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<東京怪談ノベル(シングル)>


eau de vie

 それでは暫くお待ち下さい、と言い置いて、店主である女性は黒いローヒールの踵を返した。
 彼女が出て行った部屋に残されたのは客たるセレスティ・カーニンガムただ一人。愛用の杖を傍らに置き、柔らかなソファの背に悠と身を預けた彼は供された紅茶へと手を伸ばす。肌の色にも似た白磁のティーカップにゆっくりと唇をつけると、ふぅ、悩ましくも甘い吐息を一つ零した。
 ゆったり首を巡らす一室。広さは彼の自室ほどもない至ってこじんまりとした応接室だが、このソファといい足元のカーペットといいまたテーブルや窓辺の花瓶などといい、確かなセンスに裏打ちされた調度品の取り合わせと配置が、この部屋の、引いては屋敷の主の品の良さを物語っている。
 セレスティはカップをソーサーの上に戻し窓の外へと目を遣った。
 朝方から降り続ける雨の流れが、透明な硝子をしとどに濡らしている様。昼だからと明かりを灯していないせいか、それともこの部屋自体が明るさを厭うているせいか。灰色の雲に覆われた戸外の、雨降る日独特の薄明かりが部屋へと淡い陰影を齎している。物の輪郭をぼんやりと滲ませる、水無月とは名ばかりの翳りの光。この国の月の名は実情と合っていませんね、と漏らしたセレスティに、そういえばここの店主はくすりと笑って。
「ただ、昔の名残を引き摺っているだけのことでしょう」
 と答えたことをふと、思い出す。

 本日、セレスティがこの屋敷を訪れたのはある物を購うためだった。それは何か? 残念ながら、今のセレスティは答える術を持たない。何故ならば、まだ買い求めるそのものを決めていないからだ。
 昨年の今頃、親しい友人の一人が遠く大陸の向こうは彼女の母国で結婚式を挙げた。式と披露宴に出席したセレスティは心尽くしのプレゼントを恋人と共に贈り、幸せに頬を緩ませる花嫁と花婿に永き愛と佳き人生をと寿いだ。
 気がつけばあれからもうひととせ。一度目の結婚記念日はもう間近である。
 贈り物によって愛する知人らの心を和らげることを好む美しき人魚が、それこそ水を得た魚の様に思案を巡らすのは、だから当然の帰結と言えよう。セレスティが先程店主に言付けたのは、今や双子の母となった友人への、結婚記念日を祝う品を用意して欲しい、ということだった。

 穏やかに時を刻む柱時計の長針が早数字を一つ移動した。
 扉の向こうに出て行った店主は未だ戻らないが、しかしセレスティはさして気にすることなくまた紅茶を口に運ぶ。

 この屋敷を、セレスティは“店”とは呼ばない。品物の売買を行うので売り手たる女性を便宜上“店主”と表してはいるが、存在しない店の主とは、実は正確ではない。
 彼女はとある故資産家の若き未亡人である。親子ほど歳の離れた夫を数年前に亡くし、現在は遺産の管理をしながらひっそりとこの屋敷で独り暮らしている。夫婦の年齢差と彼女の美貌から、結婚当時は口さがない者達に大層な嫌味を言われたらしいが、氏の生前から夫妻と交流のあったセレスティは彼らが真実愛情で結ばれた伴侶同士であることを知っている。事実、片割れを失った彼女は喪の色を身につけたまま隠者の様に静かな暮らしを送っているのだから、周りの陰口はただの羨みややっかみに過ぎないのだ。
 そんな彼女の元を本日セレスティが訪れたのは、彼女の趣味のためというか、氏の遺言に則った副業のためというか……何とも名付けがたいのだが、要は彼女は、生前氏が集めた調度品や美術品の数々を正当な値段で他者に譲り渡すということをやっている。誰にでも、というわけではない。客となり得るのは、在りし日の氏や彼女と親しくしていた者、友好な関係を築いていた者たちのみ。しかも、きちんとした理由がある場合にのみこの屋敷は“店”となり、彼女はその店主となるのである。
 集めた者が亡くなったらば、物はまた誰か必要とする者の手に渡るのが妥当。そんな考えを持っていた氏が生前指示し、彼女も有閑の慰めとして結構楽しんで店主を務めているらしい。

