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<東京怪談・PCゲームノベル>


月は水にたゆとう

ほんの僅かだが、陽射しが変わった気がした。空の色も心なしか澄んで見える。車の音も通りを行く人々の声も遠くなり、それまでの喧騒が嘘のように静まり返っている。風は甘い花の香りに満ちており、しっとりと湿って心地よかった。都会の真中にこんな場所がある事に気付く者は、きっと殆ど居ないだろう。
「…姉さん、また桃を勝手に…」
 木々の向こうから聞えてきたのは、青年の声だ。銀の髪に金の瞳、白いシャツのよく似合う、穏やかな顔立ちをした青年は、竹箒を手に傍らの樹を見上げて溜息を吐いていた。彼の向こうには平屋建ての大きな屋敷が見え、手前には桃の木が数本、満開に花をつけて居た。季節外れ。それ以前に、桃の花と実が同時について居るのだから、ただの木では無い事はすぐに分かる。庭の真中には小さな池があり、青年と、花の色を映して揺れていた。

「こんにちは」
 声をかけると、青年はすぐに顔を上げて、ああ、と微笑んだ。
「こんにちは。よく来て下さいました」
 穏やかな笑顔にこたえて、シュライン・エマは桃の苑へと足を踏み入れた。迎えたのは苑の住人、天玲一郎(あまね・れいいちろう)だ。先刻の彼の独り言から察するに、彼の姉は出かけているようだった。
「鈴さんは、…もしかして行商?」
 以前聞いた話を思い出して言うと、玲一郎は困ったように笑って、ええ、まあ、と頷いた。仙界から移植したと言う苑の桃は、外界のそれよりも大きく瑞々しく、そして何より時を選ばない。玲一郎の姉、鈴は時折それを採っては街で売って小遣い稼ぎにしているのだ。これが中々よく売れて、一個三千円でも毎回売り切れるらしい。
「いい加減にするようにと言っているんですけどね」
 溜息交じりに言う玲一郎に、シュラインは思わずくすっと笑った。対照的な性格の二人だが、仲は決して悪くない。常に互いを思いやっている事を、よく知っている。
「でも、鈴さん居ないのね」
 少しがっかりしたように言うと、玲一郎が首を傾げた。
「姉に用事だったんですか?」
「うーん、用事って言う程の事でもないんだけど…」
 つい先日、シュラインがここを訪れた時、鈴は蔵を整理しているところだったのだ。庭に出された品々の中には、見覚えのあるものもあったりして驚いたのだが…。その時は触れずにいた品の中で、ちょっと気になるモノがあったのだ。そう話すと、玲一郎は
「そういう事ですか。じゃあ蔵にご案内しましょう」
 と請合ってくれた。
「あ、ちょっと待って、これ」
 歩き出す玲一郎を慌てて引き止めて、持ってきた包みを差し出した。
「ミントのパンナコッタ。…お菓子じゃなくても良かったかな〜とは、思ったんだけど」
 と言うと、玲一郎はいいえ、と首を振った。
「姉もとても喜びます。この間のタルトなんか、僕が帰るまでに残りも食べてしまったくらいで…。ありがとうございます」
 冷やしておきますね、と玲一郎は一旦屋敷の中に消え、すぐに戻ってきた。蔵は庭の奥、屋敷の裏手にある。案内されて入ると、中は意外にもほんのりと明るかった。
「どれです?」
 振り向いた玲一郎に、シュラインは片隅に積まれた筆の山を指差して見せた。
「ああ、『弘法の筆』ですね。いいですよ」
 筆の山から1本抜いて、二人は蔵を後にした。

