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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


新鋭ノ画家

■ 画廊経営者(オープニング)

「だからァ、お願いしますって!!」
 毎度毎度古く汚い事でお馴染みの草間興信所。
 この少しでも暴れれば下の階と破壊的接触が出来そうな床や、武彦が断った依頼書の山、山、もう一つ山。それらをひっくり返すようにして先程から一人の男が必死で何か、机の反対側を向き、子供のようにそっぽを向いてしまった探偵に頼み込んでいる。

「兄さん、少しくらいお聞きしては…」
「零、コーヒー。 俺のだけでいい」
 妹、零の話まで右から左に流し現実逃避するかのように目を背ける。ついでに、武彦に頼みを聞いてもらおうと頭を下げる男にも茶かコーヒーをと立ち上がれば、見越したかのように兄から、いらない、やるなとの命令が下った。
(大体なんなんだ。 探偵に画家の絵を無事に持ち帰れだって? ハードボイルドが泣くな)
 後半の考えは完全に私情だが、出されたコーヒーをずずり、と啜るように飲みながら依頼書を開く。今、武彦の後ろ、大声で依頼を受けさせようとしている若い男が持ってきたメモ帳サイズの書とも言えない紙切れ。

「お願いですよ! 新鋭の画家の最新作! 是非持って来てもらいたいんですよぅ!」

 情けない声が木霊す中、武彦はその依頼を指先でチリチリ弄んだ後、零に渡す。
 全くもって、何故広まるか怪奇探偵の名、今回の依頼も結局そのクチで最近画壇に現れた島崎・悟(しまさき・さとる)という画家が住む東京郊外の森まで新作絵画のおつかい。と、思いきや結局の所何かが出るだのなんだの、そういう事が絡んで草間興信所にこの画廊経営者の男はやってきたらしい。
「残念だったな、俺は探偵だ。 何処で聞いたかわからんが怪奇はつかん、探偵。 そう、た・ん・て・いなんだ。 悪いな」
 大人気無く探偵という言葉を異様に強調し鼻を鳴らす。
「大体、お前さんもお前さんだろう。 こんな安い給料じゃ不倫調査も出来ん」
 画廊経営者といえど、まだまだ依頼内容の画家と同じで新鋭とやらなのか、随分少ない金しか持ってきておらず、どう見てもこれは画家や画廊関係者やそれに興味のありそうな者でなければ受けたくない程無料奉仕に近い依頼だ。

「すみません、兄さん最近あまりにもお仕事が少なくて…やっと来たお仕事があまり…その苦手なお仕事だったので苛立っているのだと思います…」
 ボロになったソファーの上、うな垂れたスーツ服を何度も握り締め、皺くちゃにしながら画廊経営者は零の言葉に唸っている。
「えっと、もう少しお時間を頂ければ兄さんもきっと依頼書を見てくれると思うので簡単にご説明だけして頂けませんか?」
 兄の武彦は最近来ない仕事に重なって、ようやく舞い込んだ仕事が自分でも嫌っている怪奇探偵の文字で集まった物だと知り、かなりイライラしている状態。だが、零にとって仕事は仕事、兄の為に少しでもという気持ちで男に話しかけると、まるで零の華奢な体に飛びつくようにして依頼内容を語り始めた。

「まず、私や私が持ってきたお金の額でわかる通り、自分でも悲しいくらいの貧乏画廊の経営者です」
 くしゃくしゃになった頭をまた掻きながら、男は自分の身なりを卑下するように話す、
「この依頼も私と同じ、貧乏画家の絵画をこちらに届けて欲しいというごく簡単な物なのですが―――」

 鼻息荒く話し続ける男の話は長かったが、要約するとこうである。
 駆け出しの画廊経営者がたまたま路地で目にした画家、それが今回持ってきて欲しいと依頼している絵画を描いている島崎悟だそうだが、その画家、繊細で淡いタッチを主にした新鋭の画家でこの数ヶ月本当に数枚を画壇に売り東京郊外の森でひっそりと生活しているらしい。
 この依頼人もその島崎の絵を言伝や、以前島崎の絵を買った人間からの口添えで絵画の買い付けを申し込めたのは良いが、取引先はなんと山奥。しかも、この画家の絵画を取りに行った画廊の人間数名が黒い獣に襲われているのだ。

「じゃあ、その獣さんを退治して画家さんの絵画取引をしてくればいいんですね?」
「あ、えっと…。 獣の方は噂で…」
「? 噂?」
 信憑性の無い事を話されたものだ。その黒い獣、ただ黒い獣と言われているだけで本当に襲われた者が居ないわけでもないが、逆に襲われず帰ってきた者や出会っても襲われずただ睨み合いのようなモノが続いただけで結局は何事も、という半端なケースが随分と多く、しかも特徴すら名前通りにしか伝わっていないらしい。

(はぁ、どうしたものでしょう…)
 武彦はやる気無し、ある程度の事は聞いて画廊経営者には帰ってもらったが、結局受けるにしてもどうすれば良いのか。先程まで男の居たソファーの横に立ったまま、ヤニで汚れた天井を見る。

