コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


柔触


 ごほごほ、という咳が室内で響いていた。
(くそー)
 布団にぎゅっと包まりながら、ジェイド・グリーン(じぇいど ぐりーん)は考える。頬が熱を帯びているのが分かっていたし、何となく関節も痛い。目を開ければ潤んだ世界が訪れ、放っておくと何故だか涙が溢れそうになる。そのくせ、暑いのではなく寧ろ寒い。寒くて布団に入るのに、汗は出てくる。
 つまりは、風邪。
 それも夏風邪である。
 夏風邪は馬鹿が引く、というのが通説である。なんでも、体調のコントロールが上手く出来ないからだとか。
(俺は、絶対馬鹿だからひいたんじゃないぞ)
 ジェイドは心の中で考える。風邪をひいたのは、慣れない日本で雨に濡れた筈なのだと何度も言い聞かせながら。
 慣れない日本。そう考えてから、ジェイドは考える。
 慣れない日本で雨に打たれ、あのまま雨に流されてしまってもおかしくなかったのに……今、ここにいる。暖かな布団と雰囲気に包まれて。
(それも皆……)
 ジェイドが考えていると、トントンと控えめなノック音が響き、部屋の中に人が入ってきた。高遠・弓弦(たかとお ゆづる)である。
「あの……具合はどうですか?」
 弓弦はそう尋ね、ジェイドの寝ているベッドに近付いた。そっと手を伸ばしてジェイドの額に当てる。白く綺麗な指先が、ジェイドの視界を掠める。
「やっぱり、熱があるみたいですね」
 弓弦はそう言うと、デジタル体温計を出してジェイドに手渡した。ジェイドがそれを不思議そうに見ていると、弓弦は少しだけ笑った。
「脇の下にはさんでくださいね」
 ジェイドは小さく「ああ」と言ってから、言われた通りに脇の下に挟む。ひやりとした感触が、何となく気持ちいい。
 弓弦は冷たいタオルをジェイドの額に乗せ、ジェイドを心配そうに見つめた。
「本当に、今朝はびっくりしたんですよ」
 弓弦の言葉に、ジェイドは思い返す。今朝あった、弓弦を驚かせた出来事を。


 朝、ジェイドは自分の体が明らかに気だるい事に気づいてはいた。しかし、それを弓弦に伝えたら心配するだろうと確信していた。
(心配させないようにしないと)
 そう思ったジェイドは、なるべくいつもと変わりないように振舞いながら朝食の席についた。
「……顔、赤いですよ?」
 弓弦はジェイドの顔を見てすぐにそう言ったが、ジェイドは「気のせいだって」と言いながら小さく笑った。
「全然何ともないから」
「でも」
 ジェイドの顔をじっと見つめていた弓弦は、再び心配そうな顔で言葉を続けようとした……が、それは続けられる事は無かった。
 ジェイドが笑いながら、真っ赤な顔をしたまま、その場にばたんと倒れてしまったからである。
 弓弦は何度もジェイドに呼びかけたが、ジェイドはごほごほと咳で答えるばかりだった。弓弦はジェイドを支え、部屋のベッドまで一生懸命連れて行ったのである。
 そうして、今に至る。


「……ごめん」
 ジェイドは素直に言葉を紡ぐ。心配かけまいとした行動が、余計に心配をさせてしまったから。弓弦は謝るジェイドに向かい、そっと首を振る。
「私を心配させまいとしてくれていたのでしょう?」
 弓弦の言葉に、ジェイドは頬が熱くなるのを感じた。風邪のせいだけではない熱が、カッと顔を熱くする。
 ピピピ、という電子音が鳴り響く。体温計が計り終えたことを告げたのだ。ジェイドはだるい体を奮い起こしながら、それを手にとって弓弦に手渡した。
「……38度あるじゃないですか」
 弓弦は驚いたようにそう言い、ジェイドに「大人しく寝ていてくださいね」と言ってから部屋を後にした。その慌しい様子に、思わずジェイドは笑みをこぼす。
(暖かくて、優しくて……まるで……)
 ジェイドは額の冷たいタオルを感じながら、そっと目を閉じた。ひんやりとした感触が、頭の中にまで浸透するかのようであった。


