に手を出しあぐねていたのである。気界鏡は全て力を跳ね返す結界であった。
 今は、彼を逃がさない事だけに集中し援軍を待つ。
 そこへ1台の車が到着した。中には5人乗っている。
 彼方が目を細めてそれを見やった。
「僕ってこんなに人気者だっけ?」
 と、おどけてみせる。
 そんな彼方を無視して、千尋は背後に声をかけた。
「冬也」
「わかってる」
 運転席から顔を出した冬也はSIG拳銃P226を構えた。彼の念のこめられた弾は結界を壊す為のものだ。
「綾和泉さん」
 後部座席から降りてきた汐耶に冬也が声をかけた。
「結界なら私が解きましょうか?」
 尋ねた汐耶に冬也は首を横に振る。
「いえ、それは俺がやります。貴女は絵本を封印する事だけに集中してください」
 結界を解いても大気はすぐにまた結界を作る。封印が間に合わなければ、そのいたちごっこになるだろう。結界を解いたと同時に封印に入る必要があるのだ。
「わかったわ」
 それを遠目に見やっていた彼方が口を開いた。
「何をやらかす気?」
「答える義理はありませんね」
 セレスティが素っ気無く答える。
「嫌だねぇ、さっきの事、根に持ってるの? 教えてあげたじゃない。僕は太陽の栞を持っている」
「いいえ。まだ聞いていませんよ。嵐を起こす理由を、ね」
 千鳥が言った。
「ま、単なる予定調和だよ」
 彼方が肩をすくめる。
 そこへ冬也達と途中合流していたシオンが駆けて来た。
「あなたの方が悪い人だったんですね!」
 彼方を指差し言い放つ。
「あぁ、あんたか。ダメじゃないか。ちゃんと足止めしといてくれなくちゃ」
「バカ言わないでください。私は悪い人の味方はしません!」
 シオンの言葉に彼方は大仰に呆れた顔をしてみせた。
「なんだ? それで正義の味方のつもり? 多勢に無勢が聞いて呆れる」
「うっさいわね、空野彼方!! 神妙にお縄につきなさい!」
 夕日は怒鳴ると手錠を手にスタートダッシュの体勢で身構えた。
 冬也がP226を撃つ。
 弾にこめられた念が気界鏡の結界を打ち破った。
 刹那、夕日がその懐に飛び込んでいた。回し蹴りが彼方のレバーを襲う。しかしその軌道上に彼はいない。
「なっ!?」
 夕日が空をかいたその頭に手を付いて彼が飛んでいた。
「勇ましいお嬢さんだな」
 絵本は開かれている。目まぐるしく動く絵本が捉えきれずに、汐耶は封印が施せないでいたのである。
 夕日はこれ以上ないくらい目を見開いて彼方を見上げた。
 彼方の手が夕日の眼前に翳される。
 その時だった。
 彼方の絵本を持つ手が肩から落ちた。
「!?」
 サイバー化された腕が小さくスパークしている。
「隠密行動は私の得意分野なんですよ」
 彼方の背後に立ち、彼の腕を肩から切断したのは冬也の車に乗っていた最後の1人、直江恭一郎だった。
 閉じた絵本は絵本自身の意思で気界鏡の結界を張る。
 それに冬也が再びP226の弾を撃ち込んだ。
 結界の解けた刹那、汐耶が封印に入る。
 腕を落とされた彼方は肩を押さえて蹲った。それに恭一郎が隙を見せてしまう。その隙をついて彼方は恭一郎の鳩尾に膝蹴りをお見舞いすると、一気に跳躍した。
 恭一郎は何とか踏みとどまったが、ダメージに片膝を折ってしまう。
 夕日が彼方を追った。
 逃げ出した彼方に千鳥が手を伸ばす。
 ありえないほどの距離を千鳥が強引に引き寄せた。
 それを千尋が取り押さえる。
「助かりました」
「いいえ」
 礼を言う千尋に千鳥が笑みを返した。
 千尋は夕日を振り返る。
「ご協力感謝します」
 いつもの愛想笑いで。
「ちょっ、人の手柄を横取りしようっての?」
「うちの管轄です。でも貴女の活躍はちゃんと上に報告しておきますよ」
 一方、封印の終わった本をセレスティが拾い上げた。
 絵本の本体は別空間に存在する。故に拾い上げようとも直接的に本に触れる事は出来ない。本に触れれば本に取り込まれる可能性があるからだ。
 本に触れられず、中を読み取れなくなった絵本に、セレスティは彼方を振り返った。
「栞はどこですか?」
 恐らく、この絵本を読むには栞を手に入れるしかない。
「答える義理はない」
 彼方が冷たく答えた。だが、取調べが始まれば、その内明らかになるだろう、セレスティは溜息を1つ吐いて絵本を汐耶に手渡した。
 雲で覆われていた空が晴れていく。
 いつの間に陽が沈んだのかもう夜だった。
 それでも月明かりが明るく辺りを照らしている。
「大丈夫?」
 彼方に一撃をくらった恭一郎に夕日が声をかけた。助けてもらったお礼もある。
 恭一郎は夕日を振り返り仰け反ってそれから口元を押さえた。
「?」
 恭一郎の異変に気付いたシュラインが恭一郎を指差しながら夕日に号令する。
「行け! 夕日ちゃん!! 彼を介抱してあげるのよ!!」
「え? あ、はい」
 何だかわからないまま夕日は恭一郎に駆け寄った。
 雨に濡れて張り付いた彼女の薄手のブラウスがほんのり肌を透かしている。
 うっすらとブラのレースが浮かび上がってるのに気付いた時、恭一郎は臨界点を越えた。
「キャー!? 何すんのよ!!」
 吹き上がった鼻血が自分のブラウスを赤く染め上げるのに夕日が悲鳴をあげた。
「あぁ!? ティッシュ、ティッシュ!!」
 シオンが車から箱ティッシュを取ってくる。
「あっはっはっはっは!!」
 シュラインが腹を抱えて笑い転げた。
「あなた今、わかってて彼女をけしかけたでしょ?」
 汐耶がやれやれといった風に肩をすくめて、シュラインを見ている。
「勿論よ」
 元気に答えたシュラインに、千鳥がふと傍らのセレスティを振り返った。
「時々思うんですが……」
「はい?」
「時に女って残酷ですよね」
「……そうですね」







■END■


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3586/神宮寺・夕日/女性/23/警視庁所属・警部補】
【1449/綾和泉・汐耶/女性/23/都立図書館司書】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【3356/シオン・レ・ハイ/男/42/びんぼーにん +α】
【4471/一色・千鳥/男/26/小料理屋主人】
【5228/直江・恭一郎/男/27/元御庭番】
【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】


【NPC/仁枝・冬也/男性/28/司法局特務執行部】
【NPC/高野・千尋/男性/28/司法局特務執行部】

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■         ライター通信          ■
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 ありがとうございました、斎藤晃です。
 空の絵本にご参加いただきありがとうございました。

 物語は大きく、封印チームと捜索チームの2本立てになっています。
 機会があれば他のチームを読んでみると、そのチームがその頃どんな状態だったかがわかって、いいかもしれません。

 楽しんでいただけていれば幸いです。
 ご意見、ご感想などあればお聞かせ下さい。