「兄さん、本当にこの依頼受けないんですかー?」
 妹の困り果てた声が静まった興信所の椅子で惰眠を貪っている武彦の煙草の紫煙を揺らせるのだった。


■ 草間興信所


 いつもの汚い戸を開ければ、妹のように可愛がっている零と恋人の武彦の惰眠を貪る様子が真っ先に目に入ってきた。
 いや、汚いとは言われたものだが武彦の元に通える時はいつも掃除をし、清潔を保てるようにと種族は違えど同じ女として零という協力者と共にシュライン・エマはこの興信所を清潔にしているのだが、いつもながら男のある意味一人暮らしである武彦には努力も虚しくタダ働き、徒労に終わってしまう。

「あ、シュラインさんおはよう御座います」
 今日始めて目にした時は困り顔で武彦を見ていた零だったが新しい風と共に興信所に入ってきたシュラインにどこか苦笑のこもった笑みを見せる。
 これは矢張り何かあったのか、零の大きな瞳に挨拶と一応眠ったまま起こさないようにと小声で挨拶を交わし、
「武彦さん、もう…また仕事断ったの?」
 聞くまでも無く、最近の武彦は来る仕事来る仕事を蹴っている。零が今頷かなくとも理解は出来たがこれにはシュラインも苦笑するしかない。
「はい、やっぱり怪奇系の依頼で…兄さん拗ねちゃったんです」
 子供じゃあるまいしまさか、という言葉をいつも本当にしてきた男、それが草間武彦。
 ここ数日、シュラインがこの興信所を訪ねても、増えていくのは家賃滞納の催促と、怪奇探偵という言葉を聞きつけやってきた依頼。その依頼の数々を嫌う怪奇嫌いの探偵、武彦の依頼破棄の山。
 金は貯まらぬが埃と家賃は貯まる、それが草間興信所の現状だ。

「全く、武彦さんは…。 で? 今回の依頼は何だったの?」
 流石にこれ以上家賃、そして生活費を脅かすのは武彦の為にしても良くはなく、零にとっては可哀想の一言が非常に似合う結果となるだろう。
「えっと、これが依頼書で…。 お金は、あんまり…無い方でしたけれど…」
 言い難そうに零は肩を引き、シュラインの細い指に依頼書を置くようにして乗せた。
 元々小さな依頼書は四つ折りにしてありくしゃくしゃで、あまり肌に持っていて嬉しい物ではなかったが広げればなんとか読める程度の文字が異常に狭苦しく書いてある。
(これを書いた依頼人さん、せせこましそうな性格ね)
 字は人柄を表す事が多く、この依頼書はその典型のような文字の小ささに段落もまともにわかれていない読み辛さで、これは受ける気で見ても文面を見ただけで却下してしまいそうだと心の中で苦笑した。

「この際金額は二の次よ。 確かにもっと欲しい依頼ではあるけどね、とにかく動かなきゃ興信所が危ないもの」
 依頼書には山の位置や、その島崎悟の住居の位置、黒い獣の噂と依頼人自信の連絡先が細々と書かれていてあまりにも大雑把過ぎると一時は頭を悩ませたが今の武彦に無理強いも禁物。
(ここは貸しって事で、武彦さんの代わりに私が頑張りましょ)
 惚れた弱み、などとはあまり言いたくないが興信所は半分シュラインの住居のような物でもあるのだ、ここで潰れましたなどと言わせたくはない。
「とりあえず依頼人に直接会ってみたいわ。 ちょっと電話借りるわね」
 いつも使っている黒電話。だが一応武彦の物であると頭で認識しているのか、寝ている男の耳にこっそり言ってあまり良い音を鳴らさない年代物に依頼人の連絡先を入力する。

「もしもし? 草間興信所の者ですが…はい―――」
 あまり乗り気で話を聞かなかったようだから、依頼人も諦めてアポイントは取れない可能性も考えられたがどうやらそれは間違いだったらしい。
 ここは流石怪奇探偵の名と言おうか、武彦は嬉しがらないだろうが興信所の者と名乗り、出してもらった電話先の男はまるで電話を待っていたかのように意気揚々と、そして少し焦ったような口調で捲くし立てた。
「よかった、よかった! ええと、ええと!」
 何度も口を躓かせ、シュラインがなんとか直接話せる状態に持っていけば意外に簡単に会うことが出来るらしく、
(ちょっと厄介だけど、会いやすくて良かったわ)
 受話器を置いて一息つき、早速適当な荷物を選別すると赤く小さなバックに入れる。とは言ってもまだ交渉段階、そんな大層な物は入れなかったが。

「零ちゃん、武彦さんの事宜しく頼むわね。 私はちょっと用事が出来ちゃったから」

 困ったように微笑んで、足早にもと来た戸を開け放つ、いつもならば零や武彦とコーヒーを飲み次の依頼へ取り組みたい所だが今回ばかりはシュライン一人の依頼になりそうだ。
(まぁ、武彦さんらしくていいわね)
 零の見送りと共に送り出されながら、シュラインはほくそ笑む。なんだかんだ言って怪奇の名を捨てられない、そんな手のかかる武彦もこうして世話も焼けるし良い物だ。

