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<東京怪談ウェブゲーム 神聖都学園>


偽りの水泳大会(HOME・神聖都学園編) 〜空箱より〜



「協力してほしいんだ」
 約束もなく、突然生徒会室に現れた覚えのない男子生徒に、部屋の主――生徒会長・繭神陽一郎はいぶかしげな視線を送る。
 時刻は放課後。学園における1学期のメインイベント、水泳大会が近いとはいえ――生徒会が忙しくなるのはむしろ当日直前だ。書記らほとんどの役員が顔を出すこともなく、最上階に位置するこの部屋に今は2人だけ。

「きみは誰だ」
「つれないね、同じクラスの早乙女だよ」
「……早乙女……?」
 チタンフレームのメガネをかけ直しつつ、繭神はきっかり3秒ほど考え込み、そしてああ、と頷いた。
「家庭の事情とやらで休学中の、早乙女美……だな」
「覚えていてくれたようで嬉しいな」
「会長クン、コピーを取ってきたよ」
「すまない、横に置いておいてくれ……で」
 新たに部屋へ入ってきた女子生徒に無愛想ギリギリの簡単な礼を言うと、すぐに繭神は早乙女美という見覚えのないクラスメイトに向き直る。

「何を協力して欲しいというのだ?」
「もうすぐ水泳大会だろう。2日間連続で幼等部から大学部、はてはOB・OGまで参加して行う、夏休み前の大イベントだ。そして君は高等部生徒会長として、イベントの総責任者を務める。……だろう」
「それが何か?」
「実はね、その日非常に困ったことが起こりそうなんだ。そこで、ぜひとも君に協力を仰ぎたい」

 そう言うと美はポケットから何かを取り出した。
 ――箱だ。両の手のひらにちょうど乗るような大きさの、一見ありふれた木箱。 
だがちらりと視線をやった途端、嫌な雰囲気をそこから感じた気がして、繭神はわずかに眉をひそめる。
「当日、もしかしたらこれを誰かが奪いに来るかもしれない。それは困るんだ」
「困ると言われても、私は当日忙しい。私に頼られても困る」
「君ほどの『力』を持っている人を……そうだな、せいぜいあと一人ぐらいしか思い浮かばなくてね」
 そう言うと美はにやりと笑う。
「この箱がただの箱でないこと……君には分かっただろう?」


「なんだか知らないが面白そうだね、ボクも混ぜてくれないか」
 と、その二人の間に、傍観していた女子生徒が割り込んでくる。
その無邪気な様子に、だが繭神はしっかりと眉をつりあげた。
「月神。ここでは出しゃばるなと言ったはずだ」
「つれないね会長クン。少しぐらいいいじゃないか」
「その呼び方はやめろ……ふざけている」
 じゃあ繭神クン、とわざとらしく呼びなおした彼女、月神詠子は、あらためて美に向き直るとニッと白い歯を見せて笑った。
「その話、ボクも乗った」
「……わざと、彼女の前で話をしたな?」
「悪いね。君と『あと一人』ぐらいしか思いかばなかったものだから」




     ■□■



「……気のせい、だったかしら」
 扉の前で、ぐるぐると日和はいつまでも迷い続ける。
 
 夏休みに向けた合同練習会の打ち合わせで、日和は一人神聖都学園にやってきていた。傍らにいない誰かを思い少しだけ寂しく感じつつも、打ち合わせを順調に終わらせてようやく日和は帰途につこうとしていた。
 ちょうどその時だった。――日和の前を、月神詠子が通ったのは。
 見覚えのあるその姿。だがどこで記憶したのか、なぜか思い出せない。
 彼女が日和の前を横切ったのは、声をかけるには遠すぎる距離、そして見逃すには近すぎる距離だった。すぐに校舎の中へと消えていったその後姿を思わず追っているうちに、日和はとあるドアの前にたどり着いていた。
 そのドアのプレートには、『生徒会室』と記されている。そして、確かに彼女はこのドアの向こうへと入っていったはず。
「……いますか、って聞くだけなら、大丈夫、よね?」
 そう己に尋ね、そしてこっそり自分自身にうなずいてみせる日和。そうして意を決しノックをして――そしてそのドアの向こうに見知った顔がいくつもあったことに驚いたのだった。

