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せめぎあう、黒と銀
「やむをえないわね」
羽澄のおもてが、すっとひきしまった。和馬は、その瞳がやわらかい表情を失うと、なんと冷たく冴え渡るのかということを知った。
宙を舞う、ダンスのようなステップ。銀色の稲妻がスパークするや、彼女の鞭が空気を裂いた。
つつ――、と、和馬の浅黒い頬を、鮮やかな血のひとすじがつたう。
「本気かよ」
舌打ち。尖った犬歯ののぞく口から、ウウウと獣じみた唸りが漏れた。
ふたりはゆっくりと間合いを取りはじめる。
廃工場の破れた天井からこぼれ落ちてくる月明り。
息を詰めて、ふたりは対峙する。
刃を向けあったことなどなかったが、本気で戦い、気を抜けば致命的なことになる相手だと、お互いによくわかっていた。
†
時を遡ること数時間前。
藍原和馬は、『神影』で昼寝――もとい、店番をしていたところを叩き起こされ、店主にして師匠に、その仕事を言いつかった。
一方、同じ頃、『胡弓堂』においてもある品物を回収するよう、光月羽澄のもとに仕事が舞い込んできていた。
それはいかなる神の――あるいは、悪魔の悪戯だったか。
「またなの」
「まただな」
顔を見合わせて、ふたりは笑い合った。
「『ガルガンチュアの壷』だな」
「ええ。この骨董屋さんに流れたって」
「『壷』がどんなものかは知ってるな?」
「あらましだけはね。でも詳しいことはわからなかったの。とにかく、たちの悪いものが憑いてるっていうだけで」
「じゃあ、この店の店主に聞きぁ、わかるだろ」
和馬は、店のドアを押し開けた。
埃っぽい店内はうす暗い。骨董品が天井近くまで積み上げられ、狭い店内は見通しが悪かった。品物は『胡弓堂』のように整理されてもいなければ、『神影』のように本当に価値あるものが眠っているというわけでもなさそうだった。要するにがらくたなのである。
ふたりは慎重に店の奥へと足を踏み入れていく。
「……」
ふたりは無言で顔を見合わせる。
店の奥から、ぶつぶつと、人の呟く声が聞こえたからだった。
「……とが……だって……やつの……」
切れ切れに聞こえてくる言葉の断片、そして、押し殺したような笑い声。
ふたりは誰も居ない帳場を越えて、さらに奥の部屋へ。
するとバックヤードには……
「遅かったか」
和馬が呻いた。
店主とおぼしき男が、青銅の小振りの壷を抱えるようにして、床に座り込んでいた。
「憑かれてる……の?」
ふたりが入ってきたのにも、気づく様子はない。店主はうつろなまなざしを宙に漂わせ、ぶつぶつと意味のわからないことを呟いているばかりだった。
「おい」
和馬が声をかけた、そのとき――
けたたましい笑い声を、男が立てたので、ふたりは身をすくませた。哄笑が響き渡る。そして、目には見えないが、たしかにその存在を感じ取れる、あやしいなにかが飛び立つ気配。
「しまった」
「逃げたわ!」
羽澄が鈴の音を鳴らして、震動で捕捉しようとしたが、それは霊力の網を巧みにかいくぐった。
「はやく捕まえないと。外に出たらもっと被害が」
言われるまでもない。ふたりは店を飛び出した。
雑踏の中に紛れていく人の背中に、あやしい影がまとわりつくのを、羽澄はとらえる。
「あそこ!」
そして、人から人へ、乗り移っては逃げ回る、影との追いかけっこがはじまった。
「畜生め」
悪態をつきながら、和馬が電信柱に貼付けたのは、一件、なにかのビラのようだったが、よく見れば不可思議な紋様で埋め尽くされた、なにかの呪符らしい。
汗をぬぐいながら、羽澄に目で問う。ふたりでよかった、と和馬も羽澄も思っていた。ひとりなら、あれを追い詰めるのにはもっと苦労しただろう。
「えーと。それで××町は封鎖できたわ」
クリップボードの上の地図に、羽澄がしるしを入れる。和馬を呪符を張ったポイントを線でつなぐ。しだいに、結界の幅を狭めて、目標を追い込んでいるのである。
「つうことは、このブロックのどこかにいるってことだな」
「どんな人に憑いてたか、覚えてる?」
「最後に見たときは……茶髪の小僧じゃなかったっけか」
「その後、転移してなければいいけど……」
そしてふたりは、その廃工場へと踏み込んでいった。
『ぎゃはははははははははははははははは!』
狂おしい笑い声とともに、それはふいに飛び出してきた。
「観念しろよ!」
『……おっと、待たんか』
錆びたドラム缶の上に腰掛けているのは、まだ若い青年だったが、その声は嗄れた老人のそれだった。