 時々、もう少し協力的になってくれても良いと、そう思ったのは興信所の仲間には秘密であったが。


■ 田島 栄一


 (それにしても、駆け出しの画廊経営者に新鋭の画家…結構勇気の居る選択よね)
 依頼人の画廊経営者、田島栄一(たしま・えいいち)によると彼の画廊も都心から少し離れた場所でひっそりと経営されているらしい。
 今、シュラインはその画廊内で依頼人、田島を待つ最中である。
 来る道は決して褒められたほど美しくもなく、どちらかと言うと興信所へ行く錆びた埃のような道を思い出すが画廊に入れば別世界、黙っていても目に入ってくる美しい絵画の数々と、こうやって待たされる人間にも気を遣った座り心地の良い茶色の皮椅子すらどこかのデザイナーの品だろう、少し待たされるくらいでは疲れの出ない、暖かな心地よさだ。

 そんな中でも目立つのは美術品の間が時折欠けている事か、画廊に入ってすぐ目にとまりそうな所には絵画があるというのに、少しそこから視線を逸らせば時折不自然な壁だけの展示場が目に入る。
(経営が大変なのにまだ芽が出始めた画家、苦労するでしょうね…)
 目の前のテーブルは硝子で出来た彫刻品のような物で、側にある象徴的な絵画に合わせてあるのだろう。掘り込みも随分と奇抜で、その表面を覗けばシュラインの整った顔すら少しだけ歪んで見えた。

「ああ、すみません! 丁度経営について他の画廊の人達に色々顔を利かせて頂いていたもので…」
 勢い良く出てきたのは小柄で皺のよったスーツの男。声からして電話に出た画廊経営者のものであり、
「いえ、始めまして、シュライン・エマです。 この度、興信所、草間武彦の代わりに依頼調査に参りました」
 こういう先は色々礼儀も大変なもので、背の低い田島もシュラインの挨拶を早々に自らも名刺を差し出しながら小さな背を折りたたまんばかりに目の前の女性に挨拶をする。
 画家の絵の買い付けもこのなんとも言えない断り辛い腰の低さと、せせこましく動くも何処か憎めない愛嬌のある丸顔や癖毛、それに嘘偽りを言いそうにない言葉でなんとか出来た賜物だったのだろう。
 何時、と約束はあったもののそのギリギリまでこの画廊をなんとかしようと他の経営者と対談していたらしい姿が目に浮かび怒る気も失せる。それに、他の経営者が居ると言うのなら逆に情報収集の良い機会でもあるのだ。

「早速で申し訳ないのですが、そうですね…まずはこの画家、島崎悟氏の絵画をどうして買い取る気になったかお聞かせ願えませんか? 妙な噂を押してまで手に入れたいという程の絵を描かれるなら調査、出来れば買取まで引き受ける此方も動くに動けません」
 シュライン自信の興味も確かにある。画廊の状態から察するに本来興信所のような経営の難しい状態にある場所なのだろう。それは先程見た展示場に飾られる筈の物も無く、虚しい電気を壁に照らす様子でわかる。
 普通、経営に困るのならばまだ売れるかも微妙な、しかも曰くありげという画家よりも、しっかりと名の通った画家のものを値は張るが買い取った方が良いのだから。
 道楽の類でないのなら矢張りそれ相応の意味を聞かねば仕事とてシュラインも納得できない。
「そう、ですね。 はい、ご尤もです…」
 興信所では少し焦りすぎたと田島自身も反省したのだろう。シュラインと迎え合わせるようにして椅子に腰掛けると癖のある髪を手で鷲掴みながら考え込むような仕草の後、顔を上げた。

「そもそも島崎悟と私は一度出会っていましてね。 まぁ、これは彼が画壇で売れ出す前の話で、まだまだ島崎君の方もその路地で似顔絵描き…なんて小さな仕事ばかりをやっていました―――」

 当時の田島はまだ画廊経営者ではなく、その下で働く下っ端で島崎と出会ったのも絵画の引取りに出た先だったという。
 路地であまり美しいとは言えない人々の似顔絵を描く島崎に田島は最初ほんの好奇心でその様子を眺めていたらしいが、たまたま島崎に似顔絵を頼んでいた女性が出来上がりを見るなり怒り出したらしい。
 スケッチブックをぐしゃぐしゃにして島崎に投げつける女性を見物していた田島がなんとかなだめつけ、二人は出会った。

「似顔絵書きは時折お客様のお怒りも買ってしまう商売柄で…」
 苦笑しながら話す田島にシュラインは口を挟みはしなかったが、それでも聞いていて良い話では無く、自然と口元が引き締まる。
(…同じ女として嫌な客ね)
 過去の事をどう考えても仕方ないが、丹精こめて描いた物を破り捨てるとはどういう了見か。

 そして出会った二人は同じ下っ端同士、意気投合したらしくお互いの夢が実現したのならば、
「私があいつの絵を買って、二人の展示場を開こうと、そう思ってこの画廊は穴だらけなんです」
 つまり、ふとした瞬間に目に入るのが全て友人の画家の物であれば良いと思った田島なりの考えなのだ。
「…ちょっと待ってください。 それじゃ、買取に言伝や顔を利かせるなんて事は必要ないんじゃ…?」
「ええ、確かに本来は。 ですが、売れない頃の島崎君と別れて、消息も分からなくなってから売れ出した絵画…まぁ島崎君の作だったわけですが、どうにもあいつの居場所もわからなくて」
 それで買取をした他の経営者の顔や言伝が必要だったのだと言う。シュラインに話す田島は間髪いれずに言葉を返し、友の居場所すら把握できなかった自分を自嘲した。
「だから取引というのもそんなに肩を張らずに、私が書いた手紙を届けてくれるだけで良いんですよ」

