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<東京怪談ノベル(シングル)>


『あまやどり』


 雨を貯めていた花束のセロファンから雫が垂れて、カーペットに黒い染みを作った。藍原和馬(あいはら・かずま)は、店の入口で静かにカサブランカを振り、余分な水分を落とす。傘は、無い。
「おひとりさまですか?お煙草はお吸いになられますか?」
 自販機の声にも似た調子で、ウェイトレスは、お仕着せの微笑みで客を出迎えた。

 商用で打合せに使われるようなヤニ臭い喫茶店は、広い店内とテーブル数を誇る。和馬ひとりで一つのテーブルを占領するのに、負い目を感じなくて済んだ。
 ビニールであることを隠しもしない安っぽい艶のソファに体を沈める。隣の席に、引き取り手が無くなった花束を静かに置いた。どんなに丁寧に扱っても、切れた花びらも皺になったセロファンも修復されることはないのだけれど。銀のリボンは濡れてくたくたに縒れていたし、目に痛いほど白い百合には所々に泥の汚れがついていた。
 夜と呼ぶにはまだ早い時刻だったが、突然の雨はいきなり闇を引き連れて来た。気の早いオフィスビル達が幾つも灯をともす。蛍光灯の冷えた明りの群れを、濡れたガラスのエフェクターが滲ませてブレさせて、距離も色も曖昧にしていた。
 
 コーヒーの苦さに人心地つき、黒い革靴の泥に初めて気付く。都内とは言え、墓地は墓地。敷かれた石タイルの周りは湿った土だ。靴が汚れないはずはなかった。他の客や給仕に気付かれないよう、靴同士を擦ってそれをこそぎ落とした。いつもは喪服と勘違いされがちな黒スーツも、墓参り帰りなら世間に文句は言われまい。
 オールバック気味に上げた髪、目の端に朱色の違和感があり、指で払った。カサブランカの雄蘂が張り付いていたようだ。先刻、花束で顔を横殴りにされた時に、雄蘂が折れて付着したらしい。
 和馬は小さくため息を付いた。

* * * * *
 あくびが出そうなほど長く生きている和馬にとっては、人の死にめぐり合ったのは半端な回数では無い。外見は三十歳前後の日本人男性に見える和馬だが、実は、もう、生を受けて900年以上たつ。きちんとした戸籍を持たぬ獣人は、21世紀の東京で『フリーター』として、身元証明が必要無い職に付いて暮らしていた。藍原和馬という名も、たぶん本当の名じゃないのだろうと、自分でも思う。だが、元の名前など一文字だって覚えちゃいなかった。日々が過ぎるのはあまりに早く、背後に積み重なって行く月日はあまりに膨大だった。
 親しかった友人達も、愛しく思った女達も、輪郭はぼやけ、名前もあやふやだった。老いの無い和馬が同じ場所で暮らすのは10年が限度だ。事情も告げることができずにその街を去る、それのくり返し。別れを告げれば理由を問い詰められ罵られ、黙って去れば恨まれ憎まれる。
 深く考えないこと。すぐに忘れること。和馬が、長い時を狂わずに生きて来られた秘訣はそれだった。
 まして、裏の仕事で抹消した相手のことなど、翌日に忘れていることも少なくはない。嗅いだ血の匂いも牙に残った血の味も、覚えていて一つもいいことなどないのだから。

 今日訪ねた墓、その男が記憶に残ったのは、同じ『あいはらかずま』という名前だったからだ。どういう字を当てるかは知らない。三年も前のことだ。魔に体を乗っ取られたその青年を救うすべは無かった。魔が次の器を見つけ去ったとしても、青年はすでに廃人だった。次の被害者を出さない為に、獣化した和馬の鋭い爪が青年の喉を斬った。
 アスファルトにもんどり打って倒れ、喉をぱっくりと切り裂かれ、簡単に息絶えた青年。同じ名なのに、和馬のように即時に傷が塞がることもなかった。夜にじわじわと広がる血だまり。彼はこれで楽になる。終わることができる。だが、俺は?そして、俺は?
 翌朝、陽の光と共に灰色の路に転がる死体が発見される。和馬と同じ名の屍に、泣いてすがり付く女がいた。秋には結婚が決まっていたそうだ。野次馬に混じり、遠目で眺めながら、『そんな死は、よくあることだ』と和馬は心で呟く。
 自分に言い聞かせていた。ありふれた死であると。・・・女の号泣への言い訳だった。

