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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


偽りの水泳大会(AWAY・草間興信所編) 〜空箱より〜




「……どうやら、生徒会に協力を頼んだみたいなんだ」

 今日も誰も訪れる者のない草間興信所。
 一見のどかな昼下がり、草間武彦は今日もまた押しかけてきた布施啓太と、もはや年代物の応接セットにて額をつき合わせていた。
「生徒会?」
「ああ。うちのガッコ、ってオレが通ってるの神聖都学園高等部だぜ……生徒会長が繭神陽一郎ってヤツなんだけどさ。そいつ、ただ者じゃねぇんだ。取れる限りの段は持ってるし、模試は全国一番だし。あんなのが同級生なんて言われても、あんなの同い年とは思えねぇよ」
「分かった分かった、ひがみはいい」
「ひがみじゃねぇよ!」
「いいから話を続けろ。……それで? なんでまた、あいつはそんなとこに協力を仰いだんだ」

 草間のもっともな問いに、うーん、と啓太は頭を抱える。
「やっぱ……オレたちに警戒して、なのかな」
「あほか」
 啓太の深刻すぎる表情と重々しい口調に、草間は思わずソファからずり落ちそうになる。
「水泳大会に乗じてこっちから箱奪っちまおうなんてバカバカしい計画、お前の他に誰が思いつくか」
「オレは真面目に考えたんだよ、なんだよ名案だろ!」
「分かった分かった」

 一歩も引かない啓太に草間は一つため息をつくと、やれやれ、と首を回す。
「人間ってのは、完全に忘れることなんか出来ないのかね……」
「え?」
「とにかく。今あの『箱』を持ってるのは早乙女美だ。そしてあいつは水泳大会で『箱』を取られるのを恐れ、生徒会に助けを求めた。……そういうことだな」
「うん。だからもしかしたら、当日は他の誰かに預けてるかも……」
「あんな大層なシロモノ、そうそう普通のヤツが持てるとは思えんな。他に心当たりはないのか、その、すさまじい生徒会長の他に」
「……そういえば、生徒会に出入りしてるやつで月神詠子ってのがいた。なんで役員でもないのにこんなとこにいるのかって取材の時は思ったんだけど、とにかくなんかただもんじゃない感じで……」
「別に疑いなんかしないさ。お前がそう思ったんならそうなんだろ」

 そして、草間は傍らの電話を取り上げた。
「そうと決まれば早速だ。今から手伝ってくれそうなヤツ収集するから、お前も誰か当たって来い」



     ■□■



 30分後。
 招請に応じたのは桐生暁と唯崎紅華だ。そしていつの間にか(本人は『呼ばれたのでしょうがなく来てやった』と言い張っている)窓枠に身体をもたせかけている羽角悠宇。
 あと買い物から帰ってきたシュライン・エマと草間、そして啓太を交えた大人数で古ぼけたソファにひしめき合っている。
 暁は何度も興信所に出入りしている身とあって慣れているからかそれとも生来の性格か、足を開いて腰を下ろす態度は堂に入ったものだ。その隣に座る紅華はちょこんという形容詞がぴったりの様子で礼儀正しくそして浅く座っていて、さっそく暁に握手を求められなどしている。
「なぁなぁきみ会った事あるだろ? あ、俺桐生暁。アキって呼んでよ」
「あ。はい、唯崎紅華です。よろしくお願いします」
「紅華か。あ、紅華でいい? そんでさ、きみ、ここの興信所の近くのアヤシー珈琲屋に、この前来なかった? あん時俺いたんだけど覚えてない?」
「その辺にしとけ、イマドキ高校生」
 紫煙を揺らしつつ間に入る草間に、草間さん今時『イマドキ』はないんじゃないの? と混ぜっ返す暁。
「それってオヤジくささの証明じゃね? それに俺、再会を喜んでただけだし」
「喜ぼうとなんだろうと勝手だがな。……紅華はそんなちんまいナリしてて、悪霊退治のプロだぞ」
 ――俺の仕事のつての方で来て貰った奴だよ。
「げ」
 そのギャップの意外さに暁が思わず声をもらし……そしてこらえきれず、ぷっとふき出す紅華。
「確かにそうですけど。……でも、まだまだこの力には不慣れですし、生業としても駆け出しです。そんなに緊張しないで下さい、暁さん」
「……ん。そっか」
 にか、と笑った暁は、じゃあ改めて、と紅華に手を差し出した。
「よろしく、紅華。今回の依頼もがんばろうな。あ、アキでいいって」
「はい、頑張りましょう、暁さん……あ」
 言ってしまってから、もう一度紅華はふふ、笑った。
 

