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非科学事件 ♯7
名もない日の昼下がりは、程よい陽気につつまれていた。夏にしては涼しい日だ。そんな日に、授業が午前中に終わって、明日から土日だというのだから――普段から明るくごきげんな彼女も、より一層ごきげんになるというもの。
さすがにスキップをする歳ではないが、鼻歌はかすかに漏れている。
さて、今からどこに行こうか、誰と会おうか。
橘沙羅の予定が埋まるのは、これからだ。そんな週末があってもいいだろう。
鼻歌は東京の雑踏をかき分けていくのだ。すべてが鼻歌と共にあってもいい。小さなメロディの存在に難癖をつけるものがどこにもいなければいい。橘沙羅の歌をおびやかすものはなにもない。
「あ――」
けれど、彼女は足を止めて、赤い瞳にその姿をとらえた。
「瀬名さん……?」
そこは、瀬名雫という高校生が贔屓にしているネットカフェの前。そのネットカフェを知る者の多くがそうであるように、沙羅も、瀬名雫とは何度か会って話をしたことがある。彼女から伝わってきた不思議な事件や、奇怪な事件に関わったことも。
興味を惹かれる事象にとりつかれてしまいやすい雫だが、沙羅は彼女に悪い印象を持っていなかった。話していれば時間を忘れたし、その行動力に舌を巻いたこともある。
その瀬名雫が、背の高い初老の男を見上げて笑いかけ、男の腕をとってネットカフェに入っていったのを、沙羅は見た。
――あの男の人、誰だろ……? 瀬名さんのおとうさん……かな?
また何か、面白いことが起きるのかもしれない。
今日の予定はなにもない。
橘沙羅は、雫を追ってネットカフェに入っていた。
ネットカフェの入口をくぐった直後、予想はしていたことだが、早速沙羅は雫につかまった。きゃあきゃあと笑い声を上げながら、雫は挨拶もそこそこに、沙羅を初老の男の前に引っ張っていった。
「沙羅ちゃん、物見さんに会うのは初めてだよね! ね!」
「う、うん」
「この人がね、物見鷲悟さん。うちのサイトの常連さんなの。でね、帝都非科学研究所ってところで怪奇事件の調査とかやってるんだよ。――物見さん、あたしの友達の橘沙羅さん。歌がすっごく上手なの! で、かわいいの!」
はしゃいでいるのは雫ばかり也。沙羅はおろか、紹介された初老の紳士も半ばきょとんとしている。
沙羅は幼稚園の頃からずっと、『女の園』で育ってきた。想い人が出来てからも、まだ男性一般と接するのがすこし苦手なままだ。ただ、物見鷲悟という男は、そのたたずまいや年の頃から、どこか「教師」じみたものを感じさせる人間で、沙羅はさほどの警戒心を抱かずにすんだ。物見はあまり笑わない男だったが、物腰はひどく落ち着いていたし、低くやさしい声を持っていた。
雫が席を外したとき、物見はようやく笑みを浮かべた。すこしこまったような、小さな笑みだ。
「瀬名君は捕獲能力にも長けているようだ。きみも捕まってしまったようだね」
「はい。……あ、ちがうな、沙羅は自分から寄ってったから、つかまって当然です」
「瀬名君を知っていて、瀬名君に引き寄せられるということは……きみも怪奇事件に興味があるのかな」
「こわいのは、苦手ですけど……不思議なお話は、大好きです」
「ふむ。健全だ。……あ、いや、瀬名君が異常だと言いたいわけではないのだが」
「ふふふ、わかりますよー」
「あー、ひどーい! ふたりとも、あたしの悪口言ってたでしょー!」
「!」
「!」
物見と沙羅がまったく気づかぬうちに、雫はもどってきていた。物見はわずかに、その黒い目を見開いて、1杯100円の紅茶を噴きかけていた。
雫のふくれっ面を受けて、物見と沙羅はまるで親子のように息が合った反応をみせた。顔の前でぶんぶんと手を振り、首を横に振ったのだ。
「「言ってない言ってない言ってない」」
「だったら何でそんなあわててるのー?! 立派な状況証拠だよ! 有罪判決だかんね! 罰として物見さん、なんかネタちょーだい!」
「罰を受けるのは私だけかね」
「沙羅ちゃんはかわいいから許すの!」
「そうか、私は可愛くはないからな」
「納得しちゃうんですか物見さん……」
物見はしかし、罰を罰だとは思っていない素振りで、抱えていたファイルを広げた。ネタがないわけではないのだ。それにどのみち、『罰』を与えられなくとも、瀬名雫につかまってしまえば怪奇ネタをひとつふたつ披露しなければならなくなる。物見は眼鏡を直して資料をめくり、――ふと、沙羅の顔を見た。