 一方、部屋を出た弓弦は台所で腕まくりをしていた。
「しっかり食べて貰って、お薬を飲んで貰って、ゆっくりと寝てもらわないといけませんね」
 小さく「うん」と頷いてから、弓弦は作業に取り掛かった。
 風邪といえば、お粥。食欲があるかどうかは分からないが、ともかく栄養をつけてもらわねば治るものも治らないだろう。弓弦は米をといで土鍋に入れ、水を入れて火にかけた。冷蔵庫から卵を出し、ほんの数量だけ出汁を入れて溶く。煮立った土鍋に入れれば、卵粥が出来る筈だ。
 お粥が出来るまでの間、収めていた氷枕を取り出した。水を入れて氷を入れ、口をしっかりと閉じる。
(私がいつもしてもらっている事ですね)
 弓弦はそう思い、何となくくすぐったい気持ちになった。
 虚弱体質の弓弦は、よく熱を出して寝込んでしまっていた。熱を出して寝込むと、姉は粥を作ってくれたり氷枕を作ってくれたりした。今、弓弦がしているのと同じように。
(なんだか、不思議です)
 弓弦はそっと微笑む。
 こうして寝込んでいる相手の世話をするという事は、胸が熱くなってくる。勿論、心配なのには変わりがない。だが、同時に強く思うのだ。早く治りますように、と。
 弓弦は土鍋の蓋を開け、粥が出来ているのを見計らって溶いておいた卵を入れる。黄色い液体が、土鍋の中で薄いクリーム色に変化する。最後に三つ葉をそっと散らした。
「これで、いいですね」
 美味しそうに湯気を放つ土鍋に再び蓋をし、盆に乗せる。加えて粥を取る為の椀とレンゲ、それに水と薬を乗せた。
「何とか、乗りそうですね」
 弓弦は呟き、氷枕も盆に乗せる。大きな盆だった為、土鍋たちを置いても半分くらいスペースが余ったのである。二往復しなければならないかと危惧していたが、どうやら一回で済みそうである。
 再びジェイドの部屋に行き、ノックをしようと足を止めた。が、両手が塞がってノックどころか開ける事すら出来ない。
(どうしましょうか)
 一旦床に置くかどうかを真剣に弓弦は考える。
(でも、食べ物ですし……一度置いたら再び持ち上げるのも……)
 そうこう考えていると、カチャ、という音がしてドアが開いた。ドアの向こうには、ほんのりと頬が赤いままのジェイドが立っていた。
「どうして……?」
「あー……なんか、いるような気がして」
 ジェイドはそう言い、ベッドに戻る。弓弦は一瞬ぼうっとし、それから軽く顔を振ってベッドに戻るジェイドに続いた。
「食欲はありますか?」
「……うん」
 ジェイドの返事にほっとし、弓弦は椀に粥を注いだ。それをレンゲと一緒にジェイドに手渡す。
「……卵粥?」
「ええ。一杯食べてくださいね」
 弓弦はそう言い、氷枕を設置する。これで、熱から解放されるかもしれない。熱を出した時の氷枕の偉大さは、良く知っているから。
「……うまい」
 粥を一口食べたジェイドが、ぽつりとそう漏らす。弓弦は「良かったです」と言ってにっこりと笑う。食欲は殆どないのであろう、いつもよりも何倍も時間をかけてジェイドは粥を食べていった。それでも、土鍋の粥を全て平らげてしまった。
「沢山食べてくれて嬉しいです」
「……美味しかったから」
 嬉しそうな弓弦に、ジェイドは少しだけ頬を赤らめながらそう言った。熱のせいだけではない、赤さがあった。
「じゃあ、お薬飲んでくださいね」
 弓弦はそう言って「はい」と薬と水を手渡した。が、ジェイドはそれをじっと見たまま、受け取ろうともしない。
「……どうしたんですか?」
「俺……薬、嫌い」
「え?」
 思わず聞き返す弓弦に、ジェイドはごほごほと咳をしながらベッドに寝転がった。頭の下に引いている氷枕が気持ちいいのか、はあ、と息を吐きだす。
「駄目ですよ、ちゃんと飲まないとよくなりません」
「でも、苦いから……」
 ジェイドは、苦しそうにそう言い、再び薬を拒否する。弓弦はじっと薬とジェイドを見比べ、その後何かを決意したかのようにこっくりと頷いた。
 弓弦はコップの水を口に含み、さらに薬を口に含む。そして氷枕の冷たさを堪能しているジェイドの顔に近付き、そっと目を閉じた。
 弓弦の口からジェイドの口へと、薬と水が移動する。
 ジェイドは一体何が起こったのかも分からず、ただただやってきた水と薬をごくりと飲み込んだ。苦いかどうかも分からない。ただ分かっているのは、柔らかな感触があったという事だけで……。
 柔らかな感触、甘い匂い。
 ジェイドはゆっくりと起き上がった。弓弦が優しい眼差しでジェイドを見ている。ほんのりと頬が赤いのは、きっとジェイドの風邪がうつってしまった所為ではない。
「……い、今の」
「……え?」
「今の、もう一回!」
 ジェイドの叫びに、弓弦は顔を一瞬の内に真っ赤に染め上げた。
「なぁ、もう一回。今のを、もう一回!」
「も……もう、知りません!」
 弓弦はそう叫び、顔を両手で覆った。ジェイドはそんな弓弦を見て、にっこりと笑った。苦しい筈の風邪が、熱で辛かった筈の風邪が、苦くて堪らない筈の薬が、何故だか何でも無い事のように感じていた。
「ほ、ほら。ちゃんと安静にしていないと、酷くなりますよ」
 弓弦はそう言って無理矢理ジェイドをベッドの中に押し込んだ。そしてお盆の上に空になった土鍋やコップ、お椀を乗せて足早にジェイドの部屋から出ていこうとする。
「それじゃあ、ちゃんと寝てくださいね」
 弓弦はそう言って、くるりと振り返った。ジェイドはその言葉に答えるかのように、ひらひらと左手を振った。
 弓弦はそれを見て安心し、部屋を後にする。真っ赤な顔に変わりは無いようだ。
 弓弦が出ていったのを確認し、ジェイドはそっと右手で唇に触れる。熱の所為で、体温が高くなっているようだった。だが、ジェイドは知っている。唇が熱いのが熱の為だけではない事を。
 柔らかな感触を、甘い香りを、今でも鮮明に思い出せるから。
(……いなくて良かったかも)
 ジェイドは弓弦の姉を思い出し、少しだけ笑った。このような状況を見たら、きっとただでは済まないだろう。
(でも……きっといたとしても、俺は)
 ジェイドはそっと目を閉じた。
 目を閉じれば、再びあの柔らかな感触と甘い香りが蘇ってくるかのようだった。

<柔らかな感触は今も鮮明に・了>