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<東京怪談ノベル(シングル)>


ゆったりと、ゆっくりと。 〜閑暇の友〜

 昼下がり。手枕にうたた寝をしていた門屋将太郎は突然、助手から空いた手を掴まれた。
「なんだ?」
「いいものですね」
将太郎の手にはめられているのは、見るからに高そうな石のついたアンティーク風の腕時計。欲しいのか、と聞くと助手は静かに首を振る。確かに、狙っているという目つきではなかった。ただ持て余した時間を塞ぐため、選びだした会話の糸口に過ぎなかった。
 どこで買ったんです、と助手は聞いた。
 黙っていると、時計の針の音が規則的に室内を満たしていく。
 将太郎はゆっくりとあくびをした。



 駆け出しの臨床心理士は大抵、大学病院に勤めるかスクールカウンセラーになるなどして経験を重ねる。しかし将太郎の場合は手順を無視して、いきなり個人の心理相談所を開業した。神聖都学園の非常勤という食い扶持はまだなく、つまりはりぼての城から築いたというわけである。
 徒手空拳からの開業、当然だが客のあてはなかった。一応近所にチラシを配ってはみたものの、住所が今にも倒壊しそうなボロビルでは怖気づく人のほうが多いようで、反応は全く返ってきていない。
「ま、こっちの準備もできてねえし仕方ねえよな」
相談所の内装は、リサイクルセンターで埃をかぶっていたものばかり買い叩いてきた。面積が広いだけが取り得の机と、体重をかければ折れそうな椅子。背板が錆びかけている大きな本棚には、はったりでも専門書を詰め込んでおくべきなのだが、資金は残っていなかった。
 さしずめ本棚が埋まればこの心理相談所も一人前、といったところだろう。
「シンプル・オブ・ザ・ベストってやつだ」
と、理由をつけて将太郎は己を慰める。
 カウンセリングルームにある机と椅子、そして本棚、それを除くとあと相談所にあるものといえば客用の古いソファだけである。窓にかけるブラインドすらなく、客のためのスリッパもないので相談所内は土足だった。玄関の脇に積まれたチラシが、殺風景に拍車をかけている。
 書き落としたことはないよな、と将太郎は客が来ないのをチラシのせいにしてみた。達筆をコピーしただけのシンプルなチラシには門屋心理相談所の住所と地図、それから営業時間(朝十時から夜は八時、但し途中一時から二時までは休憩)あとは一番苦手な宣伝文句が載っている。
 将太郎は宣伝、というのが苦手だった。一つの物には当然長所と短所が存在するはずなのに、宣伝というのはその長所だけを抜き出すものだから、書いているうち面映くなってくるのである。書きあがったものを読み返すとなんだか自分が仕事に生きる聖人君子のように思えて、つい
「私生活ではだらしないところもあるのだ」
とカップラーメンを愛することなどつけ加えてしまった。ひょっとすると、これが失敗だったのかもしれない。

 ともかく、開業三日目未だ訪れる客はなかった。いや、客がないだけならまだいい。そうでない、たとえば新聞を読みませんかという勧誘や書留を配達する郵便局員といった仕事関係の人間とも、将太郎はまだ会っていなかった。
「開業のときには花輪がつきものだろ」
植木や花、電報でも許してやる。それなのに誰も来ないから、入口は殺風景のままなのである。身内にも忘れられる心理相談所、そんなものがあるのだろうか。
「あるから、俺はここにいるんだよな」
独り言が多くなるのは、客がないせいだった。
 黙っていると、相談所は静けさに溺れる。本当にここが東京なのかと疑いたくなるくらいに静かだった。まだ電話がないので電話も鳴らない、時計がないので時間もわからない。剥き出しの窓から注ぐ太陽の光の加減で、朝か昼かを判断していた。
 いや、時を知る方法は他にもあった。将太郎は窓によりかかると、地上のアスファルトを見下ろした。豆粒のような人間たちが、熱心に歩き回っている。朝の通勤時間帯を抜けたらしく、予想していたより頭の数は少なかった。
 あの中の一人になることもできたのだ、と将太郎はふっと思った。相談所を開く前、大学病院から誘いを受けたことがある。素直に就職しようと決めなかったのは、病院の消毒くさい匂いが苦手だったからだ。多分、もっと心の奥を覗けば別の答えがあるのかもしれないけれど、将太郎はそのせいにしていた。
 誰か一人でも、見上げるものはないかと将太郎は願った。しかし聞き届ける人は、誰もいなかった。妙な寂しさに胸を捕えられ、将太郎は乱暴に黒いソファへ身を投げ出した。片側の肘掛に頭を乗せ、反対側へは足を預ける。長身の将太郎には、二人がけのソファでも狭く、端からは膝下がはみ出していた。
 無理をしていることはわかっていたが、将太郎は不平を言いたくはなかったのだ。
「仕事できればいいんだ、俺は」
静寂をかき消すように、唇を割って言葉が漏れる。やがてその言葉は不貞寝の吐息に変わり、我知らず、将太郎はいつの間にか寝入ってしまった。

