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<東京怪談ノベル(シングル)>


結 葉 の 候

 七月の、陽炎揺れる真夏日のこと。
 槻島綾は、何時も通りと云うか何と云うか、のんびりと気の赴くままにふらふら一人旅をしていた。
「……暑い、」
 ぼそりと呟いてはみたが、如何せん一人旅であるので、相槌を打ってくれる人間が居る訳は無く。……折りしも季節は真夏、照りつける太陽は只管に元気で僅かの翳りすら無く、綾の薄い背をじりじり苛みつづけていた。
 今回の目的は山の奥にある岩清水だったのだが、山道をゆけどもゆけども、全く見つからぬのである。先刻から随分歩きづめて居る感じがするのにも関わらず、だ。若しかしたら緑一色の景色に惑わされて、ただ時間の感覚がおかしくなっているだけかも知れないが。
 ―――――兎に角、見つからぬ。
 持ってきていた飲み物も、そろそろ底をつきかけている。このままではいつかからっと干上がってしまうのではないかという危惧が脳裏をちらついた。引き返すことも考えたが、これまでの労力を考えると、それすら危険であろう。
 綾はげんなりと頭を垂れた。暑い。おとがいから汗が、遊歩道の土にぽたりと落ちて色濃く跡を残す。俯いた所為で掛けた眼鏡がずり落ちそうになり、慌てて右手を沿えて顔を上げる。
 そこに、
「―――――あれ?」
「にゃあ、」
 猫が、居た。
 毛並みの乱れた、でぶっと不細工な猫である。けれど、その図体の何処から出しているのか、と思わせる程の美声の持ち主であった。愛らしい鳴き声をあげながら、きらきらとした金と銀の不思議な眼で綾を見詰めている。先程まではぶんぶん煩い羽虫くらいしか生き物の気配が無かったのに、いつの間にかのそりとそこに居たらしい。
「やぁ……猫さん。今日は暑いね、」
 自分は何を言っているのかと思ったが、どうせ誰も見ては居ないだろう。不細工な猫に向かって、綾は話しかけてみた。すると、にゃあ、と猫が応じるように鳴く。案外頭の良い猫なのかもしれない。
「きみも暑くは無いのかい、そんなに一杯着込んで。」
 云うと、今度は濁った声でぶみゃあと鳴いてから前足でゆるく顔を擦った。それが何とも、人間が暑い暑いと汗を拭っている仕草に似ていたものだから、思わずふき出して笑ってしまった。愉快な猫だ。何か芸を仕込まれているのではないだろうか。綾は暑さにへこたれていた事も忘れ、笑い続ける。
 収まった頃、三度猫がにゃあと鳴いて、今度は綾に背を向けて歩き出した。団子尻尾が軽快なメトロノォムのように揺れている。歩いてゆく途中に振り返り、まん丸のヘテロ・クロミアが綾をじっと見た。
 ―――――呼んでいるのだろうか。
 綾は不思議に思い、スニーカの足先をそちらに向けた。さわりと下生えが靴底を包む。
 山の緑が、僅かにそよめいた気がした。

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 少しばかりの道を抜けると、そこには綾の背丈程しかない小ぢんまりとした鳥居が立っていた。紅の塗料もみすぼらしく剥がれ落ちていて、寂寞とした雰囲気を醸し出している。祠か、或いは神社だろうか。どちらにせよ人は居ないようである。雨に削られて顔が解らなくなった狛犬も一対、寂しげに立っている。嘗て誰かが通ったのであろう道は微かにしか残っておらず、あとは獣道とも言えぬような荒れた小道が奥へと続いていた。
「……へぇ、」
 遠くのほうで、にゃあ、とまた猫が鳴いていた。来いと言っているのだろう。綾は祀られている神様に向かい、お邪魔します、と言ってから鳥居をくぐり、獣道を歩き出した。草の下にはまだ石畳が少しだけ残っていたようで、今まで歩いてきた山道よりも歩きやすい。既に暑さも忘れ、さくさくと足元で鳴る草の音に耳を傾けた。夏の盛りの、葉の先までぴんと瑞々しい野草たちが、久方振りの来客に身をそよがせている。