「……いいわね、若いって」
 その横でため息をついているのはシュラインだ。その口調に笑い飛ばせない要素を汲み取ったのか、草間までもが難しい顔をする。
「なに悟ってんだ、シュライン」
「そうそう。オレ、シュラインさんみたいな姉さんがいたら絶対自慢しちゃうけどな!」
「ま、ありがとう。私も啓太君みたいな弟がいたら毎日掃除の手伝いしてもらうんだけどな」
「……それは可愛がるってことなのか、シュライン?」
「だってねぇ、それというのもどこかの甲斐性なしさんが仕事を取ってきてくれないから毎日毎日することがなくて」
「あーごほん、それでだ皆の衆。今回集まってもらった意図だが」
 かなり強引な口調で草間が話題を変える。――今度はシュラインと啓太が顔を見合わせ笑ったのは言うまでもない。
「近々、神聖都学園の方で水泳大会があるらしい。それに乗じて、敵さんの獲物を奪っちまおうってのが今回の狙いだ。まあ、いつもと毛色が違うが深く考えるな、うん」
「……そういや、確かにあったなぁ水泳大会」
 俺サボって久々に劇団の方に顔出すつもりだったんだけどな、と正真正銘、神聖都学園生徒の暁。
「2日間連続で幼等部から大学部、はてはOB・OGまで参加して行う、夏休み前の大イベントなんだ。だから草間さんとかがいても全然変じゃないし、他のみんなも安心してくれよ」
「……なんでそこに俺の名前を出すんだ、啓太」
「例は極端な方がいいっていうだろ、草間のおっさん」

「とは言っても、傍からはただの盗みだし、事が明るみに出たら危ないのはこちらねぇ」
 そう言ってシュラインが再びため息をつく。
「武彦さんも、時々びっくりする様なこと言い出すわよね?」
「うるさい。攻撃は最大の攻撃……ん? あれ? 攻撃は最高の襲撃だったか……?」
「『最大の防御』でしょ?」
 心得たように、草間の言葉をさらり補足するシュライン。その阿吽の呼吸は、確かに他の者の入る隙間はないようだ。
「……っていうか、ほとんどツッコミだったけどな」
「なんか言ったか、悠宇?」
「まあまあ、それより。私はOGというより、顔見知りが多いから知人の応援に来た、って言った方が無難ね。他のみんなは学園生徒で通じるんじゃないかしら」
 シュラインの言葉にうなずく一同。
 と、彼女が僅かに首を傾げた。
「それにしても……」
「どうかしましたか? シュラインさん」
 紅華の言葉に、ううん、と一度首を振りつつも、大したことじゃないんだけどね、と前置きしてからシュラインは再度口を開く。
「何故繭神さんが生徒なのかしら? 眠りについてるんじゃなかったの?」
「……そういえば」
 同意し、同じように考え込んだのは悠宇だ。
「悪企みするやつはおちおち眠ってもくれないってことかもな。
ははっ、あいつ偉そうだったなぁ。……まあ、いろいろ噂も聞いた今となっては、ちょっとだけ同情しないでもないけどさ」
「繭神か……あいつに俺目をつけられてたんだよな。おかげでこの硬派な俺がシガレットチョコなんて始終くわえてる羽目になったんだ、くそぅ」
 過去がよみがえったのか、握り締めた拳を震わせている草間。
と。
「みなさん?」
「どうしたんだ、お前たち? 何のことだ、それ?」
 紅華の呼びかけにハッと我に返る三人。
「……って、そんな連想する自分が謎だわ」
「あれ? そうだよな、俺神聖都学園に通った事ないんだけどな」


