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巣食う闇
人工的に華やぐ街。それはどこか淀んだ水の臭いがする。煌くネオンの光と濃淡を変える闇が描く明暗。眠ることを忘れた街は昼の表情を闇に染めて、硬質な作られた光をまとって聳え立つ。朝が訪れ今は姿を隠す太陽が再び姿を見せれば、夜の底に犇いていた闇たちは滲み溶けていとも容易く消えていくというのに、今陽光を忘れた時間のなかにある総てはそこかしこに闇がもたらす冷たさと茫漠とした残酷さを兼ね備えている。
街はただ、人工的な明かりに照らされて明るい。
九重蒼はその街の片隅に腰を落ち着ける一軒の居酒屋のカウンター席にいた。一見すればどこにでもある居酒屋にすぎないそこであったが、所詮明暗二つの顔を持つ街の一部。太陽が姿を隠せばもう一つの顔が露になる。まばらに散らばる席に客を装い腰を落ち着ける人々は、皆それぞれに商品となる情報を抱えている者であったり、その情報を求める者だ。情報という確かな形を持たないものが商品として売買される場所は確かに存在する。それがこの居酒屋だ。
今蒼がこの場を訪れているのは何もそれを知らずに訪れたからではない。ここ数ヶ月の間に起こった不可解な事件。それがどこか自分に無関係なものではないような気がして、蒼は人知れず独自の調査を開始していた。十数件にものぼる不可解な事件。それらは総じて血生臭いもので、無事に解決したものなど一つもない。どれもこれも無関係のようでありながら、結末は同じだ。犯人は皆揃いも揃って死ぬか狂うかのどちらかである濾過され報道される情報がどこまで本当なのかどうかはわからなかったが、犯人が至る結末がどれもこれも同じであるというそれが蒼の意識に引っかかって離れない。
そうした情報を蒼は隣に腰を落ち着ける男に手短に話して聞かせる。以前ほんの僅かな偶然で蒼が命を助けることになったその情報屋は、時折ふらりと訪れる蒼に格安料金で有益な情報を提供してくれる存在だ。その確かさを蒼はこれまでの経験のなかでよくわかっている。
最近、話題になっている不可解な事件を蒼が独自に調査し始めてからも度々世話になっていたが、直接こうして会って情報を得ようと思ったのは今日が初めてだ。断片的に得ることができたこれまでの情報と情報屋が持つそれをリアルタイムに照らし合わせれば、これまで判然としなかったものもはっきりとするのではないかと思ったから蒼は今こうしてここにいる。そして情報屋はそんな蒼の期待を裏切ることなく、確かな証拠を伴う答えを淡々と紡ぎ続けていた。
これまで大衆に向けて発信し続けられていた茫漠とした情報が蒼だけのものとなって確かな輪郭をまとう。情報屋の言葉が一つ一つを確かなものに変えていく。それらは決して快い気持ちになれるものではなかったが、これまで不確かだったものが確かになっていく感覚はどこかで蒼を安堵させた。
それでなくともわけもわからないままに事件が身近に迫っている気配を感じる昨今。巻き込まれているのではないかという不安がそこかしこに点在している。自覚していないわけではない。どこかで既に巻き込まれているのだとわかっているからこそこうして独自の調査などというものを始めているのである。やめることができずどこまでも追いかけようとしている自分がどこかで怖くあるのも本当だ。しかし始めてしまったそれを今更やめられるのかといったらそうではない。それでなくとも気にかかることばかりが増えていくのだ。一つ事件が増える度に、蒼のなかには多くの疑問が湧き出すように生じてくる。知りたいと思う欲求。それに足を踏み入れたら戻ることはできなくなるのではないかという恐れ。しかし総てを総合して考えて気付くのはいつも、結局今更引き返すことは出来ないというただそれだけである。
最後に一つ、そう云って蒼が十字架について問う言葉を音にすると、情報屋は不意に表情を曇らせた。何かを知っているのは明らかだったが、まだどこかで確証を持てないといったような曖昧な気配がする。情報屋を生業にしているからこそのプライドなのか、男は決して確証の持てない情報を易々と口にすることはない。だからこそ常にもたらされる情報は確かなものであり、蒼は男の情報を信用しているのである。