「あ、日和じゃないか!」
「……初瀬日和、だったな、ちょうどいい。君も参加したまえ」
 真っ先に振り返ったのは詠子、同時に部屋の中央の席についていた繭神陽一郎も振り向く。
 彼らの周囲にもまた何人かいて、なんらかの話し合いをしようとしていたところらしい。
 そして、彼らからわずかに離れた場所。結果として日和に一番近い場所に立っていた早乙女美が、日和の顔を見てにこ、と笑う。
「やあ。よく会うね。……彼は、今日は一緒じゃないの?」
 そういう美の手に見覚えのある箱があるのを見て、日和はすでに後に引けなくなったことを察した。




 
 再び生徒会室に集合した面々。
 誘いを持ちかけた早乙女美はもちろん、繭神陽一郎の後ろには今日もちゃんと月神詠子が立っていてその目を興味にらんらんと輝かせている。
 彼らの前に陣取るのは、繭神に用心棒として招かれた御守殿黒酒と陸誠司、そして彼らに気後れするように華奢な身体を心細げに小さくさせているのは、たまたまこの学園を訪れていたという成り行きでこの集まりに参加することになった初瀬日和。
 何を考えてか月神に呼ばれて参加することになった亜矢坂9すばるは、そんな面々を見わたしつつもメモリーにしっかりと状況を記録していく。

「それで、どういう作戦なんだい? 繭神」
「……何様のつもりだ、月神」
「ん? この物言いが気に入らないのかい? ボクはキミの口調を真似ているだけだろう。ということは、大本はキミこそが何様のつもりだ、ということになるのだな」
 そうであろ? と顔を覗きこまれ、言葉に詰まって曲がってもいない眼鏡を直す繭神。
 その横でくすくす、と笑いを漏らしているのは日和と誠司だ。
「まあ、どうでもいい。 ……それより早乙女、全員に説明をしてくれ」
 再び軌道を修正した繭神に従って、美が前に進み出た。
「初めまして、皆さん。……初めまして、ではない人もいるようだけれど、ね。
ま、それより。僕が皆さんにお願いしたいことは、これです」
 美がポケットから取り出したのは、一つの小さな木箱だった。ぱっと見、古ぼけて何の価値もないようにも見える。
「美くん、よければ俺にそれ貸してもらえないか?」
 手にとってよく見てみたいんだ、という誠司の呼びかけに、だが美は笑うばかりでそれを差し出そうとしない。
「悪いけど……君達には渡す事が出来ない」
「すばるたちを信用していないのであるか?」
 依然表情の変わらないすばるの問いに、美は無邪気に笑い、否定する。
「そうじゃない。君達の身を案じての事さ」
「ふ〜ん? つまりはどういうことさ?」
 ガリガリとエンピツの芯を引っ掛けながらメモを取っていた黒酒が、いかにも面白くなさそうな顔でふん、と鼻を鳴らす。
「信用してない、ってんじゃァないなら、ボクたちが力不足だって言いたいんだろ? ンン?」
「まあ、そんなところかな」
 しれっとした表情で美は肯定し、ふと繭神を振り返る。
「でもそうだね、確かに今のままだと行動に支障が出そうだ。出来ればこの箱が誰にでも持てるようになれば理想だけど、それも難しいだろう。繭神君、どうにかしてくれないかな」
「……どうにか、とは?」
 繭神はきらりと眼鏡のレンズを光らせる。繭神は美の言葉を追っていくだけで深く追求する事もなく、また自分から提案をすることもない。
 疲れている、というのとも違う。この作戦に乗り気ではない、というよりはもともとの生来の行動がそうであるように見えた。
 そして、そんな繭神とは正反対なのが月神だ。
「じゃあどうであろう、美君。それとそっくりな箱を作り、本物と入れ替えるというのはどうだ。そうしてボクとキミ、そして繭神の3人で持てば充分であろ?」
 熱心といってもいい態度で提案を出し、美にいいね、などとうなずかれなどしている。
 彼女の場合もまた、作戦うんぬんというより――生来のもの、つまりはただ単に面白いものに興味を示しているだけだろうが。
「あ、それ、ボクもさんせ〜い」
 不敵な笑みを浮かべつつ、黒酒が細い手を上げる。
「ねぇ、誠司もそう思うだろ? だったら挙手だよぉ挙手」
「あ、そうですね。……はい! 繭神さん、俺も賛成です」
 ふらふらと右手を挙げている黒酒と違って、その横の誠司は肘までピンと伸ばし耳にぴたりとつけている。背筋はもちろん真っ直ぐだ。
「日和さんは?」
 そして誠司に話を振られた日和は、え、と一時言葉を飲んだ後に「あの、私もそれでいいと思います」と小さく言った。
「ど〜だい、生徒会長? コピーってのは……ま、直ぐに出来ないんだろうケドさぁ」
 いつでも人を食ったような口調になるのは黒酒の性格だ。ふふん、と鼻で笑われた繭神だったが、やはりというか表情をぴくりとも動かさなかった。
「その点は問題ない。……亜矢坂9、どうだ」
「問題ないのである」
 と、それまで無表情で宙を睨んでいたすばるが口を開いた。ふむ、と一つうなずいたと思うと、かぽんと音を立てて腹を開き――そう、まるで気軽に戸棚を開くかのようになんでもない仕草でシャツをごそごそと探ってから腹の扉をかぽんと開いた彼女は、そうしてそこからいくつもの箱を取り出して見せたのだった。
 そう、それは美が持っている箱そっくりの代物。
「いくつ作ればよいのだ? 101個までならノンストップで作れるのである」
「うっわー、面白いねキミ! うん、実にゆかいだ。他のものは作れるかい?」
そう言っていっそう目を輝かせ始めたのは詠子。
「すごいですね、まるであなたはロボットのようです」
「へ〜え、ぽこぽこ出来ちゃうんだ〜、そら恐れ入ったぁ」
 どこまでも生真面目な誠司と、どこまでも不真面目な黒酒。
 繭神は突然の出来事に驚いていないのかそれとも興味がないのか、「これで心配はなくなったな」と一同を一瞥しただけで、手元のノートをめくり物思いにふけりはじめている。


