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『スモーキィーなアリクイ』
白い画用紙が陽を照り返す。午前中とは言え、初夏の日差しはきつい。このベンチの周りには、翳りのベールで包んでくれる樹木も無かった。
だが、象舎の正面に設置された、ここが絶好のポイントだ。
象が一番好きだと告げた連れは、この場所が気に入っていると思う。その証拠に彼女は、ショルダーバッグから取り出した新品のスケッチブックを既に捲って、膝に乗せていた。槻島・綾(つきしま・あや)は、諦めに似た境地でリュックを置いた。
数日前。二人がランチを取ったレストランは、緑香る公園に面していた。二階の隅の席で食後のコーヒーと紅茶を味わいながら、景色を見下ろす。地元の小学生だろうか、体育着の子供達が青々と繁る木々を囲み、画板を膝に絵を描いている。
「写生会のようですね。季節もいいし、楽しそうだなあ」
綾に特に考えがあって言ったわけでは無いが。テーブルを隔てて、千住・瞳子(せんじゅ・とうこ)の面持ちは、はっきりしない。重い話題ではない。「そうですね」と笑顔で流すこともできる。だが、瞳子は、苦笑とも困惑とも言える表情で、眉を下げた。
「私の学校の写生会は、動物園でした。ちょっと、苦い思い出があるんです」
やっと瞳子は笑顔になり、紅茶をすすった。話したそうだった。綾は静かに次の言葉を待つ。
「学校では、二人一組で行動しなさいという指示でした。私と一緒になった女の子は・・・とても面倒見がよくて、親切で。絵も、クラスで1、2番目にうまい子で。悪気のないのはわかっていたんです」
まず、相手を庇う言い方をする。それが瞳子らしいと思う。
「私、絵は下手ですけど、描くのは好きです。でも、よほど私が下手で、気になったのでしょうね。彼女はあれこれアドバイスをくれて・・・子供ですから、つい手伝いたくなったのでしょう。彼女は私のクレヨンを握って、『ここは、こうよ』って色々と描き加えて。私の絵は、みごとにきちんと象に見える絵に昇格しました。でも・・・私は悲しくなって・・・ぽろぽろと涙が出て来てしまって。まだ三年生位でしたから。
彼女は担任に注意されて、やっぱり泣き出すし。だって、親切にしたのに叱られるなんて、ショックだったと思います。私は私で、男子の『千住の絵じゃ、直したくもなるよな』なんて陰口が聞こえて、ますます落ち込んで。
あら、ごめんなさい、私、一人で喋ってるわ」
瞳子は笑って、紅茶で喉を潤した。
わだかまりやモヤモヤをきちんと形にしてみると、意外にすっきりすることがある。物書きの綾には、それがよくわかる。
「リベンジに行きませんか?」
そうして、綾は、瞳子を動物園へ誘ったのだった。
ゲートを潜ると、瞳子は薄手の綿ワンピースの裾を翻し、目当ての象舎へ向かった。『順路』や、ここの売りであるパンダは無視された。子供のように描く気満々である。
瞳子がバッグから引っ張り出したスケッチブックは、今日の為の新品だ。ハードカバーの書籍ほどの大きさで、スケッチブックとしては小さめだろうか。画板の不要な頑丈な裏表紙が付いているが、表紙は赤くて可愛らしい。クレヨンも新品だったが、こちらは両手に包まれてしまう12色の小さなサイズだ。綾も昔使った記憶があるメーカー。女児と男児が向かい合っているイラストは、綾が子供の頃から変わっていない。
描いているところをじろじろ見ては失礼だと考え、綾はその場を離れ、柵へと近づいた。コンクリートの広場に住むこの屋の主達は、3頭が外に出ていた。だが、遠い。綾は目を細め、そして観念してマドラスチェックのシャツのポケットから眼鏡を取り出した。細いツルを耳にかけ、眉間へと押し込む。普段かけないのは、レンズを通すと、対象物への純度が失われる気がするからだ。多少輪郭がブレても、生身と生身で対峙したい。
人為的に視力を回復させ、ひび割れたコンクリートを思わせる皮膚の質感を眺めた。象は団扇のような耳をだらりと下げ、左右に行き来する事に倦怠しつつ、でも他にやる事がなくて歩き続けている。
「綾さん、ずるいです」
振り向くと、瞳子が上目使いで睨んでいた。
「綾さんも、描いてください」
え?