 夫を亡くした女性に、夫との祝いを迎える友人への贈り物を。もしかしたらデリカシーのない依頼だったのかもしれないが、彼女はむしろ、そういった類の話を喜ぶ。それは慶事ですね、と薄化粧の口許に笑みを深めた表情に決して偽り翳りはなかった。
「私は夫に沢山の幸せをいただきました。その夫の遺した物がまたどなたかの幸せとなり得るならば、これほど貴いこともないでしょう」
 向かいに座した彼女はそう言って、「では」と続けた。
「カーニンガム様。本日は、どのような品をご所望なのでしょうか?」
 問われたセレスティは力なく苦笑した。実はまだ決まっていないのですよ、とつけ加えて。
「実用的なものを、とは考えているのですけれどね。そこで袋小路に行き当たってしまって。……何分、実用的なものと言っても」
「そうですわね。カーニンガム様ご自身が選ぶこと、扱われるご機会は然程ないでしょう」
「ええ、その通りです」
 リンスター財閥総帥は少々子どもっぽく笑んで首肯する。
「ですから、宜しければお知恵を拝借できますかマダム。同じく主婦であった貴女ならば、私の友人が必要としているものがわかるのでは、と期待しているのですよ」
「まあ、カーニンガム様に仰られては応えないわけには参りませんね。了解しましたわ。それでは暫くお待ち下さい」

 時計の針がまたコチリと音を立てて進む。
 この“店”では待たされるのもまた心地良い時間。首都圏からやや離れた別荘地にあるせいだろうか、時の流れはどこまでも密やかで優しく、それはまるで夫の思い出と共に生きる彼女の姿そのままにも感じられる。
 彼女に言い寄る男性がいないわけではないということ、セレスティは流れてくる風の噂に聞いている。相続した遺産、その美しさ、禁断の実とも映るその喪の色。理由は様々だろうが、まあ実際無理も無い話だとは思う。手に入れたいという欲求を喚起すべき条件を、彼女は良かれ悪しかれ十二分に身につけているのだから。
 しかし彼女はそのどれをもさらりと、優雅に交わしているという。私はこれで良いのですと、微笑んで遠ざけて、また静かに目を閉じて。この閑居で残りの生を全うしようとしているのは、貞淑とも言うだろう、一途とも言うだろう。────でもきっと一番相応しい言葉は。

「……名残、と言うには、穏やか過ぎる感情ですね」

 彼女は、満足しているのだ。
 愛する存在が現身であろうと灰となろうと。
 今も昔も、これからもずっと。
 心が、欠けることなく満ち足りている。

 セレスティは再び窓を見る。雨の音は室内にまで侵入ってはこない。降る、というよりは潤す風情の優しい雨。門から扉の間に並んでいた花や樹木は、少しでも多くの慈雨をと恋願うかの様でその枝を葉を天に向かって一心に広げていた。
 植物にとって、いや地に生きるもの空を飛ぶもの、また海原で永き生を営むものにとっても、雨は、等しく、また何の情もなく降り注ぐ命の源。それがなければやがて枯渇した潰えを迎える以外に先の無い、命を、心を満たすもの。
「……では」
 愛する者を得た人にとって、“雨”とは何であろうか。
 自分然り、友人然り、そしてまた彼女然り。形ある存在として愛を抱ける者、愛との間に次へと続く命を育む者、今はもうない愛をそれでも愛として慕い続けられる者。それらが皆求める“雨”とは、何であろう。
 実用的なものを、自分はそう考えた。初めての育児で苦戦奮闘している友人の手助けになればと、確かに自分は考えその様に店主へと注文したけれど。本当に彼女が求めるもの、彼女の役に立つもの、言ってしまえば自分が彼女に贈れるものとは、何なのであろうか。
 セレスティは顎に手をやった。窓は濡れたまま、天からの恵みをつうと面に滑らせている。徒然思案に目を細めていると扉の控えめに開く音がして、そちらに視線を移した。

