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睡余の紅葉
東雲は読みかけの文庫本に栞を挟んでため息を吐きながらカウンターに戻った。
たまに古めかしい辞典等を仕入れると、その重さに肩を痛めそうでしょうがない。
よっこらせ、なんて掛け声をかける自分がおかしかった。
午前中から今の午後に至るまでひたすら、床に置いたダンボールと本棚を行き来ししていた腕は少々だるかった。
カウンターの慣れた椅子に腰を下ろす。
すると細い女の手が背後からするりと体重をかけて圧し掛かるように体が重くなった。
やはり疲れてしまったのだろうか。
意識が曖昧に浮いて、まぶたが落ちる。
伸ばした金髪が頬に触れるのは、ここに風が吹き込んでいるからだろうか。書店、とくに貴重な本を扱う店は保存のためにも風通しが良くなくては。
少しひんやりするのはここが、本のために直射日光を避けた造りになっているせいだろうか。
「おまえ、人か、鬼か」
東雲の背後で、まるで上等な鈴をりん、とひとつ振り鳴らしたような声がした。
振り向くとそこには金髪碧眼で色鮮やかな着物をまとった女性が一人立っていて、いつの間にカウンターの内側に、と思ったのだが、東雲が戻した視線の先には古ぼけたカウンターの木目も、その先に広がる薄暗い店内も、何もなかった。
それどころか、座っていたはずなのに、立っている。
体や腕の疲労感もない。
――夢、だろうか――
そう思った直後、もう一度問いが繰り返された。
「おまえ、人か、鬼か」
今度はその唇の動きから表所からすべてが見える。
女は艶やかに曲げた薄紅の唇を開き、青い目で少し笑った。
「私は」
「おう、おうおう、なんともまあ乳臭い青年に生まれたことよ、私。その髪、その目が唯一の目印、唯一の証拠。一見して人間ではないか」
人か、鬼か、と聞いておきながら女は東雲を人間だと言った。しかし、それはあくまで風貌上のことであろう。
女は座していた場所から静かに立ち上がると、口元に扇子を広げて、東雲に近寄ってきた。
「美人と言えなくもないが、なんとも垢抜けぬ。私の子孫たちは一体どんな血を入れたのやら」
東雲はこの女は戸隠における自分の先祖の鬼であると悟った。
「もう三度目になる。おまえ、人か、鬼か」
鬼女は、今度は口元を扇子で隠して問うた。
東雲は自分の中に鬼と人間両方の性質を併せ持つこと、そしてそれを自覚することで東雲飛鳥として生きている。
簡単に答えられる問いではなかった。
「少々難儀な質問か。……では、おまえ、恋をしたことはあるか」
「恋?」
獲物に突き刺した矢羽を放置するように、鬼女は話を変えた。
「そう、恋だ。自分でない誰かに身も心も恋焦がれ、じりじりと胸の奥が焼け付くような感情のことだ。おまえはあるか」
「恋、と呼べるようなものかどうか」
「そうだろうな。ああ、そうであろうとも。これもまたおまえには意地の悪い問いであろう。ちなみに私はある。………青年だったな。夜に溶け込みそうな黒髪、きりとしたその眼、そして何よりあの光り輝く魂」
どこかうっとりと語る鬼女は、扇子の色が照り返ってか、そうではないのか、少し高潮した頬を見せた。
「私はあれの命も心も欲しいのだ。……否、命も心も、という言い方はそぐわぬ。魂、と言った方が今はよかろう」
鬼女は東雲から数歩離れ、青い瞳を空に向けて、月の光を吸った。
どこからともなく紅葉が舞って、その姿はさながら一枚の絵のようだった。
まるで視線の先に相手がいるかのように、鬼女は金色の髪を流し、凄絶に笑む。赤い舌がその唇をなぞる。
水平にした扇子に一枚紅葉が落ちて、それを爪の長い指で救うと、今度はそれを赤い口元に少し当てて、もう一度東雲を見た。
「私の恋物語は退屈かね?」
「……いえ」
東雲の控えめな返事に、ふふ、と笑って、鬼女は再び視線を戻した。
「あれは、あたら若い身を戦に投じたがために私の元へやってきた。……女にすればさぞ美人だろうよ」
「……よほど、見目の良い方だったのですね」
東雲のその言葉に、鬼女は紅葉の下で口の端を吊り上げて笑った。