「まあいい」
 気を取り直したように、再び草間が一同をぐるり見回す。
「今回の目的はさっき話した通りだ。一応学園の行事ってことだし、俺はハデに動けないと思う。せっかく歳相応のメンバーを集めたんだ、みんなキリキリ働いてくれ」
「はいはい、よく言うぜ」
 啓太の悪態も草間はどこ吹く風だ。
「それからシュライン」
「何?」
「あー……その、なんだ」
 ごほん、と一つ咳払いをし、充分もったいぶってから草間は言った。
「お前は水泳大会に出るなよ?」
「え?」
「……はっはーん。草間さん、シュラインさんの水着姿、他のヤツに見せたくないんだろ?」
「ッ! ば、バカ悠宇!!」
 悠宇のからかいに煙草を吹き出した草間は、とっさに彼の身体を押さえつけようとして――するり腕から抜け出した悠宇によりいっそう焦りだす。
「なんだよ、いい歳して赤くなってんぜ〜? 草間さん!」
「あ、ホントだ、こりゃ面白いもんみたな!」
「草間さん、仕事のと違って素直な方なんですね」
「! 暁に紅華! お前たちまで!! ……ッこのヤロー、悠宇、そこに座れ!」
「はっはっは! 捕まえてみろよ、草間さん!」


 小さなソファの回りでどたどたと追走劇を始める草間と悠宇。
 紅華と暁はその横でやんやとはやし立てていて――そして、そんなにぎやかな様子とは裏腹に、ソファで一人啓太は難しい顔のまま俯いていた。
 そんな彼に気づき、そっと肩に手を置くシュライン。
「どうしたの?」
「……あ、うん。あのさ。……なんというか、その。今回の依頼って俺が草間さんにお願いしたことなんだけどさ」
 ――どうも、不安で胸がもやもやするんだ。そう啓太は言った。
「上手く説明できないんだけど。……何かが、不安でたまんない」
「何か?」
「なぁシュラインさん、シュラインさんが今疑問に思ってることってなに?」
 突然話を振られ、シュラインはまばたきをぱちぱちと繰り返した。が、すぐに思考に沈み、ゆっくりゆっくり言葉を紡いでいく。
「そうね。早乙女くんは、なぜこの大会に対して警戒してるのかしら? 休学中なら学園に居る必要はないのに。何か重要な意味があるのかしら、でもたかが『水泳大会』よね」
「……そう、だよね」
「案外、この大会自体が何かの夢と箱の力が混ざり出来た空間だったりして」
 ――そう言ってしまってから、案外悪い考えではないかも、とシュラインは思っていた。

 だが、シュラインの言葉を聞いているのかいないのか、啓太は難しい顔で何かを考え続けている――。





●A場面-1

 ――水泳大会、2日目。
 1日目は競泳中心で部外者が立ち入りにくかったため、勝負は2日目に絞る事になった。
 それを天が見越してというわけでもあるまいが、今日も太陽がじりじりと肌を焼いてくる、ある意味絶好のプール日和だ。
 膨大な生徒数を抱える神聖都学園は、またその設備もそれなりのものを備えていた。
 10レーンまである50メートルプールに、まるで国体かはたまた何かの全国大会かと思われるほどの人数が埋め尽くすスタンド席。水着に着替え、そのまま生徒たちに紛れてプールサイドに立ち、わああ、という歓声を見下ろしていると、腹の底が沸き立ってくるような気分になってくる。
「……っといけないいけない。俺は俺で一仕事〜っと」
 スタンド席の一番上、プールがはるか下に見えるそこに暁は立っていた。
 歓声に促されるように彼は慌てて歩き出し、そしてキョロキョロ見回しながら目当ての人物を探していた。
 曰く、『箱』を持っているであろう繭神陽一郎を。


 スタンド席の下、ちょうど南ゲートの上あたり。あと1階分下に下りれば出口、というところまで来た時だ。
 柵の向こうから誰かの話し声が聞こえた。どうやら階段に腰かけ、何事かを話しているらしい。暁は気に留めずそのまま通り過ぎようとして――ふとその声に聞き覚えがあることに気がつき、聞き耳を立てる。
「……なるほど、プールに行った詠子を守ればよいのか」
「そうしてやってくれ。あちらへは複数で箱を狙っているとの情報があった。いくらあいつでも、一人では面倒だろう……」
「任せるのである」
 一人は少女、ずいぶんと歳若い声だ。
 そしてもう一人、どうも聞き覚えがあると思った男の声を、暁はようやく思い出す。
 何のことはない、探していた生徒会長その人だ。
「おい」
 そこに暁が声をかけると――共に驚いた顔をしてこちらを振り向くと思ったのだが――驚くほどずいぶんと年若いその少女は、ちらりとこちらに視線をやっただけで無表情のまま。生徒会長にいたっては気だるそうにのろのろと振り返った後、つまらなそうに視線をすぐさま少女の方へと戻してしまう。
「おいってば!」
 半ば慌てて呼びかけを続け、歩み寄る暁。
 と、少女が一段階段を降りてからこちらをくるりと振り返った。
「では、行くのである」
「頼む」