「一人で、大人なのに、絵を描いているのは恥ずかしいです」
それもそうだ。納得したサンドベージュのパンツがベンチに腰を降ろす。
「画用紙、いただけますか?」
綾は画材の用意はしていなかった。瞳子は、自分が途中まで描いた象の絵を隠すように手早く捲ると、二枚目の用紙をビリリとちぎって綾に渡した。
「クレヨンも、自由に使ってくださいね」
そうは言われたが、グレイはずっと瞳子が握っている。象を描くとしたら、あとは、黒、白。せいぜい水色?とりあえず黒で輪郭をなぞる。
瞳子の絵が目に入った。お世辞にも上手とは言えない。灰色一色で描いているせいもあり、和風の庭園に置かれた岩のようだ。
瞳子も気づいたらしく、輪郭を際立たせる色を探す。綾が箱に黒を返そうとして、急いた細い指が触れた。
「ごめんなさい。黒、いいですか?」
綾は頷き、今度は余った灰色を握った。瞳子のぬくもりが残っている。クレヨンの巻き紙は既に剥かれ、3分の2ほどに減っていた。
『絵には性格が出ますね・・・』
瞳子の象は、耳が小さい。鼻も短くて細い。象と言うよりアリクイかマレーバクみたいだし、灰色の塊は犀にも似て見える。控え目で堅実な瞳子は、耳を大胆に大きく描くことも、鼻を思いきり長く描くこともできないのだ。
瞳子が『演奏家としては二流』と苦笑するのも、同じ理由かもしれない。絵も演奏も自己主張の強い行為だ。だが、欠点と背中合わせに存在する、瞳子のよさを、綾は十分承知していた。アリクイもどきのその絵も、瞳子の人柄が見えて十分魅力的だと思った。
「せっかくですから、描いた絵を記念に交換しませんか」
ずるい言い方をしたものだ。瞳子の絵が欲しかっただけだ。絵に自信の無い瞳子は、綾が単純に欲しがっても、うんと言わない気がしたのだ。
綾だって、絵は得意というわけじゃない。子供が描く記号の象みたいな絵で、彼らの持つ野性味や荘厳さはひとかけらも感じられない。だが、瞳子も、綾の描いた絵が欲しかったのだと気づいた。「いいんですか?」と顔を明るくしたのだ。
瞳子が、自分の絵をスケッチブックから切って渡してくれた。綾は大切にバインダーに挟み、リュックへと収めた。額に入れてリビングに飾ろうかなと思う。瞳子が遊びに来た時どんな反応を示すか、想像するとおかしくて、笑みをごまかす為に眼鏡のフレームに指を触れた。
そのあと猿山前のベンチに移動して昼食になった。動物園に誘った時、瞳子は当然のように『お弁当を作って行きます』とはしゃいだ。綾も微笑んだ。瞳子が自分の為にあれこれ料理をする姿を想像して心が騒いだ。だが、『瞳子さんの分は、僕が作っていいですか?』と提案した。
瞳子は料理は不得意そうだが、律儀な性格を考えると、早朝に起きて力作を持参するだろう。だが、それでは疲れが激しい。快晴の動物園に一日いるのだって、かなり疲労するのだ。
『お弁当はおにぎりに限定。で、一個、びっくりおにぎりを作りましょう』
それは楽しい思いつきだった。普段入れない食材を、一個にだけ詰める。中身がわからない分ワクワク度も高い。
綾も、少し早起きしておにぎりを握って来た。ベンチの上で包みを取り替えっこする。
瞳子から受け取った銀の包みをゆっくりと開く。くしゃっと固まったアルミホイルは、薔薇の花びらに似ていた。中から、淡いサーモンピンクの球体が現れる。まわりに鮭がまぶしてあった。手で握った丸さだ。瞳子の指がこの白米を握ったのかと思うと、頬張るのに少し意識した。
「いただきます」
瞳子の方は、軽くこちらへ会釈すると、海苔に包まれた三角にいきなりかぶりついた。
「あ、梅干しです。これはビックリでは無いですね」
「僕のは・・・一個目で当りでした」