『それ以上近付くと、この男が死ぬ』
それは言い放った。
「……ンだと、こらァ」
「和馬さん、待って」
羽澄は和馬を引き止めた。
『そうだ。それが利口だ』
「何が望みなの」
羽澄の気丈な瞳が、青年を――いや、その中にひそむものを見据える。
『鬼ごっこは充分に楽しませてもらった。次の余興は……そうだな――、おまえたちのうちどちらかひとりの命とひきかえに、この男は返そう』
「な……」
『わしの前で戦ってみせるがいい。わしは何よりも、人が殺しあうのを見るのが好きだ。あのくそ忌々しい壷に封じられるまで、わしはそうして、何人もの人間をそそのかし、血で血を洗ういさかいを起こしてはそれを楽しんできたのだ。さあ、はやく殺り合うがいい。さもなくば――』
「やむをえないわね」
羽澄が、深い息を吐き出しながら言った。
そして、手の中で鞭をしならせたのである。
†
だん、と床を蹴って、和馬の身体が跳躍する。
はっと羽澄が上を見上げたときには、投下された黒い爆弾のように、獣の力を持つ男は彼女に上方から迫ってきていた。
「く……!」
バックステップで体勢を整えつつ、迎撃。しかし――
たしかに鞭が打ち据えたと見えた瞬間、その姿は、ぱちんと風船が割れるようにかき消えている。
「身替わり!?」
宙を舞う、破れた呪符のきれはし。悪霊の耳障りな笑い声が響いた。そして、羽澄は自分の真後ろに、男の気配をとらえる。
はっとふりむくよりもワンテンポ早く、和馬の腕が羽澄の手をとらえ、捻り上げた。
「あッ」
文字通り、赤児の手を捻るとはこのことか。腕力そのものは、羽澄が和馬にかなうべくもない。
『ひゃはははははは、やれ! やっちまえ!!』
だが、羽澄は慌てなかった。下卑た合いの手にも惑わされず、おどろくほどの身体の柔軟さを見せて、後ろ足で和馬を蹴り上げる!
「ぬお……ッ!!」
微妙なところに蹴りが決まって、黒衣の男は息を呑む。
あっさりと拘束を脱した少女は、一転、男の腕を掴むと、あざやかな手並みで、背負い投げをくらわした。一本!
ぐう、という獣の呻きとともに、床の埃がもうもうと舞った。
『どうした、男。おまえの負けか』
「黙ってろ!」
すぐさま体勢をたてなおす和馬。羽澄は駆けた。その手の中で鈴が鳴る。しかし、連続した大立ち回りに、彼女の息が上がっている様子だ。
「がァう!!」
再び、和馬が飛んだ。そしてそのときすでに、彼の姿は――人ではなかった。
「きゃっ」
爪が、羽澄の袖を裂く。今度こそ、獣は彼女を押し倒す。
『よぉし、殺れ! 喰ってしまえ!!』
「がァアッ!」
くわっ、と、黒い獣は牙を向いた。
牙は獲物に突き立てられるか、それとも、少女がすばやい身のこなしで窮地から抜け出るか。いずれにせよ、拮抗するふたつの力が真っ向から衝突したかに見えた……が――
リ――――ンンン……
鈴の音。
『う』
闇の中に、音が幾重にも反響してゆく。
『……き、きさま――ら……!!』
地獄の底からのような、怨嗟の声。それには言い様もない苦しさがにじんでいる。
『おのれ……たばかったな!!』
「今までさんざん、人をもてあそんできておいて、よく言うわ」
冷ややかに言って、羽澄はゆっくりと身を起こした。
床の上で……呪符が青白い光をぼんやりと放っていた。
その輝きが、敵を呪縛しているのだ。そして、羽澄の鈴が、封印された空間に響き渡り、浄化してゆく。
「さあ、消えなさい」
羽澄の声音に、容赦はなかった。
そして、断末魔の叫びがやんだときには、邪悪な気配は消え失せ、ただ容れ物にされていた青年が昏倒しているばかりだ。
だがそれでもしばらく、羽澄の表情は硬いままだった。
彼女は静かに、怒りを感じていたのである。大切な友人との絆を、まるで試すように弄ばれたことを。
「どの時点で気づいた?」
にやにやと和馬が笑いかけてくる。
「それこっちの台詞」
「ちょっと無茶したかな」
羽澄は笑ってかぶりを振った。
「私のほうこそ。大丈夫?」
「大丈夫じゃねェーなァ〜」
うがあ〜、やられたぁ〜、と言いながら、おおげさに倒れてみせる和馬。くすくすと、羽澄は笑った。
「あ、例の壷……。お詫びのしるしに『神影』に譲るわ」
「おっ、そうかい」
「店主さんによろしく」
「……今日のコト話したらなんて言われっかなァ……」
決まり悪そうに、和馬は頭を掻くのだった。
(了)
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