 画廊に飾る絵画とは全く違う、白い飾り気の無い封筒には思い出の詰まった話でも書いてあるのだろう。なかなかにして厚い。
「取引の事、了解しました。 では行き返りの手段と、あとその森の所有者についてもお伺いします。 森の所有者の権限無しにその土地に入るわけにもいきませんから」
「いえ、その心配も要りません。 何せその森の所有者は島崎自身の物ですから」
 森の位置も島崎の住居も依頼書に書いてあった。が、まさか依頼書通りの森を所有するには随分と金がかかった筈。
「島崎の絵を買い取った経営者から聞いた話ですが、祖父の形見らしいです。 昔も貧乏だったというのに、贅沢もせず守り抜いた土地なのでしょう。 ああ、ただ…、多少お辛いかもしれませんが徒歩の行き来となってしまいます。 …その、本当は車でも用意できれば良かったのですが…」
 徒歩という言葉は確かに辛いが、島崎の土地の情報に関して田島の言葉に疑いの色はなく。
(徒歩は流石に辛いわね…とりあえず交通手段が確保できれば良いのだけど)
 だが、心で思っていても心底申し訳無さそうに頭をテーブルにつけている田島を責められる筈も無く、
「いえ、行き来はこちらでなんとかします。 本日はお忙しい中貴重な情報を有り難う御座います」
 シュラインは静かに礼をすると席を立つ。本来なら相手ともう少し話てから折り合いをつけて、という方が良いのだろうが、如何せん交通手段を何とかしなければならなく時間も無い。

(他の画壇関係者には軽く聞くくらいしか無さそうね…とりあえず島崎さんの絵画テーマ、あとは黒い獣の発生条件も考えて行動しないと…)
 特に決まった期限と言うのはないようだったが、森の中への交通手段を探す方がよっぽど手間になりそうで、こんな事にタクシーを使えば赤字の赤字、大赤字になってしまう。

(それにしても、余程信頼しているようね…)
 夢を誓い合った者同士の言葉に微笑みを覚えながら、先ほど田島が来た方向から来る画壇関係者に軽く礼をし、話を持ちかける。
 兎に角、森に行く手段を探す前に少しでも情報を集めて行ければと、シュラインはバックから手帳と使い慣れた万年筆を取り出し聞き込みを開始するのだった。


■ 車内で…


 結局、田島の画廊で得られた情報はそれなりにあるものの、森の中まさか女一人で森の中を徒歩で歩くわけにも行かず、交通手段の考えは自分があっさりなんとかする、といったもののそう簡単には見つかってくれないらしい。
「当たり前よねぇ…、あの時は情に流されちゃったけど、山中に車を飛ばしてくれるタクシーなんて居ないし、足になりそうなツテもないわ…」
 矢張り徒歩しか無いのか、だが万が一黒い獣の噂もある。
 だからと言って出かけ用とカーディガンに白いスラックスなど、お洒落な物ばかり着ているシュラインはただでさえ足場の悪そうな森の中を歩くには適さず、だからといって引き返すのも時間的にあまり得策ではない。
 つまり、堂々巡りなわけで。
「ああもう、何かあったら武彦さんのせいよ!」
 半ばヤケも入っているだろう、仕事中心に活動してきたシュラインだがどうにも情にもろく、田島の言葉を聞いて彼を責める気にはなれなかったのだ。

「シュラインさん? ああ、やはり。 後姿でわかりましたよ」
 あまり見慣れない車がシュラインの横にとまり、逆に聞き慣れた親しい友人の声が彼女の耳に入る。
「セレスティさん…。 貴方どうして…」
 東京郊外、しかも森の近くに財閥の総帥が行く場所などあるというのか、願ってもいない登場だったが少し考えてみると多分。
「島崎さんの絵画目当てかしら?」
「どうでしょう? まぁ、とりあえず車の中でお話しながら目的地に向かう…というのはどうですか?」
 シュラインの予想は当たったらしい。こんな郊外に居る財閥総帥といえば何かそれ相応の興味をそそる物に違いない。そして、それは絵画という形でこの森にあるというのが頭の中に浮かんだのだ。


 画家、島崎悟の住居に向かう道。セレスティの車の中でシュラインは先程から腕を組み、窓の外を見ながら考え込んだ様子で居る。お互いの情報交換もしているというのにどうした事か、気になるのは外の景色らしい。

「どうしたんですか?」
「え、ええ…。 さっきから随分と危ない道を通っているけどこの車、もしかして道のせいで相当痛んでるんじゃ…」
 そんな事か、とセレスティは苦笑して肩を揺らす。シュラインもこの財閥総帥がそこまで気にするような男とも思えなかったのだが矢張り、いつも壊れかけたような草間興信所での生活に慣れてしまったからなのだろうか、出会った時は傷一つ無かったこの車体が一歩外に出れば無残な姿になっていると思うと多少気が引ける。
「まぁ、絵画と比べれば大した出費ではないですよ。 それより話の続きを…」
 趣味や興味でここまで浪費を気にしないという男も珍しいだろう、たとえ一般女性と比べ一般男性の方が趣味に出す出費率が高いとしても、だ。
「相変わらずね。 ええ、いいわ、お互いが集めた情報の相違点を纏めましょ」

