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「扉の向こうにて刻まれるもの」
「ホント、もうたまんないですよ……」
ああ此れで五回目だわ……とルリミツはアクリルガーゼを消毒液に浸しながら独りごちた。
此処、あやかし荘から近くの看護学校に通うルリミツの元には毎日様々な患者が訪れる。患者ならそこらの病院へ行けばいいと思うかもしれないが、「此処」の「住人」達にはそうはいかない理由が多々ある。何か得体の知れないものの傷痕だったり、その得体の知れないもの自体の怪我や病だったり。しかしルリミツはそんな彼等にも的確な処置を与える。まだ看護学生の身でありながらも、ここで毎日様々な患者を相手にしてきた彼女の腕は誰もが信用を託せるものになっていた。そして、誰にでも、平等に彼女の救護は与えられる。故に、日々彼女の部屋に訪れるものは絶えないのだ。
そして、今日の来訪者は――三下忠、である。
「ホント、もう嫌になりますよ……」
「毎日のように来て、貴方も飽きないわね」
「いたっ……痛いですよルリミツさん!!」
あら? とルリミツはピンセットを握り小首をかしげる。紺色の髪が其れにあわせて軽ろやかに揺れた。
「文句があるのならそのまま出て行って頂いて結構よ、ミ・ノ・シ・タ・さん?」
天使のような無邪気な笑みと愛らしい声と語尾のハートマーク飛ばし……の割に彼女の背後にどす黒いオーラと共にいつの間に挿げ替えたのか手に握られた光り輝くメスが見えた時点で、三下は逃げるという選択肢を失った。常の事だ。
項垂れつつも、裸になった上半身の、今度は背中をルリミツに見せる。
「風に当たるだけでも痛いんですから、早くしてくださ……」
「な、何、これ…………」
ルリミツは小さく掠れた悲鳴を上げ大きくその猫目を見開いた。
心臓が大きな音を立て、耳元でゴゥ、と渦巻く感覚。
良いとはいえない予感を連れて来る赤い証。
(きもちわるい、)
三下の白い背中には、鋭利な刃物で大きく斬り付けられた痕と共に奇妙な布陣のような――魔方陣、といえばわかりやすいだろうか―― が赤く傷となって滲み出していた。所々丸く膨らんだ血が見えるのがいやに生々しい。
今まで、青い血を持つ住人の手当てや猫娘のものもらい、経緯の知れない戦闘の傷など奇妙な病状を手当てしてきたものだが、このような傷は見たことがなかった―― 「こちら」の世界では。
僅かな間にも赤を強くしていくその傷痕からは悪意とも取れる強い思念さえ感じる。
ルリミツは端正なその眉根をよせて息を呑み、ゆっくりと尋ねた。
(まさか、)
(まさかこんな側に……?)
「三下さん……もう一度、この怪我をしたときの事、聞かせて頂けないかしら、」
■永い願いを夢に求める――扉の向こうにて刻まれるもの――
歪んでいく。歪んでいく。私達に出来る事は何一つ無く。何かを見つめる事さえ否定する、この街。
(だって私達は何も出来ない)
走り続ける事も、立ち止まる事も。
ただ生きて行く。それだけの躰。それだけの自我。それだけの自己。それだけの他人。
(何も出来ないのに)
ルリミツは人の流れの中に身を沈め、歩きながら赤いウィッグの髪先を弄る。カモフラージュ。恐らくは成功している。右側に差していたヘアピンがやっぱり気に入らなくて勢い良く取って棄てた。その間も彼女の視線は正面を向き、足取りも相変わらずだった。
ルリミツは人の波から不意に外れると、店と店の間に通る、細い路地に入った。所狭しと並ぶダンボール箱を器用に避け、中ほどまで来ると、赤く錆付いた鉄扉が現れる。ジャケットのポケットから鍵を一本取り出しそれを開くと、左上に登る螺旋階段がある。重い扉を閉めると、もう街のざわめきは途絶えた。街の隙間。非日常。ショート丈のウィッグから覗く項に真っ直ぐに刺して来る太陽の光に思わず上空を見遣る。
(暑い……)
季節はもう夏を目前とし、蒸し暑い日々が続いていた。太陽に晒される皮膚の表面がはらはらと剥がれ落ちて覗いた肉片が嫌な音を立てて気化していく幻想を、みる。いつか、そう、いつか見た嘗ての「私の姿」。ルリミツは確かに、自分がそうやって、少しずつ削がれ消えていった記憶を持っている。
(けれど此処にいる)
