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忘却陽炎
京都のとある河原沿いに、趣き深い料亭があった。穏やかに行過ぎる時と共に、朝と夜を幾度も越えて――蛍の飛び交う季節、老舗として名を馳せる『琳琅亭』は顔を変える。
あの世とこの世の境の一つであるそれの裏の顔を知る者は少ない。
今では早々お目にかかれない淡い光虫が最初の目印。そして涼やかなる鈴の音が合図。料亭は幻想の合間に変貌を遂げる。
此度も灯火を乗せて舞う蛍の中、玲瓏なる鈴の音が小さく鳴った。
軒先に腰掛けていた『琳琅亭』の主人は、ゆっくりと立ち上がる。
現世では有名料亭所、あの世では御霊御用達の御茶屋。そしてその二つを引き結ぶ――
『蛍の風鈴屋』が、開店する。
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夜と呼ぶにはまだ早い、けれど確実に迫る闇の中、セイ・フェンドは店先に立った。今ほどまで料亭然としていた店が今では全く別のものとして映る。背後に吊るされた数え切れない程の風鈴は、どれ一つとして同じ音を零してはいない。けれどけして耳障りな事は無く、美しい調和のもとに揺れていた。
サングラスをかけた色黒の強面が、ふいに視線を固定する。
視線の先には、空中に瞳をさ迷わせる男が居た。どこか浮世離れした、まだ若い――青年とも言えそうな男は、珍しそうに蛍を追っている。
「蛍ってのは肉食でな。惚けてると喰われるぜ?」
からかい混じりに声を掛けると、男は感情の乏しい瞳でフェンドを見た。
余程の事が無い限り近づきたくない部類の外見を持つフェンドだったが、男にとっては脅威を覚えるものでは無かったらしい。
「此方、蛍の風鈴屋ですね……?」
確信に満ちた静かな言葉に、フェンドは口角を引き上げて笑みを作った。
「いらっしゃい。立ち話も何だから、中へ入んな」
誘うように体をずらして、店内への道を開けると男は一礼の後足を踏み入れた。
一緒に蛍が侵入を果たし、男はまた目を奪われる様に動きを止める。
そんな男を尻目にフェンドは湯呑みを二つ用意した。湯気の立ったそれを男に手渡し、座るように促してから自身も彼の前へと腰掛ける。
男は一口飲んだ後、丁寧に自己紹介をして。
「先日こちらの噂を聞きまして、それを頼りにやって参りました」
男は風鈴屋に訪れたわけを訥々と語り出した。
「僕には、小学生に上がったばかりの娘が居ました」
「娘?」
「はい。二十の頃に生まれた子供で……妻を、その時に失いました」
控えめに微笑むその男は、儚く今にも消え入りそうに見えた。そういう、どことなく不思議な雰囲気を持っている。
「男手一つで、四苦八苦しながら娘を育てました。時には何かを犠牲にしたり、後悔に襲われたり――それでも、幸せだったんです」
両手で握られた湯呑が小さく軋んだ。
フェンドはただ静かに、男の話に耳を傾けた。
男の両親は遠い昔に亡くなっていて、妻の両親の助けを借りながらの生活ではあったが、何とか穏やかに時を過ごしていた。けれどある時、自分と娘の両方に病気が見つかった。それは男の方が深刻だった。
「妻が、体の弱い女だったんです。生まれつき心臓に欠陥があって……娘の方も少々心臓が弱い、との事でした」
「それで、お前さんの方は?」
俯く男に先を促す。
「働き詰めで体をおかしくしたのが原因で、血液が上手く巡らなくなってしまって、その影響で脳に障害が残りました。――記憶を、どんどん失っていくんです。昨日あった事すら朧で、昨日見た風景すら、まるで陽炎の様で――」
言いながら、また男は笑った。どうして良いのかわからない、そんな感じだった。苦笑でもあったし嘲笑でもあったし、虚ろでもあった。
「ちょっとした事が、思い出せないなんて理解出来なかった。その時の僕は、それをちっとも深刻ととっていなかった」
ただ、忘れっぽいだけなのだと。そうして悪夢はやってくる。
少し不便だが、男と娘の生活は余程の違いが無いままに過ぎていた。男は物書きで全てをデーター保存していた。故仕事に支障は無かったし、記憶を失う事の弊害は大きくないのだと――刻一刻と薄れていく記憶の中で両親や妻の事すら欠落している事実に気付けないでいた。けれど自覚が無いのだから、失われる想い出すら在った事を失念する。
娘が小学校に上がり、入学祝に娘が欲しがっていた犬を飼う約束をしたという。娘がペットショップで見つけたお気に入り――その子犬を飼おうと約束したのにも関わらず、男は忘れたのだ。その自覚も無いままに。
「僕は学校帰りの娘とペットショップで待ち合わせをしていたんです。けれど僕はそれを忘れ――あろう事か、その日帰宅の遅くなった娘を怒鳴った。娘は僕を信じて店で何時間も待ち惚け――肝心の犬は、買われていってしまって。娘は泣きながら、家を飛び出して行きました。けれど僕には何の事かわからなくて……今となっては、その日の事すら記憶に無い。ただ、娘の友人から、娘の死後に聞いた話でしかなくて……」
飛び出した娘は、心臓の発作でこの世を去った。
「娘の顔も写真の中にしかない。それを、自分の娘だったのかと首を傾げてしまう事だってある。それなのに、どうしてか――この胸の痛みだけは消えないんです……」
今や男の瞳からは滂沱の涙が流れている。男の頬をなぞり、空となった湯呑へと落ちて小さな音を零す。空虚に響いたそれが、男の心その物にすらフェンドには思えた。
