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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


雲晴れて、射す陽光

 空はどこか重たい鈍色で、今にも雨が降り出しそうな気配が長くから続いている。近く夏の香りがする。しかしまだ梅雨のただなかである六月のある日は、静かに水の底に落ちてそこにあった。どこか重くじっとりとした肌にまとわりつく。風のささやかな一吹きを快いものと思うほどにそれは不快な気配をまとって、しかし夏の本格的な暑さを思えば耐えられないことではないとセレスティ・カーニンガムは思う。
 時刻は既に正午を過ぎて、それでも灰色の雲に覆われた空は色を変えて時刻を告げることはない。曖昧な季節の彩りを眺めながら決して短くはない距離をのんびり歩いて出かけようと思ったのは確かだが、特別な用事があったからというわけではなく、ただの気紛れだ。車を出してもらうことを断り、ただ一人の脚でどこかへ向かうことに何か特別な思い入れがあったのかといったらそうではない。ただ本格的な暑さが訪れるその前に少しでも自らの脚で外を歩いてみたいような気がしたというただそれだけである。
 屋敷を出る間際に何とはなしに何れ陽が高い位置に顔を覗かせるような気配を察したが、確かめるよう見上げた空は鈍い色に染まりきってセレスティの脳裏に浮かんだその気配を瞬く間に一蹴した。ステッキを手に緻密な論理を無駄に脳裏に描くでもなく、茫漠とした曖昧さに身を浸して歩く心地よさ。それだけを抱えて歩を進めることの快さ。起伏のない日常に無防備に身をゆだねる安らかさは、日々流れていくそれを他愛もないものとして見過ごしていないという証拠だろう。この一瞬の安らぎは、唐突に断ち切られるその日があることをどこかで察しているからこそのものだ。これまで参加してきた調査のなかでそのようなことをなんとはなしに身近に感じてきた。今という一瞬に永遠という言葉はない。連続する時間のなかでもまた同様だ。続くことの不思議ばかりがのさばるこの日常のなかでは、ただ不確かに明日へと時間を繋いでいくことしかできない。
 我知らずセレスティの脚は中心地を離れて、どこか淋しげな気配をまとう店ばかりが軒を連ねる通りへと向かう。小さな店ばかりが軒を連ねるそこは、どこか懐かしいにおいがして、自ずと歩調は緩やかなものになった。並ぶショーウィンドーに映る影は微弱な陽光のせいで滲んでいる。雲間から鋭く射すことのない日差しが世界はどこか淋しいものに変えている錯覚がセレスティの意識に触れる。梅雨の空気に辺りは静かに潤んでいる。なんとはなしに並ぶショーウィンドーを眺めながら歩を進め、ふと目を引く店の前で脚を止める。特別飾り立てているわけではないがひどく目を引くそこは、そこはかとなく異国の香りがした。洒落た細工の施されたドアは強く懐かしい古めかしさが漂い、店の目印となる看板には流れるような独特のアルファベット書体で洋書専門の古書店であることが刻印されている。
 そのドアを開けることにセレスティが躊躇うことはなかった。ドアノブに手をかけ、僅かに力をこめただけで開くドアは客人を穏やかに迎え入れ、それでいて店としての誇り示しているようでさえある。軽やかに鳴るベルに慎ましく響くのは店主の迎えの言葉で、しかし簡素なそれに煩わしさはない。自由に店内を見ていってくれとばかりのそれに甘えるようにして、セレスティは店内に視線を巡らせた。店構えに比べてひどく奥行きのあり、その量にセレスティは思わず密やかな笑みを漏らしていた。
 書物に埋め尽くされた店内は和書ばかりの古書店とはまた違った懐かしい香りがする。本一冊一冊がまとう想い出までもをきちんと収納したかのような書架は、静かに過去のなかを漂っているかのようだ。ふと仄かな珈琲の香りがして、その在り処を求めるように視線を巡らせるとふと二階に続く階段が目に止まる。その傍らには小さな看板が一つ置かれており、二階が喫茶店になっていることを告げていた。ついでのようにカウンターに視線を移すと、店主とおぼしき初老の女性が品の良いカップを傍らに置いて一冊の本に記された文字を真剣に追いかけている姿にぶつかる。