 そうして彼女は宙へ浮かび上がった。
 そう、文字通り浮かび上がったのだ。プリーツスカートを腰の部分で高速回転させ床のほこりを舞い上げる様は、まるで打ち上げロケットのよう。
 そのまま、暁がぽかんとしているうちに、彼女は吹き抜けの向こうへと消えていく。
 わあ、と遠くで上がる歓声。まるでロケットの打ち上げ成功を祝うそれのようにも聞こえて、
「な、なんだあいつ……」
「アンドロイドだ。さすがに早いな」
 ――繭神の呟きがやたら非現実的に聞こえるのは俺だけなんだろうか、と暁はこっそり思った。



     ■□■



「なあ」
「なんだ」
 暁の呼びかけにも、未だに繭神は気だるげだ。視線を彼方にやったままちらとも合わせようとしない。
「あんた、『箱』持ってるだろ。早乙女美って人から渡された」
「……だとしたらどうする」
「んー? その箱さ、こっちも必要なんだよね」
 って事でその箱くれない? 努めてカルく暁が言うと、じろり、と繭神が暁を見る。ようやくまともに視線を合わせてきたな、と気づいたのは数瞬遅れてのことだ。
「こっちにはこっちの事情っつーモンがあるワケで。でもある意味、とりあえずこれで一応五分五分じゃない? あんたは早乙女くんに頼まれたから守ってる。俺はあんたに今お願いしてる。俺の頼みは聞いてくれないワケ?」
 丸め込むようにまくし立て、最後の仕上げとばかりにニコッと笑う。それは無邪気に見えて、見る人が見れば妖しい魅力に溢れたものだったはずだ。
 だがやはり、繭神は反応らしい反応を返さない。内心拍子抜けした暁が、さて次はどうするか、と考え込む寸前、繭神が何かを差し出した。
「これのことか」
 ――箱だった。
 あまりにすんなりいって暁が何も言えないでいると、繭神はふう、とつまらなそうに息を大きく吐く。
「だがそれは偽物だ。本物は月神が持っている」
 開けてみろ、と言われ素直に従うと、中身は確かに「残念でした」とかかれた紙切れが一つ入っていただけだった。

「……なんだ、つまんねーの」
 思わず暁が呟くと、繭神が再び暁を振り返り、そしてかすかに唇の右端を上げた。
 笑ったのかもしれない。
「つまらない、か。今更だな……世の中全てがつまらない事ばかりだ」
「なんだ繭神、お前世の中捨ててるみたいだな」
「みたいではない。私は恐らく、気がつかないうちに世の中を捨てたのだ」
 そう吐き捨て、驚きに目を丸くしている暁を正面から見据える。
「お前は違うのか。……こんなくだらない世の中に嫌気がさす事などないとでも言うのか?」


 突然の問いに、だが暁は『何言ってんだよ』と笑い飛ばす事が出来ない。
 真正面で繭神の視線を受け止め、視線を逸らさないまま――しばしの間の後、そうして暁はニヤリと笑う。
「何言ってんだよ。俺、毎日が楽しいぜ? 楽しくって楽しくってたまんねーもん!」
「……おめでたい奴だ」
「なんとでも言えよ。そりゃあさぁ、俺だって……その、いろいろあったけど、昔はさ」
 小さくなる語尾。
 しかし直ぐに俯いていた顔をぱっとあげ、湿っぽさを追い払うように暁はニカッと笑ってみせる。
「笑ってれば幸せって言わねぇ? だからさ、いつも笑ってられる俺ってスゴイハッピーじゃん?」
「……なるほど、その笑顔は強さ故ということか……」


 ふ、と笑った繭神は、そうしてそのまま静かに目をつぶる。
「私は疲れた。……閉会式まで時間がある、それまで眠る……」
 眠りに落ちようとするその横顔が酷くやつれて見え、気がつけば暁は声をかけていた。
「なあ。……俺がさ、夢見せてやろうか」
 ―― 一時のやさしい夢を。
 実は勇気を必要としたその言葉だったが、しかし繭神は一笑に付しただけだった。
「夢なら、もう見た……」
「え?」
「この箱は、望む夢を見せてくれるらしい。早乙女から預かったのはその言葉に興味を覚えたからだ……だが、私には何も見えなかった……もうこの手には、はかない夢すら残っていないらしい……」