 絵画の行方はとりあえず置き、島崎という人物を調べる者同士としての利害一致を優先する。
 なにしろ手がかりが少ないこの画家の事、情報網の違う二人が調べれば多少新たな事実が浮かんでくるという期待もあるのだ。
 事実、シュラインとセレスティの情報はほぼ同じながらも多少のズレが生じていて、一つセレスティが調べた島崎の絵画テーマは世に出た全て、翠色の瞳をした女性である事。これはシュラインも女性の絵画ばかりとはあの後の聞き込みで聞いてはいたが、セレスティのように詳細に至るまではなく、
「恋人…かしらね? そんなに枚数を描くなんて…」
 島崎本人からでなければそれ以上わからないが、田島という依頼人が言っていた島崎の像は何かを一途に描きつづける人間だ、ある程度当たっていると思っていいだろう。
 そして、シュラインの調べた情報によると、草間興信所に依頼を持ちかけた画廊経営者は島崎とは旧知の仲だという事、そして獣についての新しい情報。
「不思議な事だけれど黒い獣に襲われた人の詳細が聞けたわ―――」
 短い時間で確定とまではいかなかったが、シュラインの聞き込みは的を得ていて、なんとか襲われる人間のタイプやシチュエーションという物が掴めてきたらしい。

 襲われた、という者は皆一様に絵画を運ぶ途中でアクシデントにあい、絵画自体を破損してしまった人間、襲われずにただ見ただけだという人間は同じくアクシデントにはあったが絵画の破損はなかったとの事。
「つまりは、獣は絵画を守ろうとしているのでしょうか?」
「ええ、多分。 それに破損をした人も結局助かっているみたいだし、破損前に助けようとして襲うように見えてしまった…という可能性もあるわ」
 あくまで可能性だけであるが、確かに世に出た回数が少ないにも関わらず黒い獣の噂が流れるという事はその取引した人間が生きて帰ってきているという証拠である。
「それならば画家自身が獣に化けて絵画を守っている、という推測もできますね」
 まるで確かめるようにして言うセレスティの言葉に一瞬青い瞳を丸くするも、シュラインは少し考えて頷く。
 そう、二人とも真に画家自身が化けているようには思えないのだ。特に、セレスティの情報にあった絵のモデル、翠の瞳の少女が何故か心の中をかき回す。

「それにしても、興信所の依頼人さんが島崎さんと旧知の仲だったとは…」
 これは流石に交渉も決裂になってしまうだろうか、とセレスティは少し残念な思いを感じながら杖に両手を置く。だが、名作と言われる芸術品という物は作者のなんらかの思いがこめられているものだ。
「やっぱり狙ってたのね? 私も、情報を聞いてどんな素敵な絵を描いているか、直で見せてもらいたくなったわ」
 取引する手立てを予めシュラインが持っていたお陰で絵画自体にはすぐ会えそうではあるが、車の大きな揺れによりまた身体を揺らせながらも翠の瞳の絵画を所望する画壇の人間の気持ちがよくわかるセレスティだった。


■ 仁美


 島崎邸、いや邸という程でもないだろう。まるで昔の民家のように木材で出来た小屋のような場所に水車が回る。地震が来ればそれこそ一番に潰れるか近隣の山から岩でも落ちて潰れそうな場所に新鋭の画家と呼ばれる人間は住んでいた。
「小型車でもここまで傷がついていたとは。 矢張りいつもの車で来なくて正解でしたね」
 一際大きく揺れる岩が島崎の家の近くにあったらしい、着く途中で大きく揺れ、流石にこれは事故を起こすのではと冷や汗をかいたのだ。そこで出来たであろう大きな傷も含め相当な痛み具合。帰りも大丈夫だろうが屋敷についたなら廃車は免れないだろう。
「全く、こんな所に住んでいる理由が知りたいものね、行きましょう」
 人が歩けば常人で一日、早ければもう少し短縮できるだろうがセレスティが通らなければこんな所を歩かされる羽目になったのかとシュラインは肩を落とす。と、

「あの、お客様…ですか?」
 細く、何処か怯えたような震えを伴う小さな声が二人の後ろからかかる。
「あっ、ええ。 私は田島さんの使いで……? 貴女もしかして…」
「はい?」
 ここに居るという事は十中八九、島崎の関係者だと思うがシュラインは自己紹介にと手を差し伸べ、目の前にいる少女の翠の瞳に手を止めた。
「島崎さんのモデルを務めていらっしゃる方でしょうか? 翠の瞳に黒い髪…絵に随分と一致していますね」
 セレスティが少女の顔を見ると確かに、写真にあった絵画のモデルと同じようで、違うといえば鼻のあたり、絵画の方は確かすこしぼけて見えた気がする。