 ありふれた死であるなら、なぜ自分は毎年墓を訪れるのだろう。同じ名だった青年が、『もうひとりの自分』のような気がしているのか。
 若者の街にいきなり高い塀を聳やかせたその墓地は、陰と湿気を含み、黴と苔を微かに匂わせる。だが、クラクションと人のざわめきは、塀の中へも侵食して来た。静けさとはかけ離れたその墓地の一画、まだ新しい墓に和馬は白い百合の花束を置いた。花屋からずっとカサブランカを胸に抱えて来た。この花の芳香はきつく、鼻がよすぎる和馬は軽い目眩を覚えていた。
「去年、花を持っていらしたのは、あなたでしたか」
 澄んだ声に、和馬の足が止まった。木影から現れたのは、青年の婚約者だった。命日は10日も前だった。和馬は誰にも見とがめられぬように、今年も去年もわざと日をずらしたのだが。
「お友達なら全員顔見知りです。あなたは、どなた?」
 花の香のせいで、女がいるのに気付かなかった。和馬に答える言葉は無い。下を向いて黙る。
「・・・彼を『処理』した方ね?」
 恋人の死の理由は十分知っているようだった。だが、知っているのと納得するのとは違う。だいたい、愛する人の死を納得するなんて、900年生きた和馬にだって無理な話だろう。
「お持ち帰りください」
 静かな口調と裏腹に、女が花束で和馬を打ったその強さは、悲しみの強さだったろう。
 女が居たのは偶然とは思えない。花束を突き返すその為だけに、何日も張っていたのかもしれない。

 想いに沈み、荒れた花束を肩に乗せて人込みを行く男を、すれ違う人々は痛いものを見るように視線をそらした。急な驟雨はかえって幸運だった。もう、皆、和馬を気にする余裕は無くなった。商店の軒へ逃げる者、慌てて駆け出す者、メトロの穴蔵に潜る者。
『ああ。雨か・・・』
 気付いたのは、雨に叩かれたからではなく、周りの人々のせわしない動きからだった。
 そして、苦笑した。深く考えないこと。すぐに忘れること。それが秘訣だ。
 きっと百合の香に酔ったのだ。熱いコーヒーで目を醒まそう。

* * * * *
 ガラスの向こうの雨は、少し小振りになってきた。カフェインは、いつもの和馬を取り戻させた。
『さあて。この花束、どうすっかな』
 三年前に青年の死に憧憬を抱いた和馬だったが、今は、しばらく一緒の時間を味わいたい女ができていた。以前なら漫然とした自殺を真似て、香りの強いこれを持ち帰り、部屋で眺めながら心の傷口の痛みを楽しんだかもしれない。あの婚約者への贖罪と勘違いして。
 だがそれは、死んだ青年にも、あの婚約者にも、何の関係も無い痛みだ。

『ちっ。5千円もしたんだがなあ』
 だが、もったいないからと言って、代わりに誰かに死者への花束を贈るつもりもない。
 和馬は、伝票だけ取って立ち上がった。

 焦げ茶に煤けた木製のドアが閉まり、カラランとベルが鳴る。和馬はズボンのポケットに手を突っ込んで、小雨の街へとゆっくり歩き出す。
 店のソファには、大輪の百合達が置き去りにされていた。
 カップを片付けに来たウェイトレスが気付き、慌てて店の外まで追うが、もう、細かい銀の雨が舞うだけで、黒いスーツの背中はどこにも見えなかった。


< END >