「橘君は歌が得意だったな」
「得意っていうか、好きなんです」
「ふむ。ちょうどいい事件があるよ、瀬名君」
「え、どんな?」
「歌が関係した事件だ。まだ未解決でね。――橘君、よければ週末、調査に協力してもらえないだろうか? 私と二人きりで調査というのは問題だろうから、瀬名君と三人で」
週末の予定がなにもないことを、沙羅は思い出す。
横を見やれば、雫がきらきらしたまなざしで沙羅を見つめていた。
沙羅は笑顔で頷いていた。
「行きます!」
翌日、駅に集合した3人――中年ひとりに女子学生ふたりというめずらしい組み合わせだ――は、のどかな初夏のローカル線に揺られて、山間の小さな町にたどり着いた。いや、駅の出入り口には「ようこそ羽入町へ」という錆びた歓迎のサインが掲げられていたが、村と言ったほうがふさわしいような、立派な田舎だった。
「ここ、なんていう町なんですか?」
「はにゅう、と読むらしい」
物見は資料をめくって答える。雫と沙羅はピクニックスタイルだったが、物見は昨日とまったく同じ、黒スーツにこぎれいなシャツといったいでたちだった。
「ここでどんな事件が起きてるの?」
「日が沈んだ頃に『かれら』が歌いだす。場所はあの山のふもとだ。歩きながら説明しよう」
物見は西にある山を指した。緑に囲まれた、何の変哲もない山だ。歩いていけば1時間あまりはかかるかもしれない。しかし、町を囲む緑がさわさわと風を呼んでいて――春先のように涼しいのだ。歩きたくなる日和であり、町だった。
「途中でお弁当食べましょう! 沙羅、つくってきたんですよ」
「わー、賛成!」
「おお、それは助かった。いま私の全財産は981円なのだよ」
「……帰りの切符代ギリギリじゃない……今晩からのごはんどうするの、物見さん」
「どうしよう」
――も、物見さんて貧乏だったんだ……。
スーツをかっちりと着こなし、物腰もどこか優雅な物見だ。とても財布の中身が1000円以下の貧乏人には見えない。沙羅は物見を見上げて、自分の分の弁当も物見にゆずろうと考えた。
物見が『現場』だという山のふもとには、日が傾きはじめた頃に到着した。森の入口が見える草原だ。そこで弁当を広げて腹ごしらえをしているうちに――沙羅は、異変に気がついたのだ。
とてものどかだ。初夏のピクニックにふさわしい天気に、清々しい香りを運んでくる風がある。とても遠くから、ローカル線が行く音が届く。音もなくモンシロチョウが飛び、低い唸りを上げてミツバチが花から花へと渡る。
「物見さん……」
「ん? 唐揚げもいい味をしているよ」
「そ、そうじゃなくって。……へんですね」
「おや。何か気がついたかな」
「鳥……」
玉子焼きをつついていた雫が、ぴくりと顔を上げた。
沙羅は、耳をそばだてて、赤い目を泳がせる。
「鳥の鳴き声が、ひとつも聞こえない……」
ぱたぱたと、どこからともかく、小さな足音が集まってきた。物見はさっと箸をとめ、雫と沙羅に手招きをする。
「今日は来るのが早いようだ。森の入口を見てくれ」
森の入口に、次から次へと集まってくるのは、小さな子供たちだった。奇妙なのは、彼らがみな同じような色合いの服を着ていることだった。白と黒のコントラストが美しい、Тシャツと短パンだ。Тシャツには灰色と赤のボーダーが入っている。年の頃は皆同じようだった。ともすれば、この町の小学校の生徒なのかもしれないが――不可思議なのは、揃った色合いの服だけではない。かれらは皆、髪が臙脂色だった。
「うたはみつかった?」
「まだ、ぜんぜん」
「どうしよう」
「れんしゅうしようよ」
「でもさあ、うたがわからなかったら、れんしゅうしてもいみないよ」
「そうだよ、ぜんぜんそろわないし」
「どうしよう」
「また、うるさいっておこられるよ」
「でも、ぼくらがうたわなかったら、みんなうたわないんだよ」
「うたおうよ、とりあえず」
「れんしゅうしようよ」
かれらの会話は、聞き耳を立てなければ、小鳥がぴいちくぱあちくとさえずっているだけのようにしか聞こえない。はじめはばらばらだったかれらだったが、そのうち、声を揃えて歌いだした。
「ぅきゃっ」
「ひぇっ」
「これはひどい」
ぎゃあ、ぎゃあぎゃああああぎゃうああああ、きゃうきゃうきぃきぃいいいい、がちゃがちゃぎいぎい、ぎゃあ、うぎゃぎゃぎゃぎょぎょぎょぎょぎゃぴいぴいぴい!