「あっ…モデル…かどうかは分かりかねますが。 でも田島さんの事は悟さんから聞いております。 私は仁美(ひとみ)島崎の所に…居座らせて頂いております」
 最後の口調が少し上ずり気味で、シュラインもセレスティも確実にこの少女が島崎の恋人、或いはそれに近い関係だと思い、画家が一人ばかりを描く気がなんとなくわかったような気がしてきた。
「申し送れました、私はシュライン・エマ」
「先に名乗られてしまいましたね、私はセレスティ・カーニンガムです」
 田島からそれ程気張らなくいいいと言われてい、それをセレスティにも伝えたが矢張りここは名乗っておくべきだろう。
 少女は細く小さな手で二人と軽い握手をするとシンプルな白いワンピースをなびかせながら島崎の家へと踵を返し、
「それでは早速悟さんを呼んできますので、お二方は家の中でごゆっくりして行って下さい」
 見た目も少女だが仕草も少女らしく鈴の鳴るような足音で二人を屋内に案内するとそれ程広くも無い奥の間に駆けて行った。


■ 島崎 悟


「田島からの言伝は色々な方々から聞いております。 シュラインさん、セレスティさん、わざわざこんな所まで来て頂いて何もおもてなしが出来なくて申し訳御座いません」
 島崎悟という男は優しく気の弱そうないつも目の笑っている、そんな男だった。
 絵画を描く人間とは思えない作務衣を着、シュラインが田島から預かってきたという封筒を見るなり嬉しそうにまた奥へこもったと思えば、飛び出すようにして一枚の絵画を持ってくる。

「矢張り女性…仁美さんの肖像画ですか?」
 田島の手紙にこれ程嬉しそうにしている島崎にまさか交渉は無理だろうと断念したセレスティだが、この画家の作成意欲やモチーフについての思い入れは矢張り聞いてみたいものであり、
「ああ、仁美は何か言ってませんでしたか?」
「いいえ、まさか自分がモデルになっているとは思えないというお話でした」
 仁美という女性にそれだけ思い入れがあるのか、そこまでは分からなかったがどうやらその女性をモチーフにした事だけは確からしい。しきりに赤くなり鉢巻をした頭を撫でている。

「皆さん、お茶をお淹れ致しましたのでどうぞ…」
 お構いなく、とありきたりの言葉を返す暇も無く、仁美は人数分の茶を入れるとまたゆっくりして行って下さい、と微笑みながら外へ出た。

「セレスティさんの仰る通り、絵画のモデルは全て仁美です」
 茶を飲むでもなく、手に取ったまま恥ずかしげに俯く島崎は照れくさげに話を続ける。
「僕がまだ路地で似顔絵をやっていた頃知り合った女性で、もう何年かの付き合いになりますが…。 田島と出会って画家という夢に進んで数年、貧乏に貧乏が重なって目を患いましてね、この森は名目上僕の物ですが元々祖父が祖母の実家を守る為に買い占めた土地なんです」
 だからこの森は売れないのだと、島崎は語った。
「でもそれじゃ、今は目が見えない事になるのでは? さっきこの家を歩き回っていた貴方からは想像できません」
 セレスティの話はもっともで、彼自身足の不自由を抱えているハンデが言わせる物だろう、島崎も少し頷き。
「ええ、この家の中だけは歩数で把握しているんです」
「つまり、家から出てしまうとまともに歩けないって事でしょうか?」
 そうです、と笑いながら話す島崎は目の患いに何の引け目も感じていないようであり、
「寧ろこの目のお陰で彼女が助けてくれて、そして目の治療費が出ない中最後に見た物。 それが仁美の翠だったんです」

 シュラインは、今はまだ絵画を保護する為の布に包まれている絵画を見た。
 大きさは自分から見て右手の中指の先から肘までの少し小ぶりの物であったが、美術品に五月蝿いセレスティも欲した物、きっと中は本物の仁美の翠が描かれているのだろう。

「顔は恥ずかしながら、彼女の輪郭を私が手で触ってなんとか…あとはまだ少しだけ見える時の記憶です」
「だから、輪郭以外は妙にぼけた感じになっているのですね」
 セレスティの問いに島崎は頷く。曖昧な記憶の中で必死に書き写しても全てを再現仕切れなかったのだろう。でも、だからこそ未完成と完成の狭間を行き来するこの作品が評価されたのかもしれない。
「では、森に入ったのも島崎さんの目の為…? それとも作品を描く為に必要な環境だったのでしょうか?」
 久しぶりに興味の惹かれる画家に会えてセレスティは饒舌に質問をしていく。
 それを島崎もわかっているのか、いないのか、作品紹介のインタビューのようだと嬉しげに口元を緩め、
「確かに、目の事もあります。 都会の中ではあまり神経を研ぎ澄ませて歩数で歩くなんて事はできませんから。 あ、でも仁美がここに来たいと言ってくれたから、が本当の理由なんですけどね」
「仁美さんが?」
 今度はシュラインが声を上げる。
 同じ女ならばお洒落な店や愛らしい喫茶店などのある都会の方がずっと良いだろうに。

「はい、仁美にこの森を話して、勧められてここに住みました。 祖母の実家は空き屋になっていましたし、何より苦労をかける事はわかっていても、彼女の心遣いが嬉しかったので…」

 ここまで来れば完全な惚気にも聞こえる。
(惚れた弱み…って奴ね)
 島崎が言うに祖母の家はここなのだろう。二人して仲良くやっているのだからこの森を守ってきた祖父というのも案外草葉の陰で喜んでいるのかもしれない。