 言葉のあとは規則正しい静かな寝息が続いた。
 強すぎる陽光故に、辺りはまるで暗闇の如く何も見えなかった。
 わあ、と時折おこる歓声は、幻のように一瞬で暑い空気に溶けていく。
 
 
 


●B場面

 プール観客席への北ゲート前。
 今ここに人影は今はない。喧騒も遠い分だけ、辺りの静けさを増していくばかりのものと化している。

 そこに一人の少年がやってきた。彼――布施啓太は、だがそのまま転ぶように地面に倒れ、地にうずくまる。
 必死に身体を起こそうとするも視線はずれ、腰は引けている。滴るようにふきだす汗。かきむしるように土をかく指。――その様子は、まるで何かに怯える犬のようだ。
 と。
「啓太」
 彼の前に新たな人影が立つ。啓太が必死の思いで顔を上げると、早乙女美がそこに立っていた。
 以前見た時とは違う穏やかな瞳だった。哀れみとは違う、静かな感情をたたえて啓太に手を差し出す。
「……帰ろう、啓太」
 ――ああ、この声。どこかで聞いたことがある。
 啓太の心の声を聞いたかのように、美はかすかな笑みを浮かべ、啓太の前に膝をつく。
「この場所はまだ、啓太には辛すぎるだろう? ……無理はしなくていいんだよ」
「……だけど、オレは、報道部、で」
 必死の啓太の反論は切れ切れだ。
 美は啓太の頬に手を伸ばし、ゆっくりと彼の顔の前に己のそれを寄せて行く。
「いいんだ。辛い思い出を避けることも、忘れたいと思うことも……『逃げ』じゃないよ」
 ――啓太。
 もう一度名を呼び、そして美は啓太と間近で視線を合わせ微笑んだ。
 

 
「啓太!」
 新たな声が聞こえてきたのはその時だ。
 さっと美が立ち上がる。反応が遅れた啓太は共に立ち上がれず――まるで彼を引き止めるかのように宙に浮いた手だけが彼をむなしく追いかけた。
「また会おう、啓太」
 そうして美は身をひるがえす。地に膝をついたままの啓太が見送るうちにその姿はどんどん小さくなっていき――そして消え失せた時、まるで彼と入れ替わりのように現れたのは草間武彦だった。
「……いま、ここにいたのは美か?」
 息を弾ませながらの問いに、啓太はうなずくのがやっとだ。
「あいつ……まさか、お前に触れるために箱を手放したんじゃないだろうな」
 呟きは啓太に向けられたものではなかったらしい。思わず彼を仰ぐと、ち、と小さく草間が舌打ちをした。
「……何のこと? 草間さん」
「お前は知らなくていいことだ」
「草間さん!」
 叫び、彼に取りすがると――草間は視線をずらしたまま、言った。
「お前は箱には触れないらしい。……だから、箱を持ったままではお前に触れることが出来ない。そういうことだろう。それ以上は俺も知らない」
「どういうこと?」
「……お前がよっぽど心配だったってことだ。場所が場所だったからな。
啓太、それだけ分かってればいい。無理に思い出そうとするな」
 ――あいつも、同じことを言っていた……?
 