鉄の螺旋階段を一段一段ヒールを甲高く鳴らしながらルリミツは思い出す。
刻印。
「この刻印を受けた者は己の罪の記憶以外を削がれ現世へと堕とされます」
確かに。
覚えている。
自分がまだ、此処ではない処に居たときの記憶が語る。
「また、他の刻印について――――」
階段を昇りきる。そこには別の扉があり、ルリミツはそこも合鍵で開けようとした。が、手ごたえは無い。むなしい金属の摩擦音が小さく広がっただけだ。誰かが先に来ている。
「遅かったですね、ルリミツさん」
中に入ると、唯崎が制服から着替えている最中だった。ルリミツは、ごめんなさい、答え、後ろ手に丁寧に扉を閉めた。白いコットンのジャケットを脱ぎながらルリミツは部屋の奥へと足音を鳴らす。見慣れた赤いチャインワンピースに着替えかけの唯崎がブラインドを上げる音が響いた。灰色の室内に、ビルの影越しの真っ白な陽光が指し入る。そこに浮かび上がる室内は、コンクリートで固められているだけの床と壁。床では配線が無秩序に生存場所を確保している。他の空間には、小さな冷蔵庫、妙に清潔感の漂うソファ、一台のパソコンの置かれたデスクがあるだけだった。いつ此処を誰も訪れる事がなくなっても構わない、そういう意思のある部屋だ。そう、ルリミツは此処を訪れる度に思う。
「彼は元気ですか?」
唯崎は着替え終え、ルリミツにソファを勧めると冷蔵庫に向かいながら幼く可愛らしくも、「少女」と一言で終わらせるには足りない様々な余韻を持たせた声音で一言尋ねた。ルリミツは天井のファンのゆっくりと廻るのを見上げながら頷く。そして、この少女の背負うものの重みを、そんな些細な台詞一つに思う。
ルリミツと唯崎がこうしてここの部屋で会う事は初めてではない。
唯崎の「仕事」の際に出る「特異な犠牲者」達の運ばれる先は、当たり前の様にルリミツの元だった。また、犠牲者から得る「仕事」の引渡し先も当たり前の様に唯崎の元だった。ただ、お互いが生きていく為。その関係は成り立つ。この街に仕組まれた一つのパーツとして。
「傷は完治したわ」
「アレは、」
「方法なら、一つ。でも、」
唯崎が冷蔵庫から出してきたアイスティーの入ったグラスをルリミツの前に置いて、会話は中断される。ルリミツの細い指先がグラスに触れると、細やかな露が集結されて一気に流れ落ちた。
「でも……?」
唯崎はカップアイスの蓋を開けつつソファにルリミツと向かい合わせに座り、銀色のスプーンで白く甘い氷菓子を口元に運ぶ。
(まだこんな、)
少女なのに。
返答を待ちつつアイスを頬張る唯崎を見てルリミツは後悔の色を己の中に見出す。
今回の件を持ち込んだのは他でもないルリミツ本人だ。三下の背中に描かれた傷――刻印。
三下はあの日の放課後、突然目の前に現れた青年に襲われたのだといった。「ルリミツの居場所を言え」という青年に嫌な予感がして逃げようとしたのが相手の不の感情に触れてしまったらしく、攻撃を受けてしまった。三下は、ルリミツさん、何か追われるような事したんですか、なんですか、尋ねたが、ストーカーじゃないかしら、ごめんなさいね、微笑んで誤魔化す事があの時きちんとできていただろうか。
思い当たりがないわけではないが、それが確固たる輪郭を伴わない。
それは、途切れた点線の記憶の中に起因している。
あの、刻印。
『終追』
その烙印を押された者は、常に居場所を感知されてしまう。つまり、三下の場所を知れば自然とルリミツの居場所がわかるだろうという思考の元の結果だと思われる。三下の背中に赤く滲む証はルリミツを嘲笑うかのようにその目前で鮮明になりゆき、静かに血液を凝固させていく。指先から駆け上がってくる焦燥感。自分のせいで傷付くものがあってはならない。ここにいてはいけない、もどりたい――もどれない。視界は揺らぎしかし冷えて固まっていく自分の中心があった。逃げない。もう、逃げない。ルリミツは紫陽花と芥子の葉を揺らしスペルを唱えると刹那に灰になった葉だったものを三下の背中一面になすりつけた。更に上から防御を掛ける。それで、元の刻印は消えないにしろ効力の大半は削がれる筈。そして直ぐに唯崎に連絡を取ったのだ。彼女しか、頼れるひとはいない、と。
しかし、そうやってまた誰かを巻き込む事でしか、これ以上の被害拡大のストッパーを作り出せない事がルリミツの後悔になる。