 そして、窓際でおろおろと戸惑ったように言葉を探していた日和は、何かを諦めたように小さなため息をついていた。
「こんな時、きっと上手く言ってくれるんだろうな……」





●場面A-4

 ――水泳大会、2日目。
 1日目は競泳中心で部外者が立ち入りにくかったせいか侵入者たちが現れることはなく、勝負はどうやら2日目に持ち越されたようだった。
 それを天が見越してというわけでもあるまいが、今日も太陽がじりじりと肌を焼いてくる、ある意味絶好のプール日和だ。
 巨大な学園設備に相応しい、巨大なプールとそれをぐるり取り囲んでいた観客席。――その熱に浮かされたような歓声が、この離れた校庭までへも響いてくる。



 日和は一人、校庭の片隅の木陰に立っていた。今の時間校舎の中を行き交っているはずの生徒の影は一つもない。きっとみんなプールへ行ってしまっているのだろう。
 夏休みでもないのに静寂に満ちた校庭はまるで異世界のようでひどく落ち着かなかった。
 と。
「日和。待たせたね」
 待ち人――月神詠子がぱたぱたと校庭を横切って駆けてきた。照りつける太陽などお構いなしの彼女は、むしろそれを全身に浴びて楽しそうにも見える。
「どうしたんだい? 話があるって」
 ボクらはこの箱を守らなきゃいけないだろ? と手の中の箱をかざす詠子は、事態を心から楽しんでいるように見える。
「あのね。……それ、持っても平気なの?」
「ああこれ。ああ、全然平気だよ? 美も、面白いことをボクたちに教えてくれたよね」
「あのね、詠子ちゃん」
 この笑顔を陰らせてしまうのは気が引けた。だが――どうしても、日和は言わずにいられない。
「早乙女くんってどこか人を当てにしなさそうだから……だからその箱、危ない気がするの」
「危ない? ダミーじゃないかっていうことかい?」
「ううん、すばるちゃんが作ったダミーならいいんだけど。……あのね、もっと危ないことかもしれない、と思って。疑うわけじゃないんだけど、早乙女くんって何か大きなことを考えてるように私には思えるの」
 日和の言葉に、ふーん、と面白そうに頷いた詠子は、やがてくるりと首を回し、そういえば、と口火を切る。
「美がそうまでして守ろうとする箱ってなんであろ?」
「……え?」
「知ってる、日和?」