口の中に、小豆のボソボソが残る。鮭まぶしのご飯の中には、『赤飯』が入っていたのだ。ご飯の中にご飯。うーん、確かに、これは世界初かも。
完全に負けた。綾が握ったのはミートボールだ。瞳子は2個目でそれと出会い、「わあ。ミートボール、大好きです」と笑った。
食後は、順路に沿ってパンダやライオン、ゴリラなどを見てまわった。西園への通路を歩きながら、瞳子が「綾さんの一番好きな動物は何ですか?」と尋ねた。
「僕ですか?動物はみんな好きですよ」
心に答えはあったが、告げるのはためらわれた。自分の内面を吐露しているような気がしたのだ。
西園へ入ると、愛らしいソプラノとボーイソプラノの競演に出会った。親子連れでは無く、母親達のグループとその子供達という10人ほどの集団だ。彼らは賑やかな雑音と共に、山羊や兎と遊べる『なかよし広場』へと消えた。
瞳子が羨ましそうにその背中を見ていたので、
「山羊と遊びたかったですか?」
「大人ですから、我慢します」
唇をきゅっと引き締めた表情が返って来た。やはり遊びたかったのか。
「お母さんはいいですね。一緒に『なかよし広場』へ入れて」
心底羨ましそうに言う。
とても自然に、綾の脳裏に数年後の瞳子・・・母親になって子供の手を引いて中へ入って行く姿が浮かんだ。そのことで、照れも感じなかったし、心拍数も上がらなかった。まるでそこにある、当然の未来の風景を見たような気がした。
「綾さんは、キリンがお好きなのですね?」
キリンの檻の前で、突然に指摘された。わかってしまったか、と、今度は少し照れた。好きな物を見る顔をしていたのだろう。厳密に言うと、キリンに、『キミも頑張っていますか?』と問いかけていたところだ。
「そういえば、綾さんに似ていますよね」
そう。自覚している。自分と似ているキリンを好きだと告げるのが、恥ずかしかったのだ。
草食の優しげな獣は、とても臆病で、近づく物を凶暴に蹴り上げる。瞳子はそういう事を言ったわけでは無いと思うが、綾は、山吹き色のそれと自分とをつい重ねて眺める。
高い遠い草を食む為に首を上げる。それは、物を書く事に似ている。次はもっといいものを書きたい。次は次はと、手を空に伸ばして、綾は何かを掴もうとする。その欲望は際限が無く、綾の首は雲から突き出しても、それでも上へ伸びようとするだろう。
両生爬虫類館の、看板の文字にさえ視線を合わせないように、瞳子は綾の影に隠れて移動した。あの中には、瞳子が怖くて卒倒しそうなモノがいるのだ。
この先、弁天門出口までは不忍池の縁を通って行く。
「あの・・・お願いがあるのですが」
「いいですよ、わかりました」と、綾は内容も聞かずに即答する。
「池之端門から出ましょう。池の周りには、アレが出そうですから」
瞳子は激しく相槌を打った。名前を出しても厭なようなので、綾は『蛙』の名を出さない。
二人は、キリン舎側の門から出て、地下鉄に乗った。シートに腰を降ろし、綾は初めて腰と足の疲労に気づく。瞳子も膝をトントンと軽く叩いている。
「疲れましたか?」
「少し。でも、とっても楽しかったです」
社内は微かに冷房が効いていた。心地よい疲れに身を委ね、至福の時間を反芻し、二人は特に口もきかず列車の音に耳を傾けていた。この沈黙は、ただふんわりと優しかった。
綾がうとうとしかけると、先にコトンと肩に瞳子の頭が触れた。
地下を走る鉄の箱は、恋人達を乗せ、軽やかに歌いながら走った。ガラスの外の闇は闇で無く、グレイを塗り重ねた色として、深く甘く色づいていた。
< END >
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