「弘法の筆については、もう聞いているんですか?」
 母屋の縁側に腰掛けて、玲一郎が聞いた。
「ええ、この間ちらっと。確か、どんな問いにも答えられる不思議な筆なんでしょう?手に持ったら、使い慣れた筆記用具に変わるんだって?」
 玲一郎は頷いて、シュラインに筆を渡した。
「僕だと、店で使ってるボールペンになっちゃうんですよ」
 苦笑いしながら言う玲一郎の前で、シュラインが筆を手に取る。するとそれはふわりと姿を変えて、見覚えの在る…やはりボールペンに変わった。但し、玲一郎の使っているそれとはちょっと違う。書き心地とグリップの良さが気に入って、彼女がずっと愛用しているドイツ製の品だ。銀座の文具屋でしか売っておらず、無くなるとよく買いに行っている。なるほど、そう言えば最近、翻訳の仕事でずっと使っていたのを思い出して、シュラインはうーん、と唸った。
「どうしました?」
「良いんだけど…。筆ペンとかに変わったらもっと嬉しいなあ、と思って」
「そうですね」
 玲一郎は少し考えると、彼女の手からもう一度筆を取り上げた。
「ちょっと難しいかも知れませんけど…」
 と、目を閉じる。何か念じていたのだろう、筆は姿を変えたが、それは玲一郎が言っていたようなボールペンではなく、シュラインの頼んだ筆ペンだった。
「出来なくは、無いみたいですね」
 玲一郎が笑って、彼女に筆を返す。
「具体的なイメージを頭の中に描くんです。シュラインさんなら出来ますよ」
 筆を手に、シュラインはじっと目を閉じた。思い浮かべるのは、事務所で使っている筆ペンだ。毛先の柔らかさが丁度良くて気に入っている。
「シュラインさん」
 玲一郎の声で、目を開いた。手の中の筆が、思い描いた通りの筆ペンに変わっている。
「成功ですね」
 玲一郎が微笑んだ。
「本当は、多少なりとも何らかの力を持っている人の方がやりやすいんですが。意志の強い人ならば、出来ない事も無いみたいですね」
「そんなもんなの?」
 そんなもんです、と頷いて、玲一郎が立ち上がった。
「お茶を淹れてきます。紙はそこにありますよ、どうぞ」
 玲一郎が屋敷の奥に消え、一人残されたシュラインは、すぐにショルダーバッグの中から一冊の本を取り出した。昨日の夜見つけた、古い謎々本だ。少し考えれば自分でも分ってしまうようなものだが、弘法の筆が言われた通りの物ならば、シュラインが答えを出すより早く、書いてくれる筈だ。
「よしっと。まずは、1ページ目…」
 謎々と言うより、簡単な頭の体操に近い問題だった。三人の少年の言葉から、嘘を吐いている子供を当てる、と言うものだ。シュラインが考えるよりも早く、筆はすらすらと答えを書いた。
「・・・武雄?え?そうなの」
 慌ててページをめくる。筆の答えは当たっていた。
「面白いわね」
 次々と問題を解いてみる。変な駄洒落問題からマッチ棒を移動させて図形を作る幾何問題まで、筆は全て正解した。
「成績優秀なようですね」
 謎々に夢中になっていたのだろう。いつの間にか戻っていた玲一郎が、パンナコッタと茶の載った盆を置いて、彼女の手元を覗き込んでいた。
「そうね。これなら試験には合格しそう」
 と言うと、玲一郎が当然、と頷いた。
「元々、出来の悪い息子を科挙に受からせたいという金持ちからの頼みで、やはり仙であった私の先祖が作ったものですから」
「聞いたわ。でも、それって仙人がする仕事な訳?」
 と率直に聞くと、玲一郎は、変わり者だったんですよ、と決まり悪そうに笑った。
「それで、筆は気に入りました?」
「ええ。字体は申し分無いわ。問いが無ければ、思った通りの字が書けるみたいだし」
 と、手元の紙に時候の挨拶など書いてみる。仕事で使う挨拶状に使えそうだ。が、もう1つ、気になる事があった。
「ねえ、問いって、こういう問い以外にも答えられるの?」
「まあ、色々ですね。限界はありますよ」
「例えば?」
「そうですね、不安定なモノ…未来とか、人の気持ちについては答えられません。それから、誰かがどうしても隠したい、と思っているような事については、ちょっと難しい事もありますね」
「秘密って奴ね。…ま、人の秘密を無理やり探るなんてのは趣味じゃないけど。でも、どうして?」
「よくは分からないんですけど…。これは人の意志を感じ取るモノですから、何らかの影響を受ける、と言う事のようです。だから、隠したいと思う人の気持ちより、知りたいという気持ちの方が切実で、強ければ…」