唯崎は凝っとルリミツの目を上目に覗き込んでいる。
口元に光る銀色のスプーン。
(また、こうやって、私は何もできないのに)
「ルリミツさん、」
カチャン、金属がテーブルに落とされる音が真っ直ぐにこの身体を射るようで。
唯崎の声に面を上げる。赤い髪の毛が初夏の陽射しに透けて視界に揺らぐ。
「揺らいだら、駄目です。私は、大丈夫ですから」
強い声だった。知らぬ恐怖などないという、力を持つ漆黒の瞳。
その瞳がゆっくりと弧を描く笑みになる。
「私、最近お給料すくなくって、」
その笑みは先程の雰囲気を脱いだ、少女のものだ。
ルリミツは水滴の殆どテーブルへと落ちてしまったグラスを口元で傾け、じゃあ、お仕事しないとね、笑ってみる。
唯崎の仕事振りはわかっているつもりだ。常に危険と対峙し、それは命に関わる事も少なくない。敵対者でも、自身でも。それでも唯崎はその世界に身を投じる。そうでなくては、この街に生きていけないという思いをルリミツでさえも感じている。そう、只生きていく為に。どんな危険もどんな憂いもどんな笑顔も、総ては生きていく為のこの街が用意した歯車として加算されていく事に抵抗などできない。
生きていけ、生きていけ。
ただそこで息をするために。
(否定する術は誰も持ち得ない、)
「もう、目的の青年……といっていいのでしょうか、まあ、便宜的にそう呼びますが、その青年の情報などは既に得ています」
ルリミツは目を細め、窓から差し込む光を受けながらスプーンを再び手にし、硝子越しの光に融解されていっている氷菓子を掬い、嘗める唯崎を見た。彼女は、溶けかけの氷菓子を嘗めつづけ、ルリミツを見つづける。
「そこにあるパソコン、どうぞ」
温くなったアイスティーを飲み干し、立ち上がる。唯崎も立ち上がり、画面を覗き込むルリミツの後ろに立つ。そこには、ルリミツを辿るという青年の姿、詳細情報。
あの世界の、住人。
『この刻印を無効にする方法はただひとつです』
(覚えている)
「もう、私の為の犠牲はいらないわ……お仕事、決行をお願いします」
(強く、あれ)
「如何様に、」
『刻印を施した者を、』
「――抹消、してください」
唯崎が無邪気に口元を上げながて、了解、お仕事承りました。言った。
この瞬間。
(共有する生の為に)
ルリミツは静かに微笑み、立ち上がる。
窓からの陽光は、傾き始め、室内はオレンヂ色の空間。
(まだ大丈夫)
「では、行きましょう。私も共に行くわ」
「ありがたいです、一人で向かうのはやっぱり、」
――淋しいですから。
唯崎は笑いながらルリミツのジャケットを手にすると差し出してきた。ルリミツは素早く袖を通し、赤い髪を整えた。唯崎が鉄の扉を開けた。ルリミツもそれに続く。そこは螺旋階段に向かう小さな空間。陽光に照らされ熱くなった鉄の匂いが視界に刺さる。見上げる空はクロームオレンヂ。手摺に凭れ同じく空を見上げている唯崎の顔に酷くはっきりした影が落ちている。その目には何が映っているのだろうか。ルリミツは思いはすれど、直ぐにそれを放棄した。思いも違う、持っているものも違う。けれど同じこの街で、世界で生きていくという意志だけは重なる。私達にできることなど何一つない。
ただ生きて行く。それだけの躰。それだけの自我。それだけの自己。それだけの他人。
(充分)
視線に気付いてか、唯崎がルリミツに目だけで笑いかけた。不意に建物の隙間から風が巻き上がり、赤い髪と黒い三つ編が強く揺れる。それが合図かのように、二人は階段を駆け下りた。
階段を下りる不規則な二つの足音の残響を心地よく耳にしながら唯崎の開けた扉をルリミツは後ろ手に閉める。鉄同士のぶつかり合う金属音が路地裏から空に向かう。
細い路地裏を抜ければそこは日常。
許される限りの生を望む街に、二人は進む。
それぞれが、生きる為に。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【5381/唯崎紅華/女/16/高校生兼民間組織のエージェント】
【2477/ルリミツ/女/19(現世)/看護学校生(現世)】
【A007/三下忠/男/ 年齢 /高校生】
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