 ……群生した弟切草の茂みを抜けると、そこは境内であった。
 先程抜けた鳥居のように小作りではあったが、違うのは、確り手入れが行き届いている所であろう。あたり一面きちんと掃除されており、ちちち、と鳴くお喋りな小鳥たちがそこここで賑わいを見せている。綾が境内へ一歩足を踏み入れると、小鳥たちは年頃の娘のようにはしゃぎながら羽ばたいていった。きっと何処かの枝に止まり、また噂話でも始めるのだ。
 小鳥が居なくなると、境内は途端に静かになった。手入れされているのにひとの気配の無い神社はまるで、何かのモデル・ルームのようだ。綾は不躾を承知で、境内の中を探検に似た気分で歩き回る。
 ここは何の神社なのだろう。境内には看板も像も立っておらず、ただ注連縄をされた巨大な桜の木が梢を風にそよがせているだけであった。拝殿を賽銭箱の前から覗こうとしたが、滅紫の幕が下がっている所為で中が窺えない。何処かの金持ちが戯れに神社に似せて造った建物、と云われても信用してしまいそうだ。
 けれど綾は、変な神社だ、と思っただけで、特別気にはしなかった。それよりも年季の入った鈴や柱に手を置き、眼鏡を掛け直してじっくりと見ることに忙しい。年季の入った古神社、などという魅力的に過ぎる言葉の並びを実際に体験することは、綾にとっては至上の喜びであるのだから。
 綾は歩き疲れた足を伸ばし、階段に腰を下ろした。遠くで鶯の啼く声がゆっくりと、幽かに聞こえる。御伽噺の舞台にでもなりそうなこの神社では、時間の流れすらも下界とは違うようだ。
 誰も来ないようだし、本来の目的など忘れて、このままのんびりしていようか―――――と、そう思っていたとき。

「誰ぞ、おるのか。」

 先程鳴いていた鶯のような、すずやかな高い声がした。
 綾は慌てて、声のした方向に眼を遣る。すると注連縄をされた大きな杉の木の下に、狩衣姿の子供がひとり、箒を手にしてぽつんと立っていた。
「誰じゃ、おんしは。来客か?」
 目許に紅色の縁どりをした、肩程までの振分け髪の子供であった。性別を判ぜぬ中性的な雰囲気を纏っていたが、僅かに低い声から少年だということが解る。平安時代の貴族のような物言いに、綾はいっとき返事をするのを忘れてしまった。
「誰かと聞いておるのじゃ。返事くらいせい、」
「あ、ええ、と?はい、お、お邪魔しています、こんにちは!」
 何とも訳の解らぬ返事になってしまった。綾はますます慌て、えっとだの、あのだのと、しどろもどろになりながら頭を掻く。そのようすに子供はきょとんと目を丸くし、一拍置いてくすくすと笑い始めた。
「し、失礼を、」
「ふ、……良い、良い。儂も悪かった。突然話しかければ誰でも驚くであろうよ、」
 彼は箒の柄を持ったままこちらへ歩いて来ると、綾の横にとす、と腰掛ける。狩衣から、幽かに白檀が香った。
「辺鄙な場所へ、よう来たの。……人間を見たのは久し振りじゃ。」
 紅の目許を綻ばせ、少年は笑う。稚い笑顔であったが、この少年が内包する空気には何故か、長い年月を過ごしてきた者に特有の深みと暖かさがあった。
「おんし、何用でここまで来たのじゃ。普通に歩いていては解らぬ場所であったろうに?」
 言われて、綾は先程の猫を思い出した。……そう言えば姿が見えぬ。
「にゃあ、」
「あれ、」
 神社に夢中になってすっかり忘れていた彼が、杉の木の陰からひょこり、顔を出した。のそのそと緩慢な動きで少年の傍に寄り、身体を丸める。少年はそれを見て眼を細め、指先で毛を梳くように猫の背を撫でてやっていた。
「そう、この猫さんが連れて来てくれたんですよ、」
 綾がそう言うと、少年が、矢張りか、と応じた。
「おんしもフクに導かれて来た者であったか。こいつは昔から儂が暇を持て余すと、そこらを歩いている人間を連れて来るのじゃ。今回は偶々、おんしが選ばれたのであろうな。」
 フク、というのが猫の名前らしい。ぶみゃああ…と大欠伸をする彼の図体を改めて眺め、なるほど名は体を表すのだ、と思ってしまう綾であった。
「光栄に思うが良い、ここに辿り着ける人間なぞ、滅多に居ないのじゃ。」
「フクのお陰ですよ。……ここは良い所ですね。沢山のひとの願いと、想いが―――――強く感じられる気がします。」
 言いながら綾は周りを改めて見回す。手水舎、拝殿、本殿、苔生した石燈篭。年を経たものたちは自然と、その身に優しさを秘め積もらせててゆく。様々な場所を旅してきた綾には、この神社に宿る想いの深さがありありと感ぜられた。
「……ほう、旅人のような事を言いよるの。おんし、旅は好きかえ?」
「そう、ですね。旅は僕の……生き甲斐のような、ものです。」
 良いことじゃ、と少年は微笑んだ。
「上手くは、言えないのですけど。例えば、」
 綾は膝の上に置いていた手を階段の手すりに遣り、指先で木目をなぞった。すこし毛羽立ったような、木の表。すり減り、角の取れた柱に、これまで何人のひとが触れてきたのだろう。黒ずんだ鈴は、何人の願いを聞いたのだろう。朽ちかけて軋む段に、何人の下駄を乗せたのだろう。過去、幾人もの人間を見てきたのであろうこの神社は、それに相応しい優しさと荘厳さをもっている。
「―――――例えばこの階段一つを取っても、どんな人が歩いたのか、何を願って上ったのか、誰と一緒に来たのか、……そういう思念の一つひとつを、これは憶えているでしょう。景色に宿る想いの深さを見てゆくのは、どんなに旅を重ねても飽きませんね。」
 物言わぬ景色は、けれどことばを、呼吸を宿す。嘗て通り過ぎていった人間の意思をしっとりと裡に仕舞い込む。そうして重なってゆく数多の思いは、風化すること無く煌き続けるのだ。
「嘗てここで出会ったひと、別れたひと、すれ違うだけだったひと―――――関わりは様々にしろ、数え切れないほどのひとがここを通ったのです。」
 例えば、茂る枝葉のように。
 例えば、広がる波紋のように。
 過ぎてゆく時間は無常だけれど、重なり合い交わり合う人々の縁は多様だ。手を触れたそこから歴史を想像することが、綾は堪らなく好きなのである。
「ここから始まった人と人との物語も、在るのだと思います。長い時間を過ぎて、或いはその人たちも生を終えてしまったのかも知れないけれど―――――」
 少年は目を閉じてそれを聞いていたが、綾のことばが終わるのと同時に瞼を開いた。そうじゃの、と呟いてから、少年は足元に散った緑葉をしろい指先に取った。
「儂も永い間、久遠と呼べる永い間―――――ここに座り、ひとの営みを眺めておった。ひとと言う生きものは、まこと面白いものじゃ。この葉のように、芽吹いてからは数多のものと関わり合う。一本の枝だけを支えにし、葉と葉が重なり合い、危ういながらもうつくしい生を生きる。枯れ散るまでを生き生きと、風や雨に打たれながら……、」
 ふわり、吹いた風に、少年の艶々した髪の毛ひと筋が遊ぶ。彼は目前で揺らしていた葉をそっと、風の中へ離した。御神楽の舞のようにひらりひらりと、緑葉は空に吸い込まれてゆく。その情景は運命に抗えぬ人間の弱さをあらわしているように見え、喩えようも無く、綾の胸を打った。