「答えてくれる…かも?」
 ええ、と、玲一郎が頷いた。試してみますか?と聞かれたが、シュラインはううん、と首を振った。今の所、どうしても知らなければならない他人の秘密なぞ、無い。だが…。
「でも、秘密じゃなさそうだから、ちょっと試して見たいんだけど」
 首を傾げる玲一郎ににやりと笑って、シュラインは筆を取った。この間から気になっていた事。それは…
「玲一郎さんと、呑天さんの出会いは?」
「…そんな事を…」
 呆れる玲一郎の前で、筆ペンがさらさらと走る。だが、書かれた文字を見て、シュラインは首を傾げた。
「…呑まれた?」
 どういう事?と彼を見上げると、玲一郎は溜息を吐きつつ、
「そのままですよ」
 と言ってまた深い息を吐いた。
「いきなり飲み込まれたんです」
「出会い頭?…じゃあ最初っから…」
「嫌われてましたね、呑天には」
 そう言った玲一郎の表情には、悲しみと言うよりは諦めの色が見える。
「元々あれは雄ですから、男性よりも女性の方に懐きやすいらしいんですけどね。僕の場合はそれよりも多分…」
「多分?」
 促しつつ、シュラインは茶を一口のみ、パンナコッタを一口食べた。すうっとミントの爽やかな香りが、口の中に広がる。
「呑天は、僕が彼から姉を取ってしまうと思ったんでしょう。僕が来るまでは、ずっと姉と二人きりだったみたいですから。最初から敵だと思って居たんでしょう。会った瞬間、目の前が暗くなりました」
「…それから、ずっと?」
「姉が言い聞かせたらしくて、急に飲み込まれる事は少なくなりましたけどね。でもその代わりに噛み付かれたり空から振り落とされたり。姉が見ている時は何もしないんですが」
「な、なるほどね…」
 これでは苦手にならない筈がない。最初は呑天が一方的に嫌っていたようではあるが。でも、それならば玲一郎が一言言えば良い事ではないのか、彼から鈴を取ったりしない、と。シュラインがそう言うと、玲一郎は彼にしては珍しく、にやりと笑って、
「そこはそれ、こっちにも意地ってものがありますから」
 と言った。何の意地なんだか、と首を傾げつつも、茶をまた一口、飲む。鈴が淹れたのとは少し違うが、美味しかった。
「これ、美味しいですね」
 玲一郎が言ったのは、パンナコッタの事だ。
「今の季節にぴったりです。爽やかな味がする」
「お世辞言っても、何も出ないわよ」
「お世辞じゃあありませんよ。本当に美味しいです」
「なら嬉しいけど」
 並んで縁側に座り、ゆっくりと茶と菓子を食べる。静かな時間の中で、シュラインはただじっと、桃の花がはらはらと花びらを落とすのを見ていた。薄紅色の花びらは、くるくると廻りながら池に落ち、水面に小さな波紋を描いた。揺らいだ水の向こうには、ふっくらとした月が輝き始めていた。陽が落ちたのだろう。
「そろそろ、帰ろうかな」
 シュラインが立ち上がると、玲一郎も頷いた。
「筆は、お持ち下さい。シュラインさんなら、きっと上手く使っていただけるでしょう」
 彼に礼を言い、ゆっくりと桃の苑を後にする。しばらく緑の小道を歩き続けると、いつの間にか元居た雑踏に戻っていた。空を見上げると、池の水面に輝いていた月が、狭いビルの谷間にひっそりと昇っていた。

<月は水にたゆとう 終わり>

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】

<登場NPC>
天 玲一郎(あまね・れいいちろう)

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■         ライター通信          ■
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シュライン・エマ様
ご発注、ありがとうございました。ライターのむささびです。
『花は天に舞い』に続いて、今度は玲一郎とお話いただきありがとうございました。楽しんでいただけたなら良いのですが。呑天と玲一郎は、鈴を巡ってライバル、と言う関係のようです。パンナコッタは無事食べる事が出来、玲一郎も喜んでいるようです。勿論、彼はちゃんと姉の分も残しておいたようですが。『弘法の筆』、差し上げました。どうぞお使い下さい。それでは、またお会い出来る事を願いつつ。

むささび。