 あくまでも朗らかな彼女の問いかけに、日和は答えることが出来ない。
「そういえば、彼の背景って全然知らないわ……」
「ねぇ日和、今ここにいるボクね、『3人目』なんだよ」
 と、突然詠子が思いがけない事を言った。
「……どういうこと?」
「今ボクはね、プールで泳いでいて、そして図書室で百科事典を読んでいるんだ。ああ、日和の大好きな彼も向こうのボクのすぐそばにいるようだよ。……すごいであろ、今ボクはこの学園に3人いるんだよ」
 笑っているが彼女の目は真剣で、嘘を言っているように日和には思えない。
 だが言葉の意味があまりにも大きすぎて、日和は言葉を失ったままでいた。
「日和? ……この学園とここにいるボク。理由は思い出せないけれど、なぜかこのボクは誰かが見ている夢じゃないかって気がするんだ」
 そこでふと言葉を切り、それでさ、と詠子が小首を傾げる。
「何かがこのボクの身体の中で、交じり合ってる気がするんだ。なんだろう、このボクが夢だっていうなら、ボクの夢と『他の夢』が交じり合ってるってことだろうか」
 そして、詠子は再びニッ、と笑う。
 その目を細めて笑うその表情はどこか猫に似ていて――ああ、同じことを昔思ったことがある、と日和は思う。
「さてもう一度。……美がそうまでして守ろうとする箱ってなんであろ?」

 その時。
 わぁ、と一際大きな歓声がプールから響いてきた。ハッと一瞬そちらに気を取られた日和が慌てて視線を戻した時には、詠子の姿がなくなっていた。
 ころん、と地面に転がる小さな箱。その鍵が開き、中身が見えて――その中に入っていた紙切れには、小さく「ハズレ」と書かれていた。


 ――ひざが、かくかくと震えだした。
 照り付けるばかりの熱光線がひどく痛く、突然硬質の物に変化したかのように思える。
 ――私も、彼も、ここにいる存在そのものが夢だったら、今の詠子ちゃんみたいに姿が突然消えてしまったりするのかしら……?
 ふとそんな考えが浮かび、そしてそれはとても怖いことだ、と思った。
「……探しに行かなきゃ! 」
 消え去る前の詠子が言っていた。日和の大好きな彼が『向こうのボク』のそばにいる、と。




●場面A−2

 おぼろげな記憶を頼りに日和は図書室へぱたぱたと走る。
 合同練習で何度か訪れただけである神聖都学園。それなのに校舎の隅にある図書室へ迷わずたどり着いた自分自身のことを、日和は振り返る余裕もない。
 暑い空気が日和の意識をも熱していく。……貧血の気がある日和だったが、今はそんなことにかまっていられなかった。
「あの、すいません!」
 ぱたん、とドアを開けた日和は勢いよく中へと飛び込む。クーラーの冷気が全身を包み、日和の熱を冷ますかのようだ。
 日和の声に振り返ったのは、図書室の大きな机についてなにやら辞典を眺めていた一行だ。黒酒と誠司、そして――
「やぁ日和。また会ったね」
「詠子ちゃん……」
 ニッ、と笑った彼女は、また突然現れた日和の意図を知ってか知らずか「あ、消えたボクのことは気にしないでいいからね」などと気楽な調子でそんなことを言う。
「ボクはある程度自分の意思で現れたり消えたり出来るんだ。ちょっと疲れたから今は『二人』でいるだけなのだよ」
「何のことですか?」
 そうして割り込んできた誠司の問いにも、「それはオンナノコ同士の秘密というものだよ」とすまし顔の詠子。

