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<東京怪談ノベル(シングル)>


花扇華箋


 一、桜

 花曇りのその日。
 初めて降り立った日本という国の印象は、決して良いものではなかった。
 ひたすら曖昧な空気が満ちていて、どちからというと物事にははっきりとした区別を求めているような自分にとって、この国の気性は合わぬものと肌が敏感に伝えていたのだ。

 14歳の、春だった。

 思い出す故郷の、どこまでも澄み渡った気、それに景。
 青い山々へ駆けのぼるように、山裾を這う緑野を追って視点を山上へ転ずれば、薄く透明を保った空に雲の姿が近い。
 近い。
 そこは天に近い、町だった。

 瞳を閉じた先にその風景を思い起こしていると、甘い香りを孕んだ風に現在の居場処を知らされる。
 瞼を上げ、殊更強い光を宿す焦茶の瞳に世界を映し出した。
 ここは地に近く、常に変遷する国だ。
 それを象徴するが如く、眼前でくるりくるりと薄紅が舞っている。

 ――花嵐。


 二、紫陽花

  滔々たる西川の流れは清く
  水に写りし
  四季折々の花はとりどり
  色はさまざま
  姿優しく
  咲き匂ふ

 ***

 我知らずその詞を口遊び、ややあってその曲に込められた意を解して、嘉神しえるは片手に提げていた鞄の底を探る。忘れていたわけではないが、このところ立て込んでいたために後まわしにしていたのは確かだった。
 探り当てたのは絵葉書。手触りの良い和紙の封筒のなかに収められたその一葉には、点々と色を置かれた紫陽花が描かれている。季節は半夏生も葉に白を被る頃、稽古帰りのしえるの着物も笹の葉連なる秘色の絽小紋である。検めれば葉書の示す期限は今日の日付で、しえるは帰路を辿る足を急遽、その路地へ向けた。
 モダンなアパートメントを模した表通りの店々には、意図的な汚れと蔦が走って、その前に幹ばかり整然たるこの並木は欅であろうか。陽に透いた黄緑と、道に落ちる木洩れ日がつくる模様をいとしげに、しえるはその角を曲がって路地を進む。ともなくやさしい木の薫香に包まれる心地して、住宅地のなかそのひとつ、檜皮葺の編笠門を潜った。門冠りの真木の枝に揺れる木片には、ただ「遊魚陰」と細き文字があるばかり。店名が魚の隠れ場なら、今の自分も魚なのかと、しえるはここを訪れるたびに思いながら、飛石を伝って庭を奥へ。そう、ここは店であった。
「あら、お久し振りです。――いらっしゃいませ」
 真ッ先にしえるの姿に気づいた店主が、縹の着物を上手く捌いて腰を上げた。庭に設えられた池を覗き込んでいたらしい。
「こんにちは。せっかく招待状を頂いたのに、来るのが遅くなってごめんなさい。どうやら、間に合ったようだけど」
「ええ。しえる様なら、たとえ期限を過ぎてもいつでもお招き致しますよ」
 ころころと笑う店主は、しえるとそう歳の変わらぬ目許の涼しげな女性である。流れるようなその身の運びは、しえるとどこか通ずるところがあった。
「『主様』はお元気?」しえるは店主とともに屋敷の縁に坐りながら問うた。「様子を窺っていたのでしょう?」
 甚平姿の青年が茶を運んできた。見知った顔だ。しえるが礼を言うと、青年は穏やかに微笑んですぐに下がった。
「はい……」しえるに茶を勧めて、店主は口許を綻ばせた。「しえる様がいらしてくださったので、ご気分も大分良くなることでしょう」
「私が来ただけで?」
「あなたの気配は、とても心地好いのですよ」
 そう言って、ひと呼吸置くと、店主は眼差しを細めて深く息を吸った。
「この国に坐す八百万の神々が、たといそのすべてとは云わずとも、あなたを慕っておられます。……この主様の異界にあってさえ、あなたを守護する光のなんと眩きこと」
 店主の視線はしえるへ、というよりその背に向けられているようだった。
「光?」
「そう、光です」それ以上は言わず、店主は話題を変えた。「……素敵なお召し物ですね。お稽古の帰りでしょうか?」
「ええ……あ、そうだわ。あなたがくれた絵葉書でね、思い出したことがあったの」
 何でしょう、とおっとり笑みを浮かべたままで店主が首を傾ぐ。
 しえるは形の良い唇を弓なりに、微笑んだ。
「『花扇』よ」


 三、再び桜/四季

 その春に日本を訪れるまで、しえるは日本の文化にはほとんど馴染みがなかった。唯一、日本人の祖父から空手を習いはしたが、日本に来てからも特に自分から文化に触れようとはしなかったし、だからその日、知人に連れられていった舞台も最初は単なる興味本位だったと云っても良い。
 初めて目にしたその舞台は、日本舞踊のものだった。

