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<東京怪談ノベル(シングル)>


闇下螢光


 湿り気を帯びた河原からの涼風が、藍に染まり始めた空の下を駆け抜ける。熱は篭れど澄んだ空気の中を、一匹の螢が河原を外れて砂利道の方へと迷い込んだ。薄闇に、ぼうっと浮かぶ淡い緑。螢は命を賭し、光る。そうして今日もまた一人、自分と同じ迷い人をこの店へと誘い込むのだ。
 チリンと微かに音が鳴り、人の気配が波のように退いていった。料亭だった店内が、静かに茶屋に姿を変えるのを眺めつつ、フェンドは座から腰を上げる。客が来たのかと玄関口から顔を出すと、入れ違いに螢が店の中へと入って来た。そこでまたリンと、今度ははっきりと鳴る。夏の日暮れにふさわしい、螢の光りによく似た色の、涼やかな音。
「風鈴の音?」
 掛けられた声にフェンドは振り向いた。まだ幼さの残る顔立ちの、紺のブレザーの制服を着た少女が不思議そうに彼を見ている。
「河原沿いを歩いて来て……螢なんて、珍しかったから追い掛けて来たんだけど……」
 戸惑った風にちらりと自分の顔を見上げて来た少女を、フェンドは少し苦笑混じりに店の中へ招き入れた。
「いらっしゃい。……『螢の風鈴屋』を探して来たんだろ?」
 目を瞬いた少女に答えるように、風鈴がまた、チリンと鳴いた。


 店内の至るところに吊るされた風鈴はその数を知れず、けれどもけして煩くはなかった。開けた戸の間から、すぅっと風が吹いて行っても柔らかい音を奏でるか、或いはその体を揺らすかだけにして、他の音を邪魔することがない。間を開けて順に鳴る音は、まるで風の足音を聞いているかのようだった。
 少女はもの珍しげに風鈴を眺めていた。座に手をついて首を後ろに倒している様は、丸きり子供だ。仄かな照明の明かりを少しだけ内に閉じ込めて反射する色ガラスの球体を、「まるで螢みたい」という少女に、フェンドはそっと茶を出してやった。
「お茶も出るのね」
「茶屋だからな」
「風鈴屋さんじゃないの?」
「そりゃ、あざなさ。元は琳琅亭という」
 フェンドの答えに少女はふぅん、と興味なさげに相槌を打つと、出されたお茶を一口啜って渋顔を作った。
「子供にゃちょっと苦かったか」
「……子供じゃないわよ」
 フェンドのからかいに意地を張って、少女は残りを一息に飲み干す。どうだとばかりに胸を張る少女を笑って、フェンドは茶菓子を彼女の側へ寄せてやった。
「少なくとも味わうような飲み方じゃねぇな。……まだ14、5ってところだろう?」
 図星を当てられたのか、少女は悔しそうに羊羹を菓子楊枝で切り割った。暗色の塊を口に入れると、先ほどの渋さをすっと取り除くような上品な甘さが広がる。思わず「美味しい」と口にした少女にフェンドは片頬を上げると、少し距離を取って自分も腰を下ろした。
「で、お前さんは何で螢の風鈴屋に?」
 問い掛けに、少女は口篭もる。
 暫くして止んでいた風鈴が再び音を鳴らしたのに押されるように、少女はぽつりぽつりと話し始めた。
「年の離れた弟がいたの。私より5つ下で、生まれつき体が弱かった」
 小さい頃から当然両親は弟にかかりきり。彼女はなるべく両親に負担を掛けないよう、家のことでできることなら何でも手伝い、できないことも努力して身に着けてきたという。誉めてもらいたかったのかもしれない、と彼女は眉尻を下げて笑った。そうすることで、両親の心を少しでも自分に向けたかったのかもしれない、と。
「でもね、段々誉めてもらえることもなくなって、やってなかったら逆に『何でやってないの?』って怒られたりして……何で私ばっかり、って思った」
 声は微かに震えており、フェンドは少女の顔を見ずとも、彼女が涙を堪えていることがわかった。ずっと我慢していたのだろう。誰にも頼ることなどできずに。
「別に弟が嫌いとか、そういうわけじゃなかった。私にとってもたった一人の兄弟なんだし。何だかんだ言っても守ってあげなくちゃって、思ってたんだけど……」
 少女はそこでふっと息を漏らすと、フェンドの方に向き直り、言った。
「『あんたなんか死ねばいいのよ!』って言っちゃった。あの子がいつも笑ってるのが悔しくて……。それから結局お見舞いにも行かないで、3週間ぐらいして、ホントに」
 泣き出すまいと顔を引き攣らせてまで笑おうとする彼女は、とても先刻の15の少女には見えなかった。大事な人間の死を理解した大人の顔だ。
「だから今日は、あの子の恨み言を聞きに」
 話し終えた様子の少女にフェンドは「そうか」とだけ答えると、立ち上がって吊るされた内の風鈴を一つ下ろして少女の目の前で揺らした。
 ちりんと優しい音が鳴り、『彼』の記録が映し出される。寂しげな顔。笑ってなどいなかった。
『……確かに、死んじゃえばいいのにね。僕がいるからお母さんもお父さんも苦しくて、お姉ちゃんは寂しいんだ。……死ねれば、いい。……ああ、でもその前にお姉ちゃんに謝らないと……』
 哀に沈んだ声で繰り返される言葉に、少女は思わず耳を塞ぐ。止めてと俯く少女の手首をきつく掴んで、フェンドはその顔を上げさせた。
「聞け。これがお前さんの弟の、最期の恨み言なんだ」
 少女の目から溢れた涙が、細い顎を伝って床に染みを残す。許されたくなどなかった、と、その瞳は雄弁に語っていた。誰かに責められることで、彼女は苦痛と後悔とに溺れられていたはずなのだ。
 優しくなった両親などいらなかった。謝罪の言葉なんて必要なかった。間違えたのは自分のはずだ。それなのに。
 嗚咽を漏らしながら、少女はただひたすらに泣いた。抱き続けなければならない柔らか過ぎる痛みに、傷つくことすら許されず。

 いつの間にか砕け散ったガラスの螢は、静かにそれを見守るだけだった。



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