「…っと、くだらない話ばかりお聞かせしてしまいました。 今日はどうされます? 狭くて窮屈ですがお泊りなられた方がいいかと…」
「いえ、車を待たせてあるので、私達はこれで失礼を…。 未来の巨匠の惚気話、楽しかったですよ」
 セレスティの車にはもう一人、運転手が待っている。彼を待たせたまま泊まるなどと安易な返答もできなければ、シュラインの方も依頼人に絵画を渡す役目がまだ残っているのだ。
「はは、言われてしまいました。 僕の方こそ、有り難う御座います」

 戸口までしか見送れないと、島崎は二人に丁寧に礼をしてから本当に家の戸口にぴったり足をつけるようにして車へと歩く客人を見送り、そして見えなくなったと共にまた奥へと引いていく。

「この様子では黒い獣は出そうにありませんね」
 帰りは車、それにシュラインが持っている絵画は小ぶりで揺れがあってもなんとか守りきれるだろう。
「下手に会っても困るでしょ、これで良かったのよ」
 少し残念そうに微笑むセレスティに言い返しながらシュラインは車に足をかけた。が、小さな物音に身体がもしやと反応する。

「あ、あの! セレスティさん!」
「仁美、さん?」
 てっきり黒い獣かと思っていたが、物音は小走りに近づいてくる少女のもので、シュラインにも深く礼をするとセレスティに古い四つ折りの紙を手渡した。
「悟さんが売れ出す少し前に私を描いてくださった物です。 今の絵画がどのような物か私にはわかりませんが、あの人の絵画を気に入ってくださった方に何も手渡す物が無いなんて…」
 一気に捲くし立て、これに価値があるかはわからないけれど、と仁美は下がる。
「じゃあ仁美さん、もしかして貴女は今の悟さんの絵画を見たことが…」
「ありません。 悟さんの制作の邪魔はしたくありませんから、寝る時とご飯の時以外はこの森の中で過ごしています」
 どちらともない問いに、仁美は嬉しいのか、悲しいのか判断の出来ない細く美しい月のような目で二人を見た。
「えっと、私の御用はそれだけです…もしまた悟さんの絵画を見る機会があれば、あんな画家も居たのだとそう思ってくださると嬉しいです」
 自らが森ばかりで暮らすというのをきっと本人も違和感と、切なさを感じている筈で、シュラインとセレスティの目線に困ったのだろう、仁美は数歩後ろに下がり追ってこないと思ったのか、そのまま二人に背を向けて走り、夕暮れの森に消えて行った。


■ 獣


 結局の所、黒い獣の正体、そしてそれらしきものが見えずに帰路に着く、心にひっかかった物が取れはしなかったが、島崎というあの目の悪い人間が獣になれば森を歩けるという予測もできず、酷く何かが欠落したような気分になるが。

「仁美さん、尽す女って感じだったわね」
 帰り道の車内、シュラインは考え深げにため息を吐く、その横には島崎の描いた絵画がまるで森の中に隠れる仁美のように静かに状態を保てるようにと覆ってある布の下から覗いていて。
「おや、シュラインさんからそんな言葉が出るとは思いもしませんでした」
「あら、それってどういう意味?」
 小さな振動と共に森を抜ける車内にセレスティの愉快気な声が響き、シュラインは冗談半分、思い当たる節半分というなんとも言いがたい言葉を隣の男にかけ、睨みつける。
「そんなに怖い顔しないでください。 こう見えても羨ましくて言っているのですから」
 そんな事微塵も思っていなさそうな顔で言われても信憑性という物が無い。
 なにせセレスティの事だ、保存状態の悪さは仕方が無いが、所望していた画家の、しかも世に一枚しか無い物を手に入れたのだから機嫌が良くて出た言葉、という可能性もある。
「全く、調子狂っちゃうわ。 さっさと仕事終わらせて、武彦さんと零ちゃんとでご飯でも食べましょうか」
 そういう所が女らしい事をシュラインは知らないのだろう。日が暮れつつある森で飛ばしても依頼をこなし、興信所につくのは真夜中に近い。
(それまで待っているあの人もあの人ですね)
 草間興信所にいる人間にどれだけ自覚があるかはわからないが、シュラインが武彦の所に顔を出すその日は必ず、いつも何かにして無関心の武彦も、その妹の零も彼女をまっているのだから。

 流れた静かで暖かい空気を切り裂くのは無粋だが、車内の無線から運転手の悲鳴に近い声が突如二人に降りかかる。
「セレスティ様! 視界が!」
「どうしたんです? 視界…くっ!?」
 そういえば、行きの道にもあった大きな揺れが車内を駆け抜けシュラインも大きく出そうなった声を手でなんとか押さえ、恐怖に耐えるしかない回転。
 行きの道で随分と傷のついた車のライトは段々と破損し、最後には見えなくなった結果がこの転倒だ。まるで映画のラストシーンのような、目に入る物すべてがスローで動く視界。そして絵画も。
(しまった…!)
 シュラインは自らの身体で絵画を固定し、破損しないようにと心掛けていたというのに転倒の際、華奢な身体が浮き、そして隙間を作り車内を今にも舞おうとする。

「シュラインさん絵を!」

「わかってるわ!!」
 全てがコマ送りと化した世界、縦長になりつつある車内の空間に飛び出てきた絵画にシュラインの腕が伸び、そしてようやくその端を掴んだ時。
「セレスティ様、シュライン様、掴まっていて下さい!」
 一瞬もう一度大きな衝撃がセレスティの座る座席側から加わり、運転手の機転によって大きく軌道修正するように車内の空間が一気に元に戻っていく。
 絵画の方はまるでシュラインに惹きつけられるかのようにしてその胸に収まり事無きを得たが、問題は第二の衝撃の方だった。