 ***

  花の蕾のかずかずは
  麗しく
  咲き競う日の
  夢にふくらむ
  様々の花の姿を
  水に写して
  西川の流れは澄みて
  栄えゆくなり
  流れは清く
  栄えゆくなり

 ***

 ――息を呑んだ。

 花が舞っている。
 色いろ、彩りを随えて舞手は艶やかにそこにて。

 既に流暢な日本語の詞を耳が拾う。
 詞にある通り、溢れるほどの色彩が届く。

 青と一言で云えない色、赤と一言で指すも様々の色、その中間でもなく、名をつけるにももどかしい、濃淡が解けるように結びゆくように、ちらちらと映ずる。
 視覚を制したその舞は、やがて身のすべてに沁み入って。
 これが日本の色なのかと、顫えた。

 花よ華よ、はなよ。
 やわらかきものたちよ。
 かそけき、はかない、淡きもの。

 流れ移ろうは花ばかりか、否、いやはて定めぬまま廻り続くは人の世も同じこと。

 花が舞っている。
 くるりくるり、廻ってゆく。


 四、朝顔

 後日、初めて観たその曲の名を「花扇」と云うのだと知った。
「――うちの絵葉書で、というのは?」
「いつも必ずその季節の花が描いてあるでしょう?」届くたびに花を違え四季を知らせるのは、どこかあの曲を想わせる。「それに慥か、あの後すぐにこのお店の存在を知ったんだわ」
 しえるは懐かしむように眼を細める。季節は廻り巡って花々は移り変わる。しかし対照的にこの店主とあの青年たちは、少なくとも外見においてはまったく変化が見られなかった。
「……そういえば、今日はお店の方は閉じてるの?」
 視線の先の座敷奥は、しんと静まり返っている。いつもなら客や店員の声が聞こえてくるはずだった。
「今回招待状を差し上げた方で、今日までお見えにならなかったのは、しえる様だけですもの」
 あら、と声を洩らして、しえるはわざとらしく肩を竦めた。「それならさっさと買い物して、お暇した方がいいかしら?」
 店主は笑いながら首を振り、「今日は反物で?」
「ううん……そうね、荷物になるようなものは今日は止めとくわ。何か……和の色彩を感じられるものって、ない?」
 いつもなら布地を指定して、そこから着物や小物を作ってもらうのだが、今日が“期限”だ。無理は云いたくない。
「和の色、ですか」ゆっくり頷いて、店主は屋敷の奥へ声を掛けた。「参番の棚を、持ってきてくださいな」
 間もなく先ほどの青年が平たい箱を手にやってきた。なかには仕切りがあって、収められているのは色とりどりの和紙である。
「これでお人形をお作りになるお客様がいらっしゃいましてね。以前より種類も多く揃えるようになりました」
 店主から届く絵葉書は、いつも薄い緑色の和紙の封筒に入っていたことを思い出す。人形は無理でも、名刺がわりに使えることもあるだろうと、使いやすい越前和紙の類をまず選んだ。
 和紙は色も柄も様々なら、その手触りも大きく違う。見本の紙に触れながら、気に入った柄を選び取っていった。
「なぜ和の色彩を?」店主がしえるの注文の意図を訊ねた。
「さっき話した『花扇』ね、あの曲がきっかけで日舞を習うことになったのだけど」しえるの手は青と紫の色合いの和紙を同時に取った。「何よりも、詞で表現された、この国特有の色彩に惹かれたの」
 花の種の数だけ、いやそれ以上の色、数多。どれもが吸い込まれるような深さを感じさせる。
 店主は穏やかにまた頷いて、しえるの選んだ和紙を袋に包む。言葉通りそれからすぐに店を出たしえるを、門の手前で見送ってくれた。
「ありがとうございました。――また花の咲く頃に、お待ちしております」
 四季折々、常に何かの花は咲く。花の名を店主は云わなかった。
 門を離れたしえるの耳に、涼しげな水音が聴こえた気がした。

 振り返ったそこには、しえるの潜った門は既にない。両隣と同じような変哲もない誰かの住居の塀と壁とが続いているだけだ。
 遊魚陰という名の異界への門は閉じた。次に開く時にはまた、季節の花の添えられた絵葉書が、あの浅緑色の封筒に入れられて届くのだろう。次の機会が早ければ良い、としえるは思う。今度は余裕をもって来よう。そしてできれば、あのひとと――紫の瞳を持つ青年の姿を想えば、足取りは軽くなる。まだ陽は高い。今日もまた、あの場処を訪ねようか。
 ふと歩き出した路地のとある家の前、鉢植えの細い蔓が螺旋を描いて伸びている。萎んだ花には、しえるの着物に似た極薄い青がほんのり滲んでいた。其も日本の色彩哉。……
 若葉風に急かされるよう、しえるは夏めく街を渡っていった。


 <了>