 と。
「……あら、日和ちゃん。どうしたの? もしかして武彦さんに聞いて、彼を追いかけてきたの?」
 本棚の向こうから現れたその人は日和もよく知る人物だ。
 草間興信所にていつも日和たちを優しく迎えてくれる彼女は、今しがたようやく日和に気づいたのだろう、息を切らしている日和に歩み寄りつつ微笑みかけてくる。
「草間さん……も、来て、いるんですか?」
「ええ。あら、もしかして日和ちゃん、聞いてない?」
「いえ、今聞いたばかりで……それで、探してるんです」
 日和の言葉に、だから慌ててるのね、と彼女はひとつうなずく。
「彼なら武彦さんたちと一緒にプールの方へ行ったはずよ……あ、日和ちゃん!」


 彼女の言葉を最後まで聞くこともせず、日和は再び走り出す。




●場面A−1 



 そうして見つけ出した彼は、プールサイドで水着姿の人垣に埋もれるようにして佇んでいた。
 足元ではすばるが火のついたように泣きじゃくっている。その声が大きくなるにつれ、彼を取り囲む人垣はますます厚くなっていく。
 一見しただけで、日和にも事態はすぐに飲み込めた。
 ――彼は、そんな人じゃないのに。
 ぎゅ、と唇をかんでから、日和は強い足取りで彼へと歩み寄っていく。
 そして。

「その人は違います」
 震えそうになる声を励ましながら、精一杯の大きな声で日和は言った。
 周囲がいっせいに彼女を振りむく。その視線にたじろぎそうになりながらも、日和はせいいっぱい胸を張ってその場に立ち続けた。
「……日和?」
 そして彼も、日和の姿を認めると驚いたようにその目を丸くした。
 見覚えのある彼の銀色の髪が夏の日差しにきらきらと輝きを放っていて、日和はまぶしいと思う。
「大丈夫?」
 日和が歩み寄ると、なんでここに? と彼はさも不思議だと言わんばかりの表情をひらめかせる。
「話はあと、ね? ……それから」
 忘れないうちに、と日和は足元で泣きじゃくっていたすばるの前にそっとひざをつき、その目を覗き込んだ。
「ごめんねすばるちゃん」
「……日和の知り合いで会ったのであるか」
「うん、そう。……私の大切なひと」
 そう笑いかけると、すばるは大げさな嘘泣きをぴたりとやめた。
「日和にそこまで言われては、すばるは勘弁するしかないのである」



 ――そして。
 戸惑ったままの彼の手を引いて人垣から救い出した日和は、その手をつないだまま校庭を横切り、いつの間にか先ほど詠子と語らった同じ木陰へと再びやって来ていた。
 先ほどは慌てていて気づかなかったけれど、その木陰は数本のイチョウによるものだった。秋にもなれば見事な黄金色の葉をつけるだろうそれらは、今は夏の盛りの熱い風に吹かれかすかにその緑を揺らしている。
「……いやぁ、助かったよ日和。サンキュな」
何も知らない様子で屈託なく微笑まれ、日和はかすかに自分の頬が赤くなるのを感じた。
 と。
 日和はそのまま、ぱふ、と彼の胸に飛び込んだ。
 突然のことに彼は慌てたのかわずかに腕を戸惑わせ……それでもすぐに彼女をその胸に迎えてくれる。
「どうしたんだ、日和?」
「……ううん、なんでもないの。だけど」

 ――このぬくもりが、夢じゃなくてよかった。

 体温で、感触で、そして鼓膜を振るわせる声で。
 確かに感じる彼の存在に、今度は安心感で涙ぐみそうになる日和。
 何かを感じ取ってくれたのか彼は黙ったまま、日和の気の済むまでその肩を抱いていてくれたのだった。