「車、止めてもらう?」
 ぽつり、とシュラインがそう零すように言う。
 一瞬の衝撃と視界の悪さの為、その姿形はあまりはっきりとは分からなかったが、一つ間違えれば事故を起こしていた車の軌道を変えるに至った第二の衝撃。それは、はっきりとした『生き物』のような感触で、
「話しては、みたいですね…もう一度」
 シュラインもセレスティも、その生き物とほんの一時、目で会話していたような気がする。だが、それはあくまでも一瞬、あれが黒い獣だったとして、そして二人が思う獣の正体だったとして、推測だけに留まるしかなく、走り行く車内で張り詰めた空気と共に酷く傷ついた高級車は森を抜けたのだった。


■ 推測


 そう、これは推測の話である。

 セレスティのお陰で依頼人に絵画を渡し、成功報酬は確かに手に入った。
 額は微々たるもので、これだけはどうにもならない結果だったが、食料費にはなるだろうし、何より早く興信所に帰りたい気分で、
「遅くなっちゃったわね…、武彦さんもう寝ちゃってるかしら…」
 一緒に夕ご飯を、と考えていたのだがその時点である程度時間が過ぎていたのだからもう寝ていてもおかしくはないと暗くなった興信所の鉄階段を上りながらため息をつく。

「あっ…起きてる?」
 上った先の扉の錆がしっかりと見える程に興信所の戸からは煌々とした明りが灯っており、シュラインは長い黒髪をかき上げると嬉しさのこみ上げてくる中何事も無かったかのように取っ手に手を伸ばす。

『悟さんの邪魔になりたくないから』

 一瞬、何か心に感じるものがあった。
 ドアノブに伸びかかった手を数回回し損ねて、果たして怪奇現象の解決の手助けをする自分は、この中に入って良い人間なのかと自問自答し、恋人の怪奇現象を嫌うその様を思い浮かべた。
(今更、よね…?)
 今まで側に居たのが当たり前すぎて、今回会った島崎達のような、触れるに触れられない関係というのを忘れてしまってのだろうか、心に残ったしこりはシュラインの気を落とさせるばかりで興信所のドアをくぐれず背を向ける。

「シュライン。 さっさと入ってくれ、風邪ひくぞ」
「武彦さん」
 急にドアが開いたと思えば朝方惰眠を貪っていた武彦が、シュラインの塞いだ顔を覗きこむようにして待っていた。ついでに飯も食いたいと、いつものように自分勝手な一言を言いながら。
「もう、私を見て思い出すのはご飯しかないの!?」
 心に引っかかっていた憑き物が取れたようにシュラインは武彦に手持ちのバッグを投げるとすぐに興信所のドアをくぐる。
「零ちゃんもただいま! 今ご飯作るから待っててね」
 中に入れば何という事もない、いつもの興信所。
 零がシュラインの帰りを待ち、そしてぶっきらぼうな態度しか取らない兄を叱りつけている。尤も、そのお叱りの言葉はあまり意味を成さないわけだが。

「その…、いつも世話になるな…」

 ふと、武彦の声で幻聴が聞こえたような気がする。
 そんな事を言う人ではないと、シュラインはすぐさま台所で準備を始めたが、武彦が彼女の後ろに居たのは事実。そして、そのまた後ろに零が微笑んで居たのも事実。

 そう、これは推測の話だが。
 仁美という少女の翠色は黒い獣の瞳であったのではないだろうか。
 どこからどうやってその推測に至るかはわからないが、シュラインがあの転落のさなか見たものは紛れも無い、透き通るような翠。
 島崎を想うあまり、なんらかの理由で自分の正体を隠して生きなければならなかったあの少女は森の話を使いあの場所に留まったのではないだろうか。
 邪魔をしたくないという理由で相手にまで気取られぬ様注意し、想い続ける。

 いや、これは、本当に推測の話なのだが―――。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男性 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】


【NPC / 島崎・悟(しまさき・さとる) / 男性 / 画家】
【NPC / 田島・栄一(たしま・えいいち) / 男性 / 画廊経営者(草間興信所依頼人)】
【NPC / 仁美(ひとみ) / 女性 /  ?】

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■         ライター通信          ■
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シュライン・エマ 様

お久しぶりです。ご発注有り難う御座いました!
未だに新米マークを手放したくないライター唄で御座います。
相変わらずの贈呈だらけ、そして地味な情報収集と地味な話、気に入っていただければ幸いですが…。
今回もシュライン様のしっかりとしたプレイングに序盤の情報収集で重要な場面が出来たりと助かりました。
また、最後の方はどちらかというと女としてや、島崎や仁美と違った興信所の面々との絆。
恋愛物がかってしまったような気もしますが、そういう事をテーマに読める物となっていれば、と思っております。

この文が少しでもシュライン様の思い出になれば幸いです。
誤字・脱字、或いは表現方法等のご意見が御座いましたらレターを頂けると幸いです。

それではまた、依頼でもシチュでも出会えますよう切に願って。

唄 拝