けれどフェンドはその場限りの慰めを与えたりはしない。それは無意味だし、”此処”を訪れる者の望みで無い事も良くわかっている。
だから、望むモノも良く理解している。
男の肩を軽く叩き、店内に吊るされた風鈴の中から一つを手にとって。
男の涙に濡れた瞳が、期待と怯えを持って風鈴を見た。
乳白色の下地に、薄い、波紋の様なモノが描かれている。
それがリィン---と、微かに音を零す。
「お前さんの見たい結果か、悪い結果か――どちらにせよ、死んだモンは帰っちゃこねぇが」
俯き目を逸らす男に、フェンドは淡々と告げた。
「何せこの風鈴は、天寿を全うした奴の記憶の欠片を受け継いで作られるもの」
フェンドの両手が男の頬に当てられ、男の意思とは関係なく彼の視線は風鈴を真っ直ぐに捉えた。
「言い方は悪いが、死ぬべくして死んだ。決められた結果、違う未来はねぇ」
男の瞳に最早涙は無い。けれどフェンドを見ているわけではない。
突如風鈴から流れ出た半透明の映像に、目を奪われていたのだ。
『お父さんなんか嫌い!!! 大っ嫌い!!』
新品のランドセルを背負った少女が、癇癪的に叫んだ。憎悪の瞳を涙で濡らして、唇をかみ締める。
『嘘つきぃっ!!』
スカートの裾を握り締める指に更に力が篭ったのが分かった。分かったや否や、少女の体は玄関を飛び出ていた。
――場面が切り替わる。
暗くなった公園の電灯の下、赤いランドセルが無造作に投げ捨てられていた。少し離れたベンチには、胸の上に手を当て苦しそうにもがく少女の姿がある。
不規則な息を吐き出しながら、苦痛に歪められる顔。涙がぽろぽろと止まらない。
『だ、れ………か…』
呻く声は無常にも、闇に吸い込まれる。古びた公園に人間は愚か、猫や犬の類も見受けられなかった。
『――お父さ……おとーさぁん……っ』
青白い肌に死相が過ぎる。震える四肢を支えようとする腕にも力は入らず、少女は半ば転げるようにしてベンチから落ちた。
『うえぇ……おと……――おとぉさぁんっ…』
ベンチには薬と思われる赤と白のカプセルが散らばっている。それが彼女の口に運ばれたのかどうかは伺い知れない。
フェンドの背後で男が呻いた。
「あ……あぁ……」
男の手を離れた湯呑が、床に落ちて砕けた。けれど男の目は真実から離れない。
――場面は、変わる。
少女の体が車の後部座席に横たえられている。息遣いは荒いが、それはどこか落ち着いている様に思えた。けれど彼女の表情に生気は薄れきっている。
ぼんやりとした瞳が何かを捉えているとは思えない。
そして運転席で必死に少女の名を呼んでいるのは、今フェンドの目の前に居る男だった。
『お、父さん……?』
少女の言葉は声にはならない。だから、険しい表情でハンドルを握る男の耳には届かない。
けれど変わりに、現実の男が何だ?と呟いた。
『――ごめ…なさい…嫌いなんて……ぅそ、だよ』
少女が微かに微笑んだ。やはり、朧な男の影は反応を示さない。
それでも現実の男の瞳には、瞬間涙が盛り上がった。
『――大好き――』
そうして少女は、生涯の幕を閉じた。
「謝るのは、父さんだろ……っふ……ごめんなぁ……ごめっ――」
掌に顔を埋めて、男はしゃくり上げながら言った。後悔というにはあまりにも悲しい。 忘れてしまった事が。思い出せない事が。温もりや笑顔や、優しさや――君の一分一秒を。
そうしてまた、忘れていってしまう事を。男はただ謝った。
フェンドの無骨な手が、ただ静かに、優しく、男の頭を摩った。
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「有難うございました」
赤く腫れた目元を押さえながら、男は深く頭を垂れた。彼の腕には風鈴を結んでいた赤い紐が結ばれている。
風鈴は記憶を語った後砕けて消えてしまった。
故に紐を所望された時、フェンドが否と答える理由は無かった。フェンドの扱う風鈴がこの世に一つと同じものが無い様に、それを吊るす紐もまた、世界に一つだった。
家族としての思い出を持たない分、その繋がりがあまりにも儚い分、それぐらいのよすがはあっても良いと思うのだ。
今痛む胸も愛しむ気持ちも、それは想いの一欠けら。すぐに時の傍流に消えてしまっても、夢と薄れてもおかしくない一瞬でしかないのだから。
けれどその刹那が。
時として永久よりも勝るのだ。
男の心の中に根付いて失われないように、きっと。
「気をつけて帰りなよ」
辺りは既に暗闇。蛍も何処かへ去った様だ。フェンドは手首でサングラスを押し上げながら、素っ気無く笑った。
頷いて男は、二度と振り返らずに闇に消えた。
彼は気付いているだろうか。現世へ戻った後、もう二度と風鈴屋に繋がる道には出会えないと。
わかっていたから前を見据えていたのだろうか。知らないから手を振りもしなかったのだろうか。
フェンドは掻き消えた男の背中を思い、ため息をついた。
そして、ああ、と納得顔で頷いた。
「想いってやつぁ、蛍に似てるな」
スキンヘッドの後頭部を掻きながら、天空に舞い上がった独りの蛍を見上げる。
刹那を生きながら、けれど永遠に心に息づくその姿は、だからこそ美しく、人の目に映るのかもしれなかった。
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