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仮面の下にあるものは……
日も傾きかけた頃、五代真は愛用のMTBを草間興信所の前に停めた。
彼は嫌がおうにもつい数日前にこの興信所を訪れた事を思い出した。出来る事なら触れたくはない。あの後味の悪い事件。
憔悴しきった少年の表情。自分の安請け合いに、藁にも縋るような表情で見上げていたあの少年の顔。
そのどれも今となっては失われてしまった。自分の無力感をこれほどまでに感じたのは久しぶりの事だった。
五代は健康的な肉体を病人のように引き摺りながら草間興信所への階段を登り、ドアを叩いた。
「……開いてる」
事務所の中からくぐもった男の声が聞こえて来た。五代は勧められるままに扉を開ける。
山のように積み重ねられた煙草の吸殻。整理しきれない調査資料が積み上げられている床。草間興信所の様子はあの日と全く変わっていなかった。あんな痛ましい事件があったと言うのに、ここは何事も無かったかのように変化が無い。
そのことが、五代にはもどかしかった。そして、それが、半ば八つ当たりだということも、充分理解していた。
「すみません。急にあんな連絡しちまって……」
五代はどこか覇気の無い声で簡単に謝罪する。今日、この時間を草間にわざわざ開けてもらったのだ。
「いや、構わん……どうせ、暇だからな」
デスクに座る草間は軽く首を振りながらそう言うと立ち上がってブラインドを下ろす。そして、自分の煙草に火を点ける。
「まぁ、座れ」
草間は形ばかりの応接セットに座るよう五代に促し、五代は促されるままに腰を下ろす。
気まずい沈黙が辺りを包む。
話があると押しかけては見たものの。いざ、この場にたってみるとどうも話しにくい。草間が気を使って変に急かしたりしないのも返って空気を気まずくさせた。
「……煙草、吸ってもいいすか?」
沈黙に耐えられなかった、五代はようやくそれだけ口にする。草間はゆっくりと頷く。
五代はゆっくり吸い込んだ煙を吐き出すと、ようやく口を開き、呟くように言葉を紡ぐ。
「俺は、間違ってたんでしょうか?」
「この間の事件の事か……」
草間は煙草の灰を灰皿へ落としながら短く応じた。
「俺、言ったんですよ。アイツに大丈夫だ、安心しろ。俺達が幼馴染みを守ってやるから≠チて……でも、結局あんな事になっちまって……」
応接用のソファに縮こまるようにして座りながら、五代は低い声で言った。彼は決して草間と視線を合わせようとはしなかった。
「俺、アイツは本当に助けてやりたかったんですよ……なんつうか、他人事とは思えなくて……」
「仕事に私情を挟むのは感心できんな」
草間は五代を軽く睨むようにして言った。そして、ゆっくりと煙を吐き出す。
「だいたい、そうやっていちいち依頼人に自分を重ねていたら、あっという間にノイローゼだ」
どこか突き放すような草間の言葉に、ようやく五代は視線を上げてブラインドを背に立つ探偵の事を見上げる。
「俺は、草間さんみたいに割り切れません……」
五代の咎めるような視線と言葉に、草間は少しだけ仏頂面を崩して首を振る。
「俺だって割り切れないときもある。お前が思っているほど、俺は大人じゃない」
「じゃあ、何で……」
五代の縋るような言葉に、草間は再び表情を仏頂面へ戻して応じる。
「でも、割り切らなきゃ生きていけない。後悔する度に尾を引いてたら仕事にならん……特に、俺みたいな仕事はな」
「やっぱり大人じゃないですか」
五代は拗ねたようにそう言って、煙を吐き出す。
彼のどこか似つかわしくない声音に、草間は小さく笑みを浮かべた。
「割り切るって言えば聞こえは良いが、結局のところ諦めてるだけだ……」
草間はそう言って咥えていた煙草を灰皿へ押し込み、新たな一本を取りだして咥える。そして、慣れた仕草で煙草の先端に火を点け、たっぷりと二回、肺に煙を満たしたところでようやく五代は口を開いた。
「じゃあ、草間さんは俺に諦めろって言うんですか?」
「極論を言えばな……」
草間は静かな声で肯定した。
五代の持つ、長い煙草の灰が、ゆっくりと傾いでテーブルに落ちた。
「草間さん、あんた……」
諦めきれないからこそ、こうやって相談に来ているのになんて事を言うんだ、と五代は表情に微かな軽蔑の色を浮かべて言い、仏頂面の草間を見上げる。
だが、草間に動じた様子はなく、相変わらずの調子で言葉を紡ぐ。
「では、逆に聞くが、あの仕事でお前は手を抜いたか?」
「そんな訳無いだろ」
不意の問いかけにいぶかしみながら五代が短く答える。
「あの少年に、『大丈夫だ』ではなく『駄目かもしれない』と、あの時告げられたか?」
「……そんな事出来る訳ねぇだろ。アイツには、もう俺たちに頼るほか無かったんだ……」
草間の問いかけに五代の脳裏にはあの少年の顔が浮かんだ。
自分の安請け合いに、とても心底とは言えないが微かに浮かべてくれた、あの安堵の表情だった。
「じゃあ、最後の質問だ。お前は本気でこの事件に当たったか? 結果はどうあれ、あの時、考えうる最善の手段を取ったって自信はあるか?」
「ああ、本気だったさ。あの時はああするのが一番だと思った……だからやった……でも、結局アイツを助けてやれなかった……もしかしたら助けられたかもしれないのに……もっと、良い方法があったのかもしれないのに……俺は、どっかで大事な事を間違っちまったんだ……」
五代は呻くように言った。歯の間から捻り出す様な彼の声には、後悔と自責の念で満ち溢れていた。
「……もし、たら、れば、の話は止せ。お前を頼る奴いて、そいつはお前に期待していた。だからお前も本気で解決しようと頑張った……それで良いじゃないか。納得は、出来ないだろうがな」
草間は静かに。そして、年長者の優しさを持って五代に告げた。
五代は、彼の言葉にゆっくりと頷く。
「……確かに、納得は、出来ません」
「どちらにしろ、方法に正しいも間違いも無いんだ。全ての方法が正しいし、全ての方法が間違ってる。俺たちは神様じゃないんだ、方法だけで結果まで見通すことなんて出来ない……」
草間は穏やかにそう言って、パッケージに残った最後の煙草を五代へと差し出す。五代はおずおずと手を伸ばし、その最後の一本を受け取り、火を点ける。
「今納得できないなら、次に納得できるような答えを出せば良い……今度の失敗から学び取って、次の機会に同じミスを犯さないことが、最大の罪滅ぼしじゃないか?」
ゆっくりと煙を吐く、五代を見下ろしながら草間はそう言った。そして、五代は草間を見上げて呟くように言った。
「……傲慢な話ですね」
「ああ、人間てのは傲慢だ。自分に都合の良い様に考える事でしか自分を正当化できない……そういう生き物だ」
草間は仏頂面でそう言った。だが、その仏頂面の仮面の下にもっと別の、どこか悲しげで、それでいてあらゆるものを愛しむような。そんな本当の意味での「大人の顔」を五代は見た気がした。
草間からブラインド越しに差し込む夕日へと視線を逸らしながら燻らせる煙草は、いつも以上に苦かった。
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