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<東京怪談ノベル(シングル)>


雨後晴空


 先程まで強く射していた橙の陽光は緩やかに藍紫色に変わり、夕刻特有の薄闇が辺りを彩りつつあった。一日の終わりを告げる色はどこか物哀しい。刻々と変化していく色彩の変化を助けるようにしてささやかな風が吹く。近くで雨が落ちたのか、それは仄かに水が香った。河原沿いであることも影響して強く水の気配を感じるそこは、有名な老舗料亭として数えられる琳琅亭の店先である。
 決して華美ではない静謐な佇まいには夕刻の物哀しさが良く似合う。
 沈みつつある陽が長い影を消し去る間際、その店先に不意に尾を引いて小さな光が生まれた。一つ二つと次第に数を増やすそれは、はらりはらりと薄闇に惑うかのように飛び交う螢。確たる闇の訪れを阻むようにして慎ましやかに微かな光を放ちながら、琳琅亭の店先の一部であるかのように虚空を漂う。頼りなくありながらも標のように飛び交う螢の放つ光は闇に呑まれることなく、確かな軌跡を描いてこの場を訪れるべき誰かを誘おうとしているかのようだった。
 遠く、どこからともなく涼やかな鈴の音が響く。
 耳を澄ませなければ聴き取れないほどの微かな鈴の音は琳琅亭を昼の装いから夜の装いへと変える合図だ。静謐な料亭の雰囲気は瞬く間に失われ、店内のそこかしこに無数の風鈴が揺れる。風に吹かれるでもなく揺れる無数の風鈴が奏でる音は澄んで、現世の煩わしさを忘れさせてくれるかのようだった。
 その音を背に琳琅亭の店主であるフェンドは店先に顔を出す。店の持つ雰囲気にどこか馴染みきることのできないスキンヘッドにサングラスという姿で一つ大きく伸びをすると、辺りを吹き抜ける風の温度やそれがまとう香りに梅雨の訪れが近いことを知る。
 遠くを臨むようにして濃く藍紫色に染まる山際に視線を向けたフェンドの背後で声がする。遠慮がちな声の主が少しばかり早いながらも今宵の客人であることをフェンドは振り向き存在を確かめるまでもなく覚っていた。
「琳琅亭とは此方で宜しかったでしょうか?」
 振り向けばそこに上品な和装の女性が立っている。年齢を感じさせない美しさをまとうその人は、いささか奇抜であるフェンドの装いにたじろぐ様子もなく再度同じ言葉を紡ぐ。常の客人同様に噂を頼りにここまで来たのだろう。どこか心もとない気配を滲ませる女性にフェンドは店主らしく温かく客人を迎える言葉を紡いだ。
「ようこそ、琳琅亭へ」
 その言葉に女性は果敢なく笑んだ。


