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<東京怪談ノベル(シングル)>


空の青と地の青


 夏前に訪れる長雨の中休みといったところだろうか。
 晴れ渡った空は澄んだ青で満たされていて、色濃い緑を風が静かに撫でていく。
 マリィは、公園の一画で足を止めていた。都心近くにありながらも広大な面積を誇っているその公園には、四季おりおりの花々が人々の心を慰め咲いている。
 その場所を訪れたのは、ほんの気まぐれであったかもしれない。毎日飽きもせずに続く長雨に、ほとほと疲れてしまっていたのかもしれない。
 あるいは、他の人々と同様に、花々を眺め心を和ませようとしていたのかもしれない。ともかくも、彼女はその場所で足を止め、道の両脇を青紫に染めあげているあじさいの花に目を向けていた。
 いくらか湿り気を帯びた風が、涼やかにあじさいを撫でていく。花はさわさわと小さな音をたてて揺らぎ、雨が再び降りてくるのを待っている。
 ふ、と。マリィは目をあげて道の向こうに視線を向けた。人だかりが出来ている。見れば、カメラを担いだ男や音声マイクを担いだ男に囲まれて、スーツ姿の女が何事かを口にしていた。
「このあじさいの下から、白骨死体は見つかりました。死後かなりの年数が経っていると見られ、年齢や性別といった鑑定は不可能だという事なのです」
 真剣な面持ちでリポートしている女の言葉に、マリィはため息を洩らして頷いた。
――――そういえば、朝早くからそんなニュースをやっていたような気がする。確か、あじさいの下から人骨が見つかったのだとかなんとか。
「……面倒なところに来ちまったねぇ」
 ぼやき、肩を竦ませる。「ヘンに騒がしいのも、何だしねぇ……」
 場所を変えようか。そう思って踵を返しかけた時、マリィの目の端に、一人の老人が映りこんだ。
 
 老人は周りの喧騒になど目もくれず、ただ黙々と絵を描いている。芝生の上、多少の違和感をまといつつ、老いた男は筆を動かしている。気付けば、マリィは老人の傍へと歩みを進めていた。
「何を描いていらっしゃるの?」
 訊ねるが、老人は手を休める事なく、小さな唸り声にも似た返事を返すばかり。
 訪れたしばしの沈黙に、マリィは老人の手が描いているものをちらりと覗きこんだ。
「あじさいを描いてらっしゃるの。お上手ですね」
 感嘆の息を一つついてみせながらそう話しかけると、老人はようやく小さな反応を示した。――とはいえ、マリィに一瞥してみせただけなのだが。
 老人の返事に期待を寄せることをやめ、マリィもまたしばし口を閉ざしてその手の動きを見つめることにした。

 老人の手には一本の筆。描かれていくのは見事な色彩を浮かべたあじさいの青。水彩の淡い彩りが、白い紙の上に瑞々しい命を吹き込んでいく。

「……本当に綺麗」
 再び感嘆の息をついたマリィに、老人はふと手を休め、静かな落ちついた声音で言葉を成した。
「……絵が好きかね」
「ええ」
 なんの前触れもなく告げられた老人の言葉に驚きつつも、マリィは柔らかな笑みを浮かべる。
「私、骨董を扱う店を開いているんですよ。中には絵画などもありますし、めずらしい絵画があれば仕入れに足を運んでいます」
 応えると、老人は、やはり小さな唸り声にも似た返事を返し、深いしわの寄った目尻をわずかに緩めた。
「なるほど、なるほど。それでは、絵を解する心もお持ちかな」
「絵を解する心……それはどうか分かりませんが、この絵に心が宿っているのは分かります」
 老人はマリィの言葉に小さく頷くと、再びゆっくりと筆を動かし、あじさいに色をつけていく。
「心の宿る絵は人の心の琴線をふるわせる。……わたしの絵がおまえさんの心に美しく映ったのであれば、それは描き手としてもっとも喜ぶべき事だわいのう」
 呟き、口の片側にゆるやかな笑みを滲ませる老人に、マリィもまた笑みを浮かべる。

 テレビ局の人間達と、それを取り囲む野次馬達が、公園の中をうろうろと歩き回っている。
 
「ところで、ありゃあ一体なんの騒ぎかね」
 やはりなんの前触れもなく、老人がマリィに問いた。訊ねつつも、特に顔をあげてそちらを見やるでもなければ、手を休めるわけでもない。
「そのあじさいの下から人骨が見つかったそうで。なんでも結構古いものらしくて、詳細の判別がつかないんですって」
 老人は唸り声のような返事を一つした後に、再び沈黙へと戻っていった。

 風が吹き、綺麗に並んで伸びている樹林がゆらゆらと影を落とす。
 空は時折翳りをおびてみたりしながらも、気の早い夏を思わせる陽射しを降り注いでいる。
 あじさいはさわさわと歌いながら、老人の手が生み出していく仲間の息吹を心待ちにしているようだ。
 老人の手が創り出していく花に視線を向けながら、マリィはゆったりと頬をゆるめ、口を開けた。
「――――その絵の中に、あなたの心を描き、遺していかれるの?」
 問うと、老いた男は一瞬だけ手を止めて、短いため息を洩らした。
「だぁれも看取ってくれなんだ。ただあじさいだけがなぁ、わたしの終わりを見守ってくれていたのでな」
 答え、やんわりと笑みを浮かべる。
「おまえさん、気付いておったのか」
「えぇ、初めから」
「……生きておる者とあんまり変わらない見目だったはずだがなぁ」
「フフ。そうね、今日が曇りだったら、もう少し違和感なくいられたかもしれないけど」
「曇りだったら?」
 眉根を寄せて訝しげな表情を作り、老人はふとマリィを見やる。マリィは老人の視線に応えるように、そっと足元に指を向けた。
 マリィが示した芝の上には、初夏の陽射しが作り出した影が一つ伸びている。
「あぁ――、なるほど」
 苦笑いを浮かべる老人に、マリィは穏やかにゆるめた視線を向けた。
「影がないのは不自然だものね」
 笑ってみせるマリィに、老人もまた照れたように笑んだ。
「いや、確かにそうだ。ハ、ハハ」
 
 恥ずかしそうに笑う老人の姿は、徐々に薄れていき、粒子が空気に溶けいるように、足元からゆっくりと消え始めた。
「おまえさん、骨董屋だと言っていたね」
 消えていく老人の言葉に、マリィは小首を傾げて瞬きを一つ。
「この絵を、おまえさんの店に置いてはくれまいか。売り物にはならんだろうが、隅の方で埃の下で眠らせておいてくれるだけでいいんだが」
「もちろん」
 満面に笑みを浮かべて頷くマリィに、老人は安堵の表情を浮かべて目を細ませる。
「……おまえさんがここに来てくれて、助かったよ」
 そう言い終えると、老人の姿はすうと消失していった。
 後に残ったのは、芝の上で風に舞う一枚の白い紙。その中には、一杯に咲き誇るあじさいの青が広がっている。
 マリィはそれを拾い上げると、艶やかな黒髪を風になびかせながら、あじさいに目を向けた。

 初夏の陽射しの下、青々とした色彩で地を染めあげているそれは、どれだけの時、老人の眠りを守ってきたのだろうか。
 老人は、どれだけの時をさまよい続けていたのだろうか。
 知る術はないが――――マリィは紙の中の花を眺め、ふと笑みを浮かべた。

 花の色と同じ彩をたたえた空が、夏を知らせる風をはらみながら、悠然と両腕を広げている。


―― 了 ――