 総てが客の自由を許していると思った。
 ゆったりと書架の間を歩きながら、一つ一つの背表紙を確かめていく。作者ごと、ジャンルごとに分けられ書架に収まる書物たちはきちんとした秩序と共にそこにあった。
 どれだけの間そうした心地よい書架の間を巡っていたかわからない。いくつかの本を手に取り、手に馴染むものだけの表紙を開き、そのなかから一番しっくりと文字を追いかけることができる本を選んだ。吟味する時間を計る必要はどこにもなく、ゆったりと時間をかけて選び取ったそれはひどく自分に馴染むような気がする。
 いつの間にか店に入り込む日差しは鋭くなっていた。硝子を透過して射しこむそれに、僅かに辟易しながらセレスティはカウンターに向かった。そして初老の女性の前で会計を済ませ、ふと思い立ったようにしてセレスティは云った。
「二階のほうは喫茶店を営んでいらっしゃるのでしょうか?」
 ゆったりとした問いに初老の女性は笑う。
「娘が小さな店を開業しております。親の欲目でなくとも読書には最適な場所ですから、もしお時間があるのでしたら」
 静かなすすめに従い、セレスティはお言葉に甘えてと返す。本心は日差しの鋭い場所に出て行きたくないからであったが、柔和な誘いを無碍な言葉で断るようなことをしたくはなかったことも本当だ。丁度良い。そう思いながら二階の喫茶店へと爪先を向ける。軋る階段を昇りきると、簡素なテーブル席が三つだけ並ぶ空間が眼前に開けた。カウンターには階下で見た初老の女性とよく似た面差しのまだ若い女性が本を開いている。しかしセレスティの存在に気付くと、丁寧に栞を挟み、読書を中断して微笑んで云った。
「いらっしゃいませ」
 ひどく温かな気持ちにさせられる一言だ。
「お好きな席にどうぞ」
 云う女性の言葉に甘えて、セレスティは直接日差しが射しこまないながらも明るい窓際の席へと腰を落ち着ける。そして気付いた。本を読むための場所なのだと。長く時間をかけてゆっくりと書物を捲る場所を提供する心配りがそこかしこに感じられる店内はただそこにあるというそれだけで心が安らいだ。
 そのような場所で携帯電話を使うのは少々気が引けたが、窓の外の日差しを思えば使わずにはいられない。出ることさえも億劫にさせるその日差しは、一体今までどこに隠れていたのかというほどに鋭利なものだ。電話をかけた相手はモーリス・ラジアル。早すぎず遅すぎずの絶妙なタイミングで呼び出しのコールを断ち切る慎ましやかさは常のものだ。
『どうなさいましたか?』
 受話器の向こうから響く声はノイズを孕みながらも確かな音となって届く。それに迎えにくるよう云って居場所を告げると、素直な応えがあった。すぐに迎えに行きますというモーリスの声に、ゆっくりでかまわないと答えたのはもう少し長くこの場に留まっていたいような気持ちを拭い去ることができないからだった。
 携帯電話を切り、戻ってくる静寂のなかで注文をとる女性に答え、今しがた購入したばかりの本を開く。いつか誰かが開いた頁を丁寧に捲っていくと、内容ばかりではなくいつかの誰かの見ていたものも見える気がした。それが次第にセレスティから時間という概念を奪っていく。時計の針が巡る音一つ響くことのない店内はひどく静かだった。しかしそれは耳が痛くなるようなものではなく、自ずと開く書物が見せる世界に沈むことができる快い静寂だ。
「セレスティ様。お迎えにあがりました」