 螢が飛び交う短い季節にのみ店を開ける。
 『螢の風鈴屋』を訪れる客人は一様に喪失の哀しみを抱えている。


 フェンドに誘われるがままに店内に足を踏み入れ、勧められた椅子に腰を落ち着けた女性は物珍しげに店内を見回すでもなく、自身が求めるただ一つのものが差し出されるのを待ち望んでいるかのようだった。二十代にも三十代にも見える不確かな雰囲気のその女性は、華やかな夜の世界を生きる者特有の眩しさを備えており、指先一つ動かすだけの些細な仕草にさえも仄かな色気が香る。
 しかしそうした雰囲気にフェンドが惑うのかといったらそうではない。この店を訪れる客人の目的はただ一つ。判っていれば女性の色香に惑う必要などどこにもない。手にした二つの湯呑の片方を女性に手渡し、向き合うような格好で間に卓を挟み自身も椅子に腰を下ろすと女性に言葉を促すように目配せした。その合図を見逃すことなく女性はゆったりと唇を開く。
「本当に、このような場所が存在するとは思ってもみませんでした」
 誰もが必ず口にする最初の一言を告げて、女性は卓に置いた湯呑へとすっと視線を落とす。その頭上で無数の風鈴が涼やかに音を奏でた。結い上げた髪を彩る精巧な細工を施された簪が眩しい。まるで揺れる風鈴が奏でる涼やかな音に触れていっそう輝きをましたかのようだとフェンドは思った。
 何も話さず、どれだけの間二人で沈黙に身を浸していたかわからない。
 唐突に風鈴の涼やかな音を裂いて叩き付けるかのように降る雨の音が店内に響く。驟雨だろう。その音に女性はひっそりと沈黙を破った。
「あの日も、雨が降っていたんです。今降りだした雨と同じように突然の雨でした。強く、叩き付けるように降り出した雨がいつまでも止まない、そんな日のことでした」
 女性が何を語ろうとしているのか、フェンドには明らかだった。失った者の断片を求めてここを訪れる客人がそれにまつわる話以外のことをするわけがないことは常だ。話し出す切っ掛けを求めて長く沈黙を続けても、それを掴めば流れるように話し出す姿をこれまで何度も目にしてきた。
「もうお気付きかもしれませんが、私は夜の街で生きることを生業にしております。人様に何を云われようとも誇りを持ってこの仕事を続けてきました。そればかりではなく女として、母親として強く生きてきたつもりです」
 さらさらと女性の唇から零れる音は風鈴の奏でる涼やかな音と荒々しく降る雨音の隙間を縫って凛と響いた。「このような仕事をしているからといって子育て一つできない女だとは思われたくありませんでした。それでなくとも母一人子一人の生活で世間様の目は決して温かなものではありませんでしたから、それ故娘が苦労することがないよう、精一杯努力してきたつもりです」
 応えを求めるでもなく滔々と語る女性の言葉を時折湯呑を口元に運びながらフェンドは聞く。
「しかしそれが仇になってしまったのでしょうね。お客様にとって完璧な女であろうとするあまり、娘にとって完璧な母親であろうとするあまり、形ばかりにこだわって肝心なことを疎かにしてしまっていたことに気付くことができませんでした」
 女性はそこで言葉を切った。静かに卓の下から持ち上げられた白い右の手は、苦労を知らない女のそれとは明らかに違った。美しさを持ち合わせていても、苦労を積み重ねてきて得たものであるのが明白である。長く美しい指は手入れが行き届いていながらも僅かにささくれて、マニキュアに彩られた爪は短く切り揃えられている。それが湯呑を持ち上げ、そっと口元に運んだ。唇を濡らして一つ息を吸い込むと、吐き出すのと同時に女性は云った。
「娘が私の誕生日を祝おうとしてくれていたことになど全く気付きませんでした。苦労をかけない良い子だと思っていただけで、彼女がどれだけのやさしさで私を支えようとしていてくれたかなど気付こうとさえしていなかったのです」
 丁寧に化粧を施され、飾らずとも美しいと思われる面を殊更に美しく彩った女性の表情に仄かに翳りが射す。苦しげに顰められた細い眉がその後悔がどれほどのものであるのかと伝えようとしている気がした。
「一人では生きていかれないのだということに娘を失ってみて初めて気付きました。夫などいなくとも一人できちんと生きて、娘を育てあげることができるだなんてとんだ思い上がりです。彼女があの小さな躰でどれだけ私のことを支えてくれていたか……」
 涙が零れるようなことはなかったが、女性の切れ長の双眸はいっぱいに涙を湛えているかのように煌いていた。
「あの雨の日は私の誕生日でした。毎年、彼女は何がしかのプレゼントを用意してくれました。決して高価なものではありませんでしたが、私にとっては最高のプレゼントでした。それなのに物心がついたころから毎年用意されるそれがいつしか私にとって当然のものになっていたのでしょうね。いつからか自分の誕生日のために休みを取るなどということも忘れて、娘が用意してくれるプレゼントさえもおざなりに受け取るようになっていました。形ばかりの感謝を伝えても、それが空っぽであることを娘が知らずにいたとは思えません。たとえまだ小学校にあがったばかりの幼さでも、そういったことには敏感な子でしたから……。毎夜疲れて帰宅する私を迎える言葉を拙い文字で書き綴り、机の上に置いておいてくれるような子だったんですよ。そんなやさしい子がプレゼントを届けるために雨の夜に私の働く店を訪れて、それが原因でひいた風邪に命を奪われることになるだなんて……」