 
 呆然とする意識の裏で、暑さに浮かされた歓声が小さく沸いては消えていく。
 やっぱりここは静かだ、と啓太は思った。




     ■□■



「へぇ……これが噂の『箱』ですか?」
「なんだ、普通の箱じゃん」
「あんまり触るなよー。喰われても知らねぇぞ」


 後日。
 水泳勝負に勝った紅華(順位はもちろん全生徒のタイムでも一位だった)がまんまと交換条件にて獲ってきた『箱』は、今も静かに草間興信所にて眠っていた。
 ――などと言うと聞きばえもするのだろうか。
「草間さん、せっかく苦労して獲ってきたんだからさー、もうちょっとありがたそうに置いておけば?」という暁の声が示す通り、草間のデスクの上に置かれたそれは「無造作」というようにも見える。
「なんだか、本物の方が壊れそうな感じよね。私が獲ってきた方がなんだかそれっぽいわ」
「なんだシュライン、負け惜しみか?」
 キッチンから響いてくる声に草間が軽口を叩くと、違うわよ、とわずかに拗ねたような返事が返って来る。
 ――別行動で一人行動し、同じように箱を奪ってきたシュラインだったが、実はそちらは特製ダミーと判明するまでにそう時間はかからなかった。
「あんなにがっくりきてたシュラインもここ数年なかったよなあ」と草間はしみじみと二人に語る。
「ちょっと武彦さん、二人に変なこと吹き込まないでね。……はい、特製のバニラアイス。暑い時はやっぱり冷たいデザートよね」
「お、すげぇ! これシュラインさんお手製?」
「わぁ、ありがとうございます! 私バニラ大好きなんです!」
 事務所の小さなキッチンで盛り付けを完成させたシュラインが、二人の前にデザートプレートを並べる。白いアイスクリームの上に赤いチェリーと生クリームを乗せたそれは見るからに涼しげで――と、草間がシュラインを見上げる。
「おいシュライン、俺のは?」
「さて、武彦さんの分はどうしようかしら」
「……おーい、それはないだろう?」
 肩を落とした草間に、シュラインはまるで少女のような仕草でちろと舌を出して笑い、そしてキッチンからもう一枚のデザートプレートを持ってきた。
「冗談よ。はい、武彦さんの分」
「なんだよ、おどかすなよな」
「……草間さん、今ほどのガッカリ顔、ここ数年見たことなかったぜ?」
「ええ、今の草間さんぐらいがっかりした人、私最近見かけませんでした」
「……お前らなぁ!」


 暁と紅華の言葉に大声を上げるがすぐに降参とばかりにソファに沈み込んでしまう草間だった。
「全く、敵わないな……」




 梅雨の明けた窓の外は、もうすっかり夏の日差しだ。
 デスクの上の『箱』の今後も、そして再び姿を消した美のことも――今だけは置いておいて、この陽光と熱に浮かされ無邪気にはしゃぐのも、そう悪くないかもしれない。
 
 








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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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<草間興信所編>

【0086 / シュライン・エマ / しゅらいん・えま / 女 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【3525 / 羽角悠宇 / はすみ・ゆう / 男 / 16歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【4782 / 桐生暁 / きりゅう・あき / 男 / 17歳 / 高校生アルバイター、トランスのギター担当】
【5381 / 唯崎紅華 / ゆいざき・せっか / 女 / 16歳 / 高校生兼民間組織のエージェント】

(受注順)



NPC
早乙女美(さおとめ・よしみ)
布施啓太(ふせ・けいた)


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          ライター通信           
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こんにちは、つなみです。
この度は遅延いたしまして大変申し訳ありませんでした。随分とお待ちいただくことになってしまい、身の縮む思いです……すみませんでした。


さて。
今回のお話ですが、「神聖都学園」で募集しました「HOME編」と同時進行になっています。同じ場面でも視点がそれぞれ切り替わっていたり、こちらではぼかしている謎があちらでは解明されていたり、といったお遊びもいくつかありますので、もし興味がありましたら合わせて読んでみてくださいませ。
それと、今回「箱は誰が持っているか?(誰に持たせるか?)」という質問で3択を設定したのですが、草間「詠子」3票、そして学園「詠子」2票……ということで、詠子という読みが数の上で多かった草間側を「勝ち」とさせていただきました。
そんなわけで箱も草間さんの手に戻り、次回からは新展開……というところでしょうか。
もし興味がありましたら、次回以降も参加していただけるとうれしいです。


暁さん、はじめまして。この度はご参加くださり、ありがとうございました。
明るく「イマドキ」で、それでいてちらりと影を見せつつ……と、そんな姿を書きたいなーと思って頑張ってみたのですがさていかがでしたでしょうか? それとプレイングで「繭神」と推理したのが暁さんお一人だったのでこのような形になりました。一人だけだったというのもなかなかいい結果になったなあ、なんて自分では思っているのですが、ご希望に適っていれば幸いです。



反省ばかりのこの身ですが、この後も細々と活動していく予定ですのでまた興味がありましたらぜひぜひ参加してくださるとうれしいです。
感想、ご意見などありましたらご遠慮なく仰ってくださいね。

それでは、つなみでした。