●B場面

 プール観客席への北ゲート前。
 今ここに人影は今はない。喧騒も遠い分だけ、辺りの静けさを増していくばかりのものと化している。

 そこに一人の少年がやってきた。彼――布施啓太は、だがそのまま転ぶように地面に倒れ、地にうずくまる。
 必死に身体を起こそうとするも視線はずれ、腰は引けている。滴るようにふきだす汗。かきむしるように土をかく指。――その様子は、まるで何かに怯える犬のようだ。
 と。
「啓太」
 彼の前に新たな人影が立つ。啓太が必死の思いで顔を上げると、早乙女美がそこに立っていた。
 以前見た時とは違う穏やかな瞳だった。哀れみとは違う、静かな感情をたたえて啓太に手を差し出す。
「……帰ろう、啓太」
 ――ああ、この声。どこかで聞いたことがある。
 啓太の心の声を聞いたかのように、美はかすかな笑みを浮かべ、啓太の前に膝をつく。
「この場所はまだ、啓太には辛すぎるだろう? ……無理はしなくていいんだよ」
「……だけど、オレは、報道部、で」
 必死の啓太の反論は切れ切れだ。
 美は啓太の頬に手を伸ばし、ゆっくりと彼の顔の前に己のそれを寄せて行く。
「いいんだ。辛い思い出を避けることも、忘れたいと思うことも……『逃げ』じゃないよ」
 ――啓太。
 もう一度名を呼び、そして美は啓太と間近で視線を合わせ微笑んだ。
 

 
「啓太!」
 新たな声が聞こえてきたのはその時だ。
 さっと美が立ち上がる。反応が遅れた啓太は共に立ち上がれず――まるで彼を引き止めるかのように宙に浮いた手だけが彼をむなしく追いかけた。
「また会おう、啓太」
 そうして美は身をひるがえす。地に膝をついたままの啓太が見送るうちにその姿はどんどん小さくなっていき――そして消え失せた時、まるで彼と入れ替わりのように現れたのは草間武彦だった。
「……いま、ここにいたのは美か?」
 息を弾ませながらの問いに、啓太はうなずくのがやっとだ。
「あいつ……まさか、お前に触れるために箱を手放したんじゃないだろうな」
 呟きは啓太に向けられたものではなかったらしい。思わず彼を仰ぐと、ち、と小さく草間が舌打ちをした。
「……何のこと? 草間さん」
「お前は知らなくていいことだ」
「草間さん!」
 叫び、彼に取りすがると――草間は視線をずらしたまま、言った。
「お前は箱には触れないらしい。……だから、箱を持ったままではお前に触れることが出来ない。そういうことだろう。それ以上は俺も知らない」
「どういうこと?」
「……お前がよっぽど心配だったってことだ。場所が場所だったからな。
啓太、それだけ分かってればいい。無理に思い出そうとするな」
 ――あいつも、同じことを言っていた……?
 
 
 呆然とする意識の裏で、暑さに浮かされた歓声が小さく沸いては消えていく。
 やっぱりここは静かだ、と啓太は思った。



     ■□■





「『箱』はさ、あいつが水泳勝負に勝って獲ったんだってさ。くっそー、俺もその勝負参加したかったなぁ! 日和にもさ、俺の雄姿見せるチャンスだったなぁ」
「そっか、私と違って泳ぐの早いもんね」
「おうよ、俺のクロール、お前にも見せてやりたいぜ!」
 桜並木を手をつなぎ歩いていた二人。
 狭い道とあって、二人の他に誰も通らない。頭上をアーチのように覆う葉は真緑で、その隙間からは眩しいほどの夏の光がこぼれ落ちている。
 まだらな光に照らされて、二人は顔を見合わせ、そして笑った。
「夏休み、楽しみだね」
「そうだな、楽しみだな」


 後日。
 『箱』争奪戦も一区切りつき、今現在では草間武彦がそれを預かっているそうだ。何だかんだ言って怪奇探偵の異名をとる彼のこと、半分は揶揄だとしても、奪われるかもしれない等の心配はしなくて済むだろう。
 いや彼のこと、灰皿と間違えてあの箱に焼け焦げをつける心配はあるかもしれないが――その辺りはきっと、あの人が上手く草間さんをたしなめてくれるわよね。
 そんな風に二人は――いろんなことをひとまず脇に置いておいて、間近に迫った二人の夏休みの事をしゃべり合うことで頭がいっぱいだった。
  