「聞いたことはあるよ。でもな、関連があるかどうかは定かじゃない。少し調査させてもらえないか」
云う情報屋に蒼は頷いて、目の前に並ぶ注文した品々の代金に情報量をプラスした金額をカウンターに残してそっと席を立った。情報屋はまだ今日の業務が終わらないのか、その場を動こうとはしない。そんな情報屋に別れの言葉以上の言葉をかけるでもなく、蒼は店を出て自宅へと爪先を向けた。
その道すがら頭にあるのは情報屋から得た情報である。自身が持つそれと与えられたそれを照らし合わせ考えながら行く道は夜道。この頃よく見ることになった不吉な夢のせいで眠れぬ日々が続いているせいもあって、この頃の思考はどこか薄闇がかかったように曖昧であったが、一つを考えるとなると奇妙に澄んでいくような気がする。
一つ一つ繋ぎ合わせる。
全く関係のないかのような事象。
しかし繋がりがわかればパズルのピースがぴたりと当てはまるようにして新たなヴィジョンが見える。
知る出来事の一つ一つは確かにどこかで繋がっている。
新たに描かれるヴィジョンがそんな気配を蒼に教える。
そして同時に情報の足りなさで生じる明らかなピースの欠如が行く手を塞いだ。
新たな情報が手に入らなければ総てが符合することはない。思いながらふと角を折れた。不規則に明滅する街灯のその下に複数の人間が群れている。時折響く鈍い音や嘲りの声、罵倒の鋭さが暴行の現場を目の当たりにしているのだということを蒼に教える。
唐突に、総てが不快だと思った。明らかに睡眠不足の頭が軋むような不快感を明瞭にしていく。考えるよりも先に行動が生じる。先程までは冷静だった思考が起こされる行動についていけず置き去りにされて、無意識に強く握り締めている拳。駆け出す両足は一人に対して数人で暴行を加える男たちのもとへと蒼の躰を運び、伸ばした手はそのうちの一人の首根っこを躊躇うことなく掴み引き倒した。何事かと振り返る男たちを気にすることもなく、ただ淡々と蒼へと標的を変えた男たちを殴り、蹴り、その場に倒していく。誰かを助けるといったような言葉は意識の内から消失して、ただ暴力という二文字だけが明らかになる。思考回路は活動を停止している気配。肉を打つ鈍い音だけが鼓膜を震わせる。助けを求める声は蒼の耳に届くことなく闇に消えて、常軌を逸しているとも思える蒼の姿をそれまで殴られていたまだ幼さの残る少年が恐れおののいた眼差しで見つめている。
何度目になるのかわからない。振り上げた拳を胸倉を掴み固定した男の顎に叩き込んで、蒼は不意に胸の奥で笑う誰かの声を聞いた気がした。それを合図に緩やかに理性が戻り、行動が停止すると同時に思考が回復する。刹那に生じた隙をついて男たちが逃げ出していったが、蒼はそれを追いかけるようなことはしなかった。不意に鮮明になった自身の胸の内に巣食っていた闇に動けなくなる。無数の足音が遠ざかり、あたりに夜の静けさが戻ってようやく次の行動を起こす。
「大丈夫か?」
腰を抜かしてアスファルトにへたりこんだままの少年に問うと、少年は声にならない悲鳴を上げてよろめきながら駆け出した。
それが教える。
闇はいつもすぐそばにある。
敵もまたすぐ傍にいる。
「敵は……」
呟く蒼は脱力して両腕を体側に垂らし、空を仰いだ。
闇色の空。
「……敵は俺のなかにもいたんだったな」
人を殴り、蹴り上げた全身が軋むように痛む。意識すればそれが無意味で、自分らしくないことは明らかだったが不意に鎌首を擡げた衝動を押しとどめることができなかった。
寝不足のせいだと云い切ることはできない。
破壊衝動。
人を人と思わぬ闇の心。
それは今、確かに自分のなかにあった。
そしてこれから先もずっと自分の心のなかにあるのだと蒼は強く実感した。
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