 すうっと女性の白い頬を透明な雫が伝い落ちた。
「そのプレゼンとはなんだったんだ?」
 泣き崩れるのではないかと思われた女性に手を差し伸べるようにしてフェンドが問う。すると女性はそっと涙を拭って、そっと卓の下に隠していた左手をフェンドの前に翳した。その人差し指に輝くはどう贔屓目に見ても安っぽい玩具の指輪で、中央に輝くは硝子よりも陳腐な模造品の宝石だった。しかしそれを自慢げに見せ、ダイヤの指輪なんですってと云って笑う女性の表情はひどくやさしく、誇らしげだった。
 その時不意に一際大きく風鈴が鳴る。
 総ての音を貫くようにして響いたそれに、フェンドはゆっくりと席を立った。女性の視線がその動きの一部始終を追いかけて、再び席についたフェンドの手には一つの風鈴が下げられていた。
 それは無色透明でありながら眩しいほどの煌きを纏い、見る角度によってそれは一際美しい輝きを放つ、まるで金剛石の如き美しさをまとっていた。滑らかな玉虫色で描かれた水紋を模した模様は見る人を心地よくさせるやさしげなものだ。
 女性がその美しさに目を細め、一つ瞬きをして再度目蓋を開くと幼い少女が真っ直ぐに女性を見つめて佇んでいた。
『ママは世界で一番強くて綺麗な人だよ』
 笑う少女は紛れもなく女性が最も大切にした愛娘であった。響く声も寸分違うことなくいつかのそれと同じで、女性は我知らず左手の薬指を飾る指輪をいとおしむようにして両の手で胸元に抱き寄せる。
『そんなママが大好きだよ。ずっとずっと大好きだよ』
 繰り返される言葉に女性は動くことを忘れた。
「私は……きちんと彼女に大好きだと云ってあげたことがあったかしら……」
 大好きだと繰り返す、少女の声は純粋な透明な響きでありながらも強く温かな響きで持ってフェンドと女性の鼓膜を強く震わせる。
「私も大好きよ。いつまでもずっとずっとあなたが大好きよ……」
 紡がれた一人の名前を呼ぶ声は母親の温かさをまといながら、少女を一人の人間として認める強さを持ち合わせたものだった。
「……臨終の際に間に合わなかった私を彼女はずっと憎んでいるのだと思っていました」
「もう、そんなことはねぇだろう?」
 フェンドの問いに女性ははっきりと頷いた。
「いつの間にこんな大人になってしまっていたのかしら……」
「子供なんて親の知らぬ間に大人になっちまうもんさ。それに、自分のために頑張る母親を放っておけなかったんだろうよ。娘なりにな。それにあんたが自分のことを一人の人間として認めてくれてたことにあんたの娘はちゃんと気付いてたんだろうな」
 云うフェンドの言葉に女性はそれはどういうことかといった風な表情を見せる。
「あんたは自分の娘だからってあの子、とかそんな風に呼ぶことはなかったじゃねぇか」
 女性は云われてみて漸く、自身の娘を「彼女」と呼んでいたことに気付く。自身の子供だからといって所有物のように「あの子」と呼ぶのではなく、一人の人間として認めるかのように「彼女」と呼んでいた。我知らずいつからかそう呼ぶことが当然になっていた。
「知ってるか?」
 同じ言葉を繰り返す今にも消えてしまいそうな果敢なさでもって目の前に立つ娘を見つめたまま、はらはらと涙を流す女性にフェンドは云う。
「ダイヤは美しいだけじゃなく、その硬度は最高なんだとよ」
 強く美しく生きる母に憧れる。そんな母親に愛される自身を嬉しく誇りに思う。そんな幼心が玩具のような指輪にこめられていることに女性は気付く。
「いつの間にかあなたも強くなっていたのね」
 云って女性は自分の娘が誇り高く美しい一人の女性になる片鱗を身につけ始めていたことを知る。まだ小学校にあがったばかりの幼い娘が、一人で生きていくための力強さを身につけ始めていた。忙殺される日々のなかで気付かずに見過ごしてしまったものが、今ここにある。憎まれていなかったということよりも大切なものを女性は風鈴の見せる娘の姿に知った。
「これからも私は強く生きてゆくわ。彼女が認めてくれた私らしく」
 娘に云い聞かせるように、そして同時にまるで自分に云い聞かせるようにして女性は云った。

 
 雨が上がるのを待って、女性は自身が生き抜いていかなければならない場所に向かうために琳琅亭を後にした。その力強い凛とした後姿を見送って、フェンドはもう二度と女性がここを訪れることがないとわかっていながら風鈴が砕けたことは告げずにおこうと思う。掌に抱えた煌く欠片は、それだけでも十分に強く美しい輝きを放つ。
 失ってみて初めて気付くこともある。
 それは不幸なことかもしれない。しかし気付かずに忘れていくよりは時期を遅くしてでも知ったことが良いことが確かにある。当然のように傍に在る時には気付くことのできないものは確かにあり、それをどこかで感じているからこそフェンドは『螢の風鈴屋』を続けているのかもしれなかった。
 伝えきれぬ想いを抱えて息絶えた者の願いが、伝えきれぬ想いを抱えて置き去りにされた者の願いが消えることなく存在するからこそ『螢の風鈴屋』に集う者が途切れることはない。
 喪失と共に忘れていくことが総てであれば、残される想いは意味を失い忘却の涯に朽ちるのみだ。