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<東京怪談ノベル(シングル)>


ゆったりと、ゆっくりと。〜切れ手の報酬〜

「いつもその格好ですね、何か理由でもあるんですか」
 助手は聞いた。
 コーヒーをいれる手つきに淀みはなく、その目もカップから外されることはなかった。
 ただでさえ人が来ない門屋心理相談所の午後の時間を動かすように、手持ち無沙汰な話題を口にしたものと思われる。
 コーヒーの入ったカップを受け取りながら、ここの所長である門屋将太郎は、ああ?と生返事をして、一緒に渡された小さなカップミルクの蓋を開ける。
 助手は、その着物ですよ、ともう一度聞いた。
 細い絹糸のようなミルクが黒いコーヒーの水面に沈んでいく。
 まるで丁寧な機織職人の仕事のように。




 少し時間を遡ると、門屋の常服は普通のシャツに普通のズボン、普通のスニーカーだった。
 古典的な趣味があるわけではないがかばんを持ち歩くのが面倒くさいときはブックバンドを持ったりもする。
 院生になったばかりのこの年、この皐月の日、少し様変わりした身辺にもようやく慣れてきた。
 慣れてきたら今度は飽きが来る。飽きが来ると惰性が顔を出す。
 手詰まった研究課題も、気分が乗ればさほど苦痛ではないが、時と場合によっては違ってくる。
 学校と家を往復するだけの単調な毎日、と形容されてしまいそうな日常に、門屋は窓の外に向かってはあ、と息を吐いた。
 それを読み取ったかのように電話が鳴って、何か面白いニュースならいいのに、という期待とともに受話器をとった。
「もしもし?お久しぶりね。あなたの叔母です」
 独特の言い回しと、この陽気とは正反対の夜を思わせる艶のある中年の女性の声。
 呉服屋に嫁いだ叔母だった。
「どうしたの。久しぶり。珍しいね」
「ええ、ちょっと、頼みたいことがあって…明日空いてる?」
 やや申し訳なさそうな叔母に、門屋は何かな、と思いつつ開いている旨を伝える。
「そう、よかったわ。明日うちの店の展示会なの。ほら、そろそろ浴衣の季節でしょ。新作も出すからちょっと人手が必要なのよね。手伝って頂戴」
 手伝える?ではなく、手伝って頂戴、という命令形に、門屋は反論の余地なしか、と思った。
「……分かったよ。ちょうど明日は何もないし」
「そう、よかった。じゃあ会場と時間を教えておくわね」
 叔母は手短に大体の概要を説明すると、もう一度だけ門屋に返事の確認をして電話を切った。
 気風のいい雰囲気は相変わらずだなぁと門屋は思った。


 日付が変わって日も昇りなおして翌日。午前11時、門屋は会場にいた。
 今の今まで、やれあれを運べこれを撤去しろ、と散々こき使われて、支給された浴衣はすっかり着崩れていた。
 展示会が始まると会場は徐々に込んでくるのだが、そのテーマが着物ということもあり、人々は着物姿が多く、楚々とした立ち振る舞いの人間が大半だ。
「あら?見ない顔ね」
 突然声をかけられて、門屋は頭の中で構築していた研究課題ががらっと崩れ去る。
「ごめんなさい、考え事の最中だったかしら?」
「いえ、お気になさらず」
 見れば叔母と変わらない程の中年女性が、慎ましやかな訪問着に身を包んで立っていた。
 見ない顔があるということは見る顔もあるのだろう。門屋はこの女性が常連客であると判断した。
 叔母か叔父を呼ぶべきかと思ったが、あいにく今二人は別の客と歓談中のようで、門屋はどうしたものかと困ってしまう。
「あなた、新人さん?偉いわね、若いのに着物に興味がおありなんて」
「ええ、ちょっと今日だけ手伝いを頼まれまして。店主の甥です」
「あら、そうなの。普段は何を?」
「学生です」
 そうして暫く話し込んでいると、女性の友人が2人ほど現れた。
「あちらの新作、見ました?」
「そうそう、とてもきれいな藤色の」
「こちらの店主さんはまだお若いから、目利きも流行に乗ってらっしゃって、丁度良いわ」
 上品にはしゃぐ婦人たち。
「ところでこちらの方は?」
「店主の甥子さんですって」
 2人のうち1人が門屋に目を向けると、声をかけた女性が答えた。
 ふと、自分の格好を見る。
 準備段階であれこれ動いたものだから着崩れが激しい。重いものも運んだので汗をかいている。
「お恥ずかしいです。こんな着崩れた状態で」
「たくさんお手伝いした証拠よね。それに最近の若い人は肌がきれいだから、多少着崩れていてもおかしくないわ」
「そうね、ちょっと色気があるわよね」
 なんだか照れくさいフォローに、思わず顔が緩んでしまう。
「普段は学生さんだそうよ」
「はい、心理学をやってます」
 自己紹介のように門屋は軽く頭を下げた。
 口達者な門屋が気に入ったのか、婦人たちはものめずらしそうに話題を振ってくる。しかも年輩の功か何なのか、苦痛にならない話し方なのでついつい舌長くなってしまった。
 着物一着分向こうで叔母が笑っているのにも、気づけずに。

 展示会は無事終了し、門屋は最後の荷物だった「藤色の新作」が入ったケースをワゴン車の中に積み込んだ。
「お疲れ様。付け焼刃の知識も役に立ったみたいじゃないの」
 現れた叔母が言う。
 開場前に詰め込まれた浴衣に関する薀蓄は、実はあまり使わなかった。
 そのことを言うと、常連さんに紺色の浴衣を勧めてたじゃないの、と返された。
「あれは、心理学勉強してるって言ったら、娘の誕生日にどんな浴衣が合うかって聞かれたんだよ。内気な子だから、そんな性格はどういうものを好むかって」
「なんだ、そうだったの」
「あんまり自信なかったけど」
「いいわ。ちゃんと貢献してくれたんだもの。助かったわよ」
 叔母はさっきの婦人と同じように笑い、小気味よくワゴンのドアを閉めて、ふう、と肩から力を抜いた。
「ところで」
「なに?」
「今日の手伝いって無報酬?なわけないよな?」
 門屋が言うと、叔母は少し迷った後に人差し指を突き出した。
 その意図が分からず、きょとんとしていると、それよ、それ!と言って、叔母の顔は婦人から民宿の女将っぽい顔になった。
「うちは呉服屋。その着物が手間賃よ。この展示会で予算がないのよ」
「え?…えぇえ?!」
 てっきり現金で報酬がもらえるものと思っていた門屋は一瞬呆けた後に気の入りきらない声を漏らした。
「感謝なさい。それ、上等なものなんだから。いいトレードマークになるわよ。心理士が着物なんて」
 叔母はそう言うと、ワゴン車を運転する社員を呼びに歩き始めてしまった。
 夕方の風が、着崩れて露わになった門屋の鎖骨を撫でていった。





 午後の日差しは少し強い。
 閉められたブラインドが相談所の部屋を斑に染めている。
「別に理由なんてないけどな」
 門屋は助手に言う。
 理由がないわけではなく、正しくは上手く言葉にならないのだ。
 コーヒーの中に落としたミルクが不規則で幾何学的な螺旋になって広がっていく。
 まるで丁寧な機織職人の仕事のように。繊細な浴衣の柄のように。
「良いんだよなぁ、これが」
 門屋はつぶやく。
 壁掛け時計の針が、コチ、と音を立てて3時を指していた。