 声が響いてセレスティははたを我に返る。飲みかけの珈琲がいつの間にか冷めてそのままにテーブルの上にあって、開く書物の頁の残りだけが減り続けていた。名残惜しむようにゆっくりと栞紐を挟むセレスティの指先を視界に捉えながら、モーリスはふとセレスティはこのまま帰ると素直に云うだろうかと思う。この場の快さは今しがた訪れたばかりのモーリスにもわかる。そしてその場所のなかにひどくしっくりと馴染んで書物を捲っていたセレスティの姿は、いつまでもここに留まることを望みかねないほどにひどく安らいだものだった。
「ご用件は総てお済みですか?」
 覆されることを理解しながら問うモーリスにセレスティは暫し逡巡する気配を見せ、閉じた本の古びた革表紙の上に手を乗せたまま傍らの窓の向こうへと視線を向ける。そこはまだ鋭い日差しの下にあり、眩しいくらいの光に包まれていた。
「もう少し……日が翳るのを待ってからここを出ましょうか」
 すぐに帰るのだと思いながらもどこかで予測していた言葉にモーリスはどこか仕方がないといったように笑う。常の我儘だ。今に始まったことではなく、決して悪気があるわけではない。荷物持ちが増えて購買欲が刺激されたのだろう。それでなくとも階下の古書店はセレスティ好みものだ。雰囲気ばかりではなく、ざっと見回しただけでもその品揃えは素晴らしいものだとモーリスは思っていた。それをセレスティがすぐさま諦め、帰ると云うわけがない。今手にしている一冊を選び出すにも多くの時間を費やした筈だ。その一冊のために諦めた本の数を思えば、すぐに帰るなどとは云わないことは明らかだった。
 そして案の定セレスティは階下の古書店をもう少しゆっくり見てみたいと云う。モーリスはその言葉に当然のように同意した。
 珈琲の代金と共に快い場所を提供してくれたことに対する礼を告げてセレスティは階下へ向かう。その僅か後ろをついてモーリスも再び階段を下りた。
 それからセレスティはモーリスを伴い陽が傾くまでの長き時間をその古書店で過ごした。モーリスが予想していたとおりセレスティは多くの書物を諦めて一冊を選び出したようで、諦めたそのなかから再びゆっくり時間をかけて吟味し、数十冊の本を購入した。そんなセレスティの姿にモーリスは仕方がないといったような素振りを見せながらも、楽しげなその姿を尊重するようにして素直につき従う。我儘も笑顔で受け止め、判断を求める声には確かな答えを返した。快く楽しい時間を過ごすセレスティを僅かにでも不快にさせないよう努めるモーリスの態度はどこか機械的でありながらも温かさを失っていない。だからこそセレスティも自らが望むままに膨大な量の書物がおさまる書架のなかからゆっくりと気に入りのものを丁寧に選び出すことができた。
 結局二人がその店を後にしたのは閉店時刻を告げる店主の一声があってからのことだった。十分に満足するまで買い物を楽しんだセレスティはひどく満ち足りた表情で、初老の女性に挨拶を残し、購入した多くの本をモーリスに持たせて店を出た。セレスティは終始常にはないくらいに楽しげだった。常にすぐ傍に在るモーリスにはそれがよくわかった。そうしたことを決して口に出すモーリスではなかったが、そうしたモーリスの気持ちをセレスティもよくわかっている。だからこそ素直に我儘な姿を見せることができるのだ。
 帰路を行く車中でもセレスティは楽しげな様子を崩すことはなかった。たとえ礼を云われることはなくとも、そうしたセレスティの姿がモーリスを満足させる。仕方がないと、常のことだと諦めながらもモーリスはセレスティの我儘に付き合うことが嫌いではない。それはセレスティの常の態度がそうさせるだけであって、モーリスが努めて自身を殺しているからではなかった。
「ご満足のゆくお買い物を心行くまで楽しむことができましたか?」
 あまりに楽しげなセレスティの姿にハンドルを握ったまま思わず問うたモーリスに返る答えはルームミラーに映るセレスティの満たされた笑顔で、それがひどくモーリスの心を満たす。
「それは何よりです」
 モーリスの答えにセレスティは一段と深い笑みを刻んだ。
 道を行く車は屋敷へと向かい、たとえ永遠がなくともこの日々はまだ長く続くとどちらかともなく思う一瞬が過ぎていく。