 間もなく、相談所の扉がゆっくりと開いた。なにもかもがきしむはずのこのビル内では珍しく、玄関だけが音もなく開くのだった。
「すいません」
入ってきたのは銀髪を丁寧に後ろへ撫でつけ、焦茶色のスーツを着こなした上品な老人であった。足が不自由なのか、ゆっくりとした足取りに杖を頼っている。空いた手には、将太郎の配ったチラシが握られていた。
 彼はこのところ不眠に悩まされていた。病院で処方してもらった薬もなかなか効かず、どうするものかと考えていたところ、ふと郵便受けに放り込まれていた将太郎のチラシが目に止まったのである。気休めかもしれないが、と思いつつ訪ねてきたのだった。
 ところが、当の将太郎はソファで熟睡していた。
「おや」
老人は驚いたように肩をすくめると、しかし将太郎を揺り起こそうとはせず、その寝顔を黙って見つめていた。立っているのが辛くなってくると、将太郎が使うはずの椅子に腰掛けて、静かに将太郎が目覚めるのを待っていた。
 将太郎の寝顔から視線を外すとき、老人は相談所の中を見回していた。部屋に時計がないことにはすぐ気づいたのだが、最初はそれが心理相談所の方針なのかと思った。だが、本棚がからっぽなことや仕事用の机になにも乗っていないことなどから、将太郎に金銭的余裕がないことを悟った。
 仕事を始めたばかりで金もなく、それなのにぐうぐうと眠っていられる将太郎に、老人はなんとなく心和まされるものを感じた。
「・・・・・・」
それから、どれくらい時間が経ったのだろう。老人はふっと、自分の腕時計を見た。相談所に入る前に確かめた時間から、軽く一時間は経過していた。なんと老人は、将太郎の寝顔を見ているうちについ自分までうとうとと居眠りをしていたのだった。
 もう二ヶ月も不眠に悩まされていたのに、と老人は信じられなかった。それでも時計の針は確かに進んでおり、もうすぐ一時を指そうとしていた。窓の下は昼休みを終え仕事に戻ろうとする人ごみで溢れていた。
 将太郎はまだ眠りつづけていた。老人が立ち上がるときに椅子をがたりと鳴らしたのだけれど、少し首を動かしただけでほとんど無反応であった。が、かすかに笑ったようにも見えた。老人も、応えるようにゆっくりと微笑んだ。
「ん?」
誰かが部屋にいるような気配がして、将太郎は目を覚ました。しかし相談所の中には相変わらず将太郎が一人きりだった。夢だったのか、と将太郎は首を傾げる。
 だが、夢ではない証拠が一つだけ残されていた。スチル製の机の上に、銀色の腕時計が残されていたのだった。細い針は一時四分を指していた。



 将太郎は、壁にかけられた大きな時計を見て、それから腕時計に目を落とす。
「買ったっていうかなあ」
なんとも答えようがなく、将太郎は曖昧に笑った。自分の机に置かれていたので自分のものとして使っているのだが、未だに誰のものかはわからないままだった。
 ただ、救われたという思いはある。あれからも相談所にはしばらく一人の客もなかったのだが、将太郎が黙っていてもなにか音をたててくれていたのはこの時計であった。ブラインドから洩れ入る太陽の光に時計の文字盤をかざすと、縁がキラリと光った。
 コーヒーでも入れましょうか、と助手が言った。