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<東京怪談ノベル(シングル)>


山岡風太は、何で出来てる?


 はっ、と目を覚ましたとき、かれは闇の中にいたのだ。
 窮屈な肉の壁は光をさえぎり、生温かい闇をつくりあげている。
 闇、闇は故郷だ。
 肉の闇そのものに、知性も感情も芽生えてはいない。肉が一体どこから生まれ、これから一体どうするつもりなのか――しかし彼はそれを気にかけることはなかった。肝心かなめは、これから、自分が生まれようとしているということ……それだけだ。
 白痴と無情を引き裂いて、かれは生まれた。
 そのとき、闇の中に風が生まれたのだ。

 いまこのときも、彼は目覚める。窮屈な肉につつまれ、肉の中を蠢きながら、風と光の世へ這い出ようとしていた。闇の中で、肉の慟哭と断末魔がきこえる。
 きこえる、
「……無垢なる乙女よ……おまえは、まさに、母となるのだ。この小さな星の西の果て、救世主とやらの逸話を思い起こすがよい。かのものの母は処女にして子を孕み、救世主として産み落とした。そのみどりごこそが神の子であり、神であったというではないか。
 笑止! しかしながら、何とも面妖な! まさにおまえだ。聖母はおまえよ! おまえは風の子を産みながら、時を同じくして風の神を産む。我らが偉大なる黄衣の王を!
 イア・イア・ハスタア! これより、生誕がはじまる!」
 きこえた。
 かれは肉の闇を内より引き裂き、地球上にあらわれた。壁を破るのはたやすいことだった。ただその身を震わせ、風を起こせばよいだけのことだった。風は風の身体を持っているだけに過ぎなかったが、その『目』にあたる器官をぐるりと動かしたとき、瞬時に理解した。
 自分は呼び起こされたのだ。この、肉の世界に。ならば召喚者どもは、崇めるものが崇めやすいかたちを取ってあらわれることを望んでいるにちがいない。その信仰心はあまりに純粋。邪悪にして無垢。
(そうか、ならば、我は肉をまとうとしよう)
(ハリの湖の底にて目覚めるそのときまで、我は夢をみるとしよう)
(肉の夢)
(うぬらの夢を)


「ねえ、教えてほしいの、風太さん。風太さん。風太さんって……なに?」


 水がとどまる音に乗り、忌まわしくも美しい声が彼の夢に揺さぶりをかけた。彼がよく知っている、いとしい少女の声だった。少女の声をたぐり寄せ、彼はかさかさに乾いた骨のない手に力をこめて、少女の首を絞めるのだ。締めながら、答えていくのだ。
「なにって……俺は、山岡風太だよ……。ただの、大学生だ。知らないはずないじゃないか。いろいろ、話したじゃないか。俺のこと、何もかも。……きみは、ぜんぶ話してくれた。だから、お礼に、俺も話すよ。忘れちゃったなら、何度だって話すから――」

 山岡風太が持ついちばん古い記憶は、風呂場でおぼれたときのものだった。何歳の頃の記憶なのかも定かではないが、母親と一緒に風呂に入るほど、幼かったことは確かだ。今でこそ両親は一軒屋をかまえ、風太も小学4年から高校を出るまで、その一軒屋で暮らしていたが――風太の古い記憶は、狭い公共団地の風呂場でのできごとにちがいなかった。
 ひとは楽しいことよりも、恐ろしいことをより鮮明に脳に焼きつけておくものだという。そこから恐怖を学び、危険というものを知る。命をつなぎとめるためのメカニズムだ。生きることそのものに『楽』は必ずしも必要ではない。大切なのは、“おそろしいもの”からうまく逃れる方法を見つけだすことだ。
 風太は母親に抱かれながら風呂に入っていたのに、そんな浅瀬で、おぼれたのである。
 その苦しみを忘れることは出来ない。
 驚き泣き叫んでいた母親の顔は二の次。何ごとかととんできた父親の大声などは、かなり色あせてしまっている。
 しかしその記憶と経験から、山岡風太はおぼえたのだ。湯が――水が、自分を殺し得るということを。
 幸いその騒動は大事に至らず、風太は自分を水に沈めた母と、大声を上げるだけだった父に愛され、いつの間にか妹にまで恵まれて、21歳まで生きのびたのだ。