「……儚いものよ、とも思うが、それこそがひとの世の美なのであろう、」
 少年は葉を離した指を、そのままフクの顎の下に滑り込ませる。彼の華奢な指に撫でられ、ぐるぐるぐる、とフクがだみ声を出した。

「……おぉ、残念じゃ。もう夕刻か、」
 言われて初めて、綾は向かいの山の稜線が茜色に染まりつつあるのに気付いた。青色のあかるい昼がそろりそろりと、忍び足で天球を去ろうとしている。素晴らしい時間は、どうして早く過ぎ去ってしまうのだろう。
「おんしはひとの世を、良ぅく、解っておるのう。……また話を聞きたいものじゃ。儂はいつでもここにおるぞ、気が向く時に来るが良い。儂はここから出ることの叶わぬ身であるゆえな、おんしの旅先の土産話でも聞かせてくりゃれ。」
「はい、僕の話なんかで良ければ、いつでも。―――――それでは、そろそろお暇することにします。長居をしてしまって済みません、」
「何の、何の。気をつけて帰るんじゃぞ。……フク、お客人をお送りしなさい。」
 少年が膝の上のフクをぽんぽんぽんと三度叩くと、フクは再び大欠伸をした。不細工な顔を歪めに歪めてから伸びをし、狩衣から飛び降りる。綾は少年に礼を言っている間に、のてのてとのんびり歩き出した。
「にゃあ、」
「あぁ、フク、待ってくれよ。」
 神社の入り口まで歩いたところでフクが綾を呼ぶ。綾は慌てて団子尻尾を追い、階段から駆け下りた。フクと並んだところで改めて礼を言おうと振り返った、が―――――少年は、ほんの瞬きの間に、どこかへ消えてしまっていた。
「あれ―――――れ、?」
「ぐるる、にゃあ」
 鳴き声に反応してフクの方を見ると、フクはひとつの方向に向かって鳴いていた。
 大きな、桜の木である。
 沢山の緑葉をざわざわと鳴らしながら、吹く風に身を任せていた。
「―――――あぁ、そうか。」
 きっと先刻の少年は、この木霊が変じたものなのだろう。
 確証など無かったが、綾にはこれ以上無いほど明らかに、それを確信した。
「ありがとう、ございました。」
 そう一言だけ礼を言って、綾は桜の木へ頭を下げる。刹那、まるで綾の言葉に答えるように、ざわざわざわ、と梢が騒いだ気がした。うつくしい話をしてくれた彼に、綾はにこりと微笑みかける。


 ―――――次に来るときには、面白い話を沢山仕入れてこよう。彼に気に入られるような話など、そうそう簡単には見つからぬだろう。……さてさて、何にするべきか。
 稚い少年の顔を思い浮かべながら、綾は神社を後にした。
 季節は、夏。
 葉が茂り、草がそよめき、いのちが最も輝く季節のことであった。