東雲の行き場のない言葉に笑ったのか、それともその若侍のことを思い出して笑ったのか。
鬼目は紅葉を吹いて宙に飛ばすと、再びこちらに向き直ると、その細く長い指を持つ手の甲をひやりと東雲の頬に当てた。
「まだ、幼子に過ぎぬ」
やさしく笑んで言った鬼女のその手は驚くほどに冷たい。
「あなたほど、長くは生きていません、から」
途切れがちになってしまうのは、その見透かすような青い瞳と、威圧感からだろうか。この言葉にも鬼女は少し笑った。
「私という鬼から生まれた人の子よ、おまえには恋と言えなくもない情が渦巻いている」
さっきの東雲の答えを言葉を変えて言い直しただけにもかかわらず、東雲はその答えが自分のものではないような気がして、何も言えなかった。
「どうした、若い”私”よ。おまえはさっき、恋と呼べるかどうか、と言った。つまりはこういうことであろう」
東雲の返答など期待していないように、鬼女はころころと笑う。
研ぎ澄まされた長い爪が頬から顎をなぞり、やがて離れた。
「今日何度目の質問になるか…。鬼と人の狭間の子よ、この血を分けた若き私よ、おまえは鬼として意中の人を食らいたいか、人として愛したいか」
鬼女は問うた。
東雲はがくん、と心が階段から一段踏み外すような感覚を覚える。
その問いこそが、最近になって感じていた矛盾の正体だと思い当たってしまったからだ。
鬼は極上の魂を好む。それも、若い女性の皇かで穢れのない白い魂を。
人は極上の愛を好む。それも、永遠に変わることのない不滅の愛を。
では人と鬼の狭間に生まれた者は何を好むか。極上の魂を持つ愛すべき人と会ったとき、その身はどの行動を選ぶのか。
出口のない答えが東雲の中で渦巻いて、いるのを感じるかのように、鬼女は笑みを崩さない。
「まさか、自分の体を半分に切り裂くこともあるまい?そのようなことをしても、おまえという私は人と鬼の質を分かつことなど出来やしないのだから」
「も、ちろん、それは…承知しています」
「ではどうする?書物を運ぶだけで萎えるその腕を一生のものとし、八重歯を隠し角を隠し、虫も殺さぬその顔で愛しい人の命が尽き果てるまでそれに添うのかね?それとも、か弱き人間など片腕で引き千切れるような怪力を常とし、愛しい人の喉奥にその腕を潜らせ、極上の魂を平らげるかね?」
鬼女は妖艶に笑んで言った。
月と紅葉を背負ったその姿はまるで世を支配するようにも思えて、逆光の中で光る澄んだ青い瞳は、深い水底のようで、そこに映る自分は宛てもなく迷い泳ぐ魚のように見えた。
「……分かりません…今は、答えられません…」
東雲は瞳の底で泳ぐ魚に告げる。
すると、水底からは魚が消えて、鬼女は東雲の胸を少し押した。
ただ、ほんの少し押されただけなのに、体はよろけ、後ろに倒れこむ感覚が襲って、意識は再び宙を舞う。
視界に映る金糸の髪は誰のものだろうか。
靄がかかった中で、鬼女がくつくつと笑う声が聞こえる。
「楽しみにしているよ、”私”。おまえが生粋の人間だったら、食っていただろうよ」
そんな声が聞こえたのは気のせいだっただろうか。
徐々に東雲の背中には固い感触が戻り、紙のにおいが鼻腔をくすぐる。まぶたを閉じていても分かるほど圧迫感のある天井の存在。
バサ、と音がして、東雲はまぶたを上げた。
見ればひざに乗せていた文庫本が床に落ちていて、栞はその意味を失っていた。
いつもなら、やれやれ、などと言ってすぐに拾うのだが、東雲は落ちた本も気にせずじっと、真正面から視線をはずさなかった。そして今見た夢のことを頭の中で考えていた。
ふと、首筋に違和感を覚えて手を差し入れると、はらりと一枚落ちたものがあった。
紅葉だった。
葉脈を独特の形に広げて、掌のように形作った、真っ赤な紅葉は、東雲の白い手の上で、外から吹き込んでくる風に揺れた。
毒々しいまでの色彩に、東雲は思わず後ろを振り返る。
しかしそこにはいつもの、店内にはむやみに置けない貴重な本棚があるだけで、誰の姿もなかった。
本棚のガラスに映る東雲の顔は金髪に碧眼。
その瞳の奥には、やはり魚が迷い泳いでいた。
終
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