「大学に受かったんだ……私立の……第三須賀杜爾区大学だよ。ミスカ大学だ。ミスカトニック大学、みたいだと思わない? もしかしたら何か関係があるのかもしれないな、マサチューセッツのあの大学と。……すんなり受かったんだ……試験受けたとき具合悪くて……どんな解答したかも覚えてないのに、受かってたんだよ。でも受かるのは、きっと当然だったんだ。そういうふうに決まってたんだ。俺、あの大学に行ってなかったら、アトラスでバイトしてなかったかもしれない。
 きみともきっと出会ってなかったんだよ。もしかしたら、きみは生まれてさえいなかったかもしれない。そういうふうに決まってた、って……そういうことなんだよ。つまりはさ。俺たちに変えられるものなんてなんにもないんだ。
 変えつづけるのは、風と水の流れだけさ。

 そうだよ、変えられるものは風だけでいい。水は必要ないんだ。だから俺が、みいんな止めて、かさかさに乾かしてやらなくちゃ……。だって俺、そう、頼まれたんだもの。本当のじいちゃんに……あの、風早の里の長に……風の司祭に……俺を喚んだひとに……」


 これは、いちばん新しい記憶だろうか。
 ともかくそのとき彼の脳裏に蘇ってきたのは、喧騒の中で、床を這いずるようにして、レポートを探す自分の姿だった。作家とその助手のために、彼は『眠りの神』に関するレポートを探しまわり、やがて探し当てたのである。
 眠りだ、眠りが彼らをいま繋げている。
「これ?」
「これです!」
 レポートを挟んで交錯する視線。その頃は何も知らなかった。彼女の青褪めた肌と、消え失せている気配の理由、そして、名前すら。

「でも……でもね、風太さん。あたしはいつまでも覚えてるから。太陽の下に連れてかれて、真っ青な空を見たときもぜったい忘れない。風太さんが初めてごちそうしてくれたのがクリームソーダだったこと。どこにだって連れてってくれたこと。夢の中でだけだけど、あたしを昼間の世界にまで連れてってくれたもの。
 それに、どこにだって、助けにくれたことも……。
 風太さんが忘れたって、風太さんに嫌われたって、あたしはぜったい忘れない」
「どうして?」
「だって、あたし……」
「そうじゃないよ。どうして、そう思うの? おれがどうしてきみを忘れたり、嫌いになったりするって思うの?」
「ああ、だって、それは……」

「だって風太さん、いまあたしの首を絞めてるんだもの」




 ばらりばらりと崩れていく思い出。乾いて崩れる彼女の皮膚や髪や服が、乾いた記憶をつないでいく。
 宇宙が始まり、呼び声に眠りを破られたかれは、祈りを追ってやってきた。乙女が泣き叫ぶ恐るべき祭壇を見下ろし、次の闇を見た。そして肉のうちに眠り、夢を見たのである。
 父と母と妹は、まったくの他人だった。血を分けたものでもない。風が吹き荒れる里でみつかったほんの嬰児は、施設に渡り、やがて物心もつかないうちに、子宝に恵まれずに悩んでいた夫妻に引き取られた。
 それが山岡風太。
 ――それが、俺なんだ。
 ――俺は、何を見た?
 ――生温かい闇。彼女の目。ヒヤデスの光。ハリの底。夢の風だよ、眠りの神も始末にこまる、乾いた風だよ。
「おねがい、風太さん、何も見なかったことにして」


 はあっ、と息をついた彼が見たのは、金色の目から涙を流す、いとしい彼女の顔だった。
「ああ……帰ってきたよ……」
 彼は、乾いた両手を伸ばすのだった。




<了>