ぎゃあ! ぎゃあ! ぎゃあ! ぎゃあ!
それまでまったく聞こえなかった鳥の声が、いまやひどい騒音になって、羽入町を駆けぬける。赤い髪の子供たちがてんでばらばらにわめき散らしているのだ。しかし彼らは、歌を歌っているつもりらしい。きちんと並んで、背中で手を組んで、暮れなずむ青空に向かってさえずっているのだ。
「こ、これが怪奇事件なんだね、物見さん!」
「かれらは歌を忘れてしまったのだ。一度に親を失ってしまったから、教えてくれる者がない。歌い方さえ覚えさせられたら、この騒音もやむはずなのだが」
「あ、あの子たち、何なんですか?!」
「この町には、ハニュウカラという珍しい鳥が住んでいる。昔からこの町では、そのハニュウカラの歌に続いて、他の鳥もさえずりはじめる『規則』があるらしい。ハニュウカラが正しい歌を歌わない限り、どんな鳥も鳴くことが出来ないのだよ」
「じゃ、あの子たちは――」
「橘君。鳥に歌を教えてやってくれ。正しい歌とはどんなものなのか――歌のあり方を教えてやってくれ。ハニュウカラの歌は、かれらの遺伝子の中に組み込まれているはずだ。彼らは楽譜を持っているのに、しまった場所を忘れている。かれらに気づかせてやってくれないか」
物見の答えは、はっきりとしたかたちを持っていなかった。
しかし沙羅は確かに頷き、立ち上がって、大きく息を吸い込んだのである。
Amazing Grace. How sweet the sound
That saved a wretch like me.
沙羅の声と歌が、草原を駆け抜けて風を呼んだ。風が生い茂る草を薙いだ。草が覆い隠していたのは、無数の切り株である。
草原はつい最近まで、森だったのだ。森の入口はもっと町の近くにあった。
かれらに歌を教えていた親たちは、森の入口とともに薙ぎ倒されてしまったのだろう。
黒い目が、さっと動いて沙羅を見た。
臙脂色と白と黒が、ぱっと散る。
I once was lost, but now am found,
Was blind, but now I see.
かれらはわすれていたが、いまはもう思い出せる。
「これ……聴いたことある……」
「アメージング・グレイスだな。橘君は……賛美歌を歌えるのか……」
橘沙羅が見たのは、赤く焼けてゆく空と森に向かって飛び去っていく、見たこともない小鳥たちだった。騒音はすでにない。しかしこの町に来てからずっと聞こえなかった鳥の声が、どこからか聞こえてきた。
風の声にも負けない声は、羽入町を覆った。多くにしてひとつなる声は、力強く大きな声のようだったが、騒音とはまるで違っていた。そのとき外に出て鳥のさえずりを聞いたのは、3人だけではないだろう。
「……すばらしい歌だった、橘君」
鳥のさえずりを聞きながら、物見がはっきりと微笑んだ。
「弁当の味もすばらしかったよ」
「物見さん。沙羅……役に立てたかな」
「もちろんだ」
「でも……」
「次の年には、かれらが親になる。かれらが歌を伝えていくだろう。途切れかけたものはきみが繋いだ。きみは充分、かれらを救ったよ」
ざ、ざ、ざ、ざ――
さえずりがかき消す風の音が、切り株を撫でる。
どこからか、カラスの鳴き声が聞こえてきた。空はいよいよ燃えて、一日が終わり始める。
「よっし、帰ろっか!」
だまって森を見ていた雫が、ようやくいつもの明るい声を出した。
3人は森を背にすると、カラスの鳴き声に導かれながら、週末の帰路につく。
橘沙羅は、一度だけ振り返った。
ハニュウカラが一羽、街灯のてっぺんにとまって、3人を見送っていた。
<了>
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非科学事件調査協力者
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【2489/橘・沙羅/女/17/女子高生】
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物見鷲悟より
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やあ、橘君。先日はどうもありがとう。
羽入町の人々も安心しているようだ。春先の一斉伐採からずっと、あの騒音続きだったそうだからな。
かれらがあの姿で歌の練習をしていたのは、きっと、誰かに気づいてもらいたかったからだろう。人間も歌を歌えることを、知っていたからだ。……昨日の昼間、ハニュウカラが一羽、私の研究所にやってきてね、居座っているんだ。きみに礼を言いたいのではないかな。一度来てもらえると嬉しい。
ん、食事かね? ああ、なんとかやりくりしているよ。
大丈夫だ。
では、また。
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