「日和さ、合同練習ってどのぐらいの期間があるんだ?」
「うーん……10日ぐらいかな、他にも個人レッスンとかあるから、夏休みの半分くらいは会えないかも」
「そっかー……ま、しょうがないか。俺、お前のチェロ好きだからさ。邪魔したくないもんな」
 と。
 日和がその場に立ち止まると、つないだままの手がクンと引かれた。彼はそれで立ち止まった日和に気づき、ようやく振り返る。
 わざとすねたような表情を作って彼を見上げると、その視線に少しだけ困ったように、そして少しだけ照れたように日和を見つめ返してくる。

「どうした、日和?」 
「あのね。……私ね、会えない日はやっぱり寂しい」
「……ん」
「寂しいな、と思うの」
 そのまま口をつぐみじっと見上げていると、彼は何かを言いかけて――だがすぐに笑った。
「俺も、寂しいな」
 望んでいた答えに、日和は微笑む。
 
 
「お前と会えない日は電話するな」
「うん、待ってるね」
「俺からかかってくるだけじゃなくて、いつでもかけてきていいからな」
「うん、そんな時は私からかけるね」
「それから……会える日は、二人で出来るだけいろんなとこ行こうな」
「……うん、楽しみだね」
「そうだな、楽しみだな」

 


 木漏れ日はきらめくばかりで、もうすっかり夏の日差しだ。
 こちらに戻ってきた『箱』の今後も、そして再び姿を消した美のことも――今だけは置いておいて、この陽光と熱に浮かされ無邪気にはしゃぐのも、そう悪くないかもしれない。
 
 



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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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<神聖都学園編>

【3524 / 初瀬日和 / はつせ・ひより / 女 / 16歳 / 高校生】
【0596 / 御守殿黒酒 / ごしゅでん・くろき / 男 / 18歳 / デーモン使いの何でも屋(探査と暗殺)】
【2748 / 亜矢坂9・すばる / あやさかないん・すばる / 女 / 1歳 / 日本国文武火学省特務機関特命生徒】
【5096 / 陸誠司 / くが・せいじ / 男 / 18歳 / 学生兼道士】

(受注順)


NPC
早乙女美(さおとめ・よしみ)
布施啓太(ふせ・けいた)


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          ライター通信           
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こんにちは、つなみです。
この度は遅延いたしまして大変申し訳ありませんでした。随分とお待ちいただくことになってしまい、身の縮む思いです……すみませんでした。


さて。
今回のお話ですが、「草間興信所」で募集しました「AWAY編」と同時進行になっています。同じ場面でも視点がそれぞれ切り替わっていたり、こちらではぼかしている謎があちらでは解明されていたり、といったお遊びもいくつかありますので、もし興味がありましたら合わせて読んでみてくださいませ。
それと、今回「箱は誰が持っているか?(誰に持たせるか?)」という質問で3択を設定したのですが、草間「詠子」3票、そして学園「詠子」2票……ということで、詠子という読みが数の上で多かった草間側を「勝ち」とさせていただきました。
そんなわけで箱も草間さんの手に戻り、次回からは新展開……というところでしょうか。
もし興味がありましたら、次回以降も参加していただけるとうれしいです。


日和さん、いつもありがとうございます! 今回も楽しんでいただけましたでしょうか。
今回の日和さんは「図らずも巻き込まれてしまった」物語にさせていただきました。悠宇さんがいなくても大丈夫だけど、それでも少しだけ寂しい――なんて感情が伝えられていたらな、なんて思います。
それと今回はいつもと逆で(笑)悠宇さんのお話を呼んでからこちらを読んだほうがよりわかりやすいかもしれません。あわせてお楽しみくださいね。



反省ばかりのこの身ですが、この後も細々と活動していく予定ですのでまた興味がありましたらぜひぜひ参加してくださるとうれしいです。
感想、ご意見などありましたらご遠慮なく仰ってくださいね。

それでは、つなみでした。