「お待たせ致しました」
 押してきたワゴンを黒衣の店主はセレスティの横で止める。足の不自由な自分が座ったままでも商品を検分できるようにとの配慮だろう、背の低い棚を二段もつ小型のワゴンには幾つかの食器類が丁寧に並べられていた。
「お話を窺って、考えてみました。テーブルウェアでしたら、幾らかあっても邪魔にはならないでしょう。ご友人の多い方でしたら、尚更に」
「成る程。確かに、実用的なものですね」
 手前にある皿はウェッジウッドだろうか。縁に描かれた装飾的なラインは主張し過ぎず美しい。魚料理でも載せればさぞや彩りを増すだろう。その隣り、小花模様のカップとソーサーはマイセンか。手描きならでは丁寧さと数の分だけの色合い。色違いに四つ揃えてあるのは、家族の団欒に使って欲しいとの心遣いと見受けられる。
 他にも、長方形の大きなプレートや、ディナー用の白銀食器が一式揃ったもの。またケーキ用の小ぶりなフォークのセットなど、どれも普段使いの出来るものばかりだ。値段としては然程高くはなかろうが、見目は勿論使い心地も良かろうと窺わせる品の数々。セレスティは満足の意を頷きで示し、それらを一つ一つ取り上げていく。
「待っている間に、私も考えてみたのですよ。彼女は今、真実何を必要としているのか。夫を愛する妻は、子を慈しむ母親は、一体どんな時間に心を満たされるのでしょうか、とね」
「お考えはまとまりましたか?」
「いえ、まだですよマダム。折角ですから、貴女のご意見を拝聴しようと思っていたので」
「寡婦たる私の言葉など」
 いえ。セレスティは短く否定した。静かな空間に二人きり、それを包んでいるのは雨の、水の匂い。秀でた感覚が伝えるひいやりとしたその雰囲気に、セレスティは身を任せる様な表情で目を閉じる。
「今日という日の空気のように、貴女の心には常に豊かな水が満ち満ちている。……私は、水を感じるのが得意なのですよ」
「水、と仰いますか」
「ええ、そうですね……例えば」
 ワゴンから一つのグラスを取り上げる。触ったところ、15センチほどの余り背の高くはないワイングラス────恐らくバカラだ。口を大きめに開き、モダンな薔薇柄を施されたそのグラスをセレスティは目の高さにまで上げた。
「例えば、このグラスにワインを満たしている様に。貴女の心には、常に、亡き氏への恋慕の情が満ちている。水面が揺れないほどに満たされて、だから貴女は、何も誰も、必要としていない」
 一瞬だけ、静寂があった。続いた彼女の言葉は、常よりも温みを孕んでいた。
「……カーニンガム様、最近、変わられました?」
「と仰ると?」
「失礼ながら、幾年か前の貴方でしたら、その様なことを口になさいませんでしたわ」
 彼女がくすりと笑った。セレスティは一瞬だけ瞠目して、しかしすぐさま「ええ」と口許を綻ばせる。
「私の心にワインよりも芳しい命の水を注いでくれた女性がいるのですよ。尽きることの無い、赤く、甘い、甘露の様な水を」
 グラスで中空に円を描く。そこにはないはずの水が、半球の中で静かに揺れたのをセレスティは見た。
 ワゴンを探るとこのグラスと同形のものが今一つあり、その縁へと手の内のものをチン、と口付ける。涼やかな鈴の様な音、セレスティはそれに促されて想像してみた。
 温かい家庭の温かい食卓で、愛を通わせ合う男と女が、互いに視線を絡ませながら乾杯とグラスを合わせる。一口ワインを口に含んで、それから気恥ずかしげに笑い合い、他愛もなく取り止めもない話に小さな花を咲かせていく。やがてその食卓には彼らの子供が席を連ね、並べる食器も数を増す。偶には仲の良い知人が呼ばれ、そうすると皿もグラスも多く用意されるのだろう。婦人は料理に奮闘し、部屋の飾りつけも常よりは賑やかになるのかもしれない。華やかな明かりと尽きないお喋り、そのテーブルは、部屋は、家庭は、温かさと幸福に満たされるのに違いない。
 しかしどれほど人が集まろうとも、その核となるのは一組の男と女。指輪を交わし言葉を交わし、幾歳も年を重ねていく夫と妻が、何時だってテーブルの中心に座っているのだろう。

 それが原初。
 それが、当たり前だけれども総ての、始まり。

「……そうですね」
 セレスティはグラスをワゴンに戻す。そして店主を仰ぐと、
「これを一組、頂きます」
「ワイングラスを?」
「ええ。私の友人とその伴侶の方に、お二人の時間を、ゆっくりと確かめ合っていただきたいと思いつきました。……ああ、彼女の実家には自家製のドイツワインがありますからね。グラスだけを贈りましょう」
「妙案ですわ。私が拙案を提供するまでもありませんでしたわね」
「おや、これは失礼。では代わりに、ご感想を頂けますか? 贈り物として、如何でしょう?」
 彼女は柔らかに瞼を下ろし、数瞬の後にこう答えた。
「……互いを見交わす時間ほど、妻として愛しい時間はありませんわ」


 ベッドの様な箱に寝かされ包装された一組のワイングラスを、セレスティは手づから持ち帰ること申し出た。贈り物ですから、と直接彼女より箱を受け取り、待機していた車へと乗り込む。見送りに立ってくれた黒い影が雨の向こうに消えていくのを肩越しに眺め終えて、セレスティは膝の上、やがて友人へと渡されるべきそれを一撫でする。
 雨はまだ止んでいなかった。この世のありとあらゆるものに、今まだ降り続けている。
「そう……雨、ですね」
 実際に必要なものは、きっと彼女が買い揃えていくことだろう。だから自分が贈るのは、この雨の様に気付けば心を潤しているものであればいい。
 多忙な彼女が静かに想いを巡らす時間を、また彼女の夫が彼女への想いを噛み締めるよすがを。無くても生きていけるのかもしれないが、無くては“生きて”いけないものを。

「……それが私の、贈り物ですよ」

 ──── 後日、そう言って手渡した箱を友人は抱き締めるように受け取ってくれた。


 了