|
「blind summer fish」
――なぁに? 私の話?
聞きたいのなら、先にお名乗りなさい。そうね、ひざまずいて、手をとって口づけを落とすくらいの余裕が、欲しいところね。だって、あなた、私の過去を知りたいっていうんでしょう?
――いいわ、そこへおかけになって。あなたのご質問には、彼女にお答えいただくわ。年齢は、十六歳。清楚な黒髪を肩まで伸ばし、スタンドカラーの白いブラウスの上に別珍の濃紺色ジャンパースカートを着て、こげ茶色のバイオリンケースを抱えている、いかにも良家の子女といった佇まいの、あの女の子。誰だかわかる? ――そう、私。あれが、十六歳の、九音奈津姫よ。
まぁ、開いた口がふさがらないって顔ね。でも、無理もないわ。まるで別人だものね。実際、あの頃の私と今の私は、別人だといっても間違いではないの。
詳しい話は、彼女に任せるわ。さぁ、話して頂戴、十六歳の奈津姫ちゃん。優等生でお嬢様のあなたに、一体、何が起こったのか……。
◆
幼い頃の私の、最も古い記憶は、三歳の夏の日です。私は、赤い革の腕時計に何度も目をやりながら、坂道を上っていました。お茶のお稽古の帰り道でした。五分後には、声楽の先生が、うちへいらっしゃる。それに間に合うよう、必死でした。当時の私は、十四種類のお稽古を掛け持ちして、父の組んだスケジュールに従い、分刻みで行動していましたから、腕時計なしでは生きられない毎日を送っていたのです。
近くで夏祭りがあるらしく、日の沈みきらないその時間から、浴衣姿の子どもたちが嬌声をあげながら、通りを走り回っていました。私には、お茶に声楽、お習字と、ガチガチに固められた予定が目の前に鎮座しておりましたから、夏祭りのことなど、構う暇がありませんでした。汗の止まらない坂道を黙々と進んでいました。そのときです。鮮やかな朱色の金魚の入った透明の袋を片手に提げた、金魚柄の白い浴衣を着た女の子が、前方の曲がり角から現れたのは――。
その女の子に、私は見覚えがありました。お琴のお稽古で、いつも私の前の時間にレッスンを受けている少女。先生からは、私と同い年だと聞いたことがあります。傾きかけた日の光を浴びて泳ぐ金魚はまるで、マーマレードを溶かした紅茶に沈む、イミテーションのルビーのようでした。それを、なにかとてつもない宝物のように抱えながら、そろり、そろり、と、彼女は歩いているのです。私は思わず足を止めました。彼女の赤い鼻緒の黒い下駄が、カラン、と鳴る音を聞きました。汗は止まらないのに、胸の中が、急激に涼やかになっていくのを感じました。そろりと歩くその背中に、声をかけたい衝動を覚えました。ちょっと待って、素敵な金魚ね、私にも見せて――。そんな台詞が口をついて出そうになり、私は衝撃を受けました。それは今にして思えば、「あの女の子とお友達になりたい」という感情だったのですが、当時の私は、それすらも、理解することができませんでした。私はお友達を作ったことがありませんでした。いなかったわけではありません。父と母が、選び抜いたエリートの少年少女たちを、私のお友達として、紹介してくれていましたから。そう、私にとってお友達とは、「作るもの」ではなく、「お父様とお母様が選び、与えてくださるもの」だったのです。
あの日の金魚の少女は、由緒あるお屋敷の立ち並ぶこの界隈に住む、やはりどこかのお屋敷の令嬢でした。しかし、父と母は、彼女の家はただの成り上がり、成金だと、大層毛嫌いしておりました。やがて学校に上がる歳になった私は、彼女と同じ学校へ進学しましたが、彼女に近づくことは許されませんでした。そのことに、疑問を抱かなかったわけではありません。しかし、私の世界は、赤い革の腕時計を中心に回っておりましたから、疑問を抱く自分が、どうかしているのだと思いました。自らに嵌った足枷に気づかないまま、必死に翼を広げる愚かなカナリヤ。ええ、それが、私だったのです。
転機は、十四歳の夏に訪れました。私は相変わらず赤い革の腕時計を見て、汗の止まらない坂道を上っていました。その日は夏祭りがあるらしく、まだ日の沈みきらない時間から、浴衣姿の子どもたちが通りを走り回っていました。そのときです。片手に金魚の形をした鞄を提げた彼女が、前方の曲がり角から現れたのは――。
あまりの既視感に、私は眩暈を覚えました。傍を通り過ぎようとする彼女に、思わず叫びました。
「――待って!」
彼女は不思議そうに立ち止まりました。私は、自らが呼び止めておきながら、ただ呆然と立っているだけでした。何故なら、その瞬間が、私が両親の命に逆らった、生まれて初めての経験だったからです。
「あぁ、九音さん」
彼女はそういって微笑みました。
「ねぇ、九音さん、今から、暇?」
わけもわからず、私は頷きました。そして、チケットが余ってるの、という彼女に連れられて、「God's recipe」という劇団のミュージカルを見に、劇場へ行くことになりました。正直にいって、何がなんだか、わかっていませんでした。どうして私、お能と、語学と、ソルフィージュのお稽古をサボタージュして、真っ赤な緞帳のかかった劇場に座っているのかしら……。そう思った瞬間、幕が開きました。
この世で最も熱いものって、一体、何でしょう。そして、この世で最も冷たいものって? その両方を、いっぺんに、頭からぶちまけられたような心地でした。床を這い、壁を伝い、天井を撃ち落すかのような力強い歌声が、砲弾の如く、舞台から客席へと撃ち込まれるのです。しなやかに舞い踊る役者たちの、あの動作、あの表情、あの美しさ! それはまるで、遠い昔のあの記憶、日の光を浴びて泳ぐ、キラキラと輝く宝石に似た金魚を思わせるのです。
幕が降りたとき、私は口の聞けない子どものようでした。身体がぶるぶると震えていました。見つけてしまった。幼い頃、私が憧れた、キラキラと輝く宝石のような金魚。これだ。これこそが、私の宝石、私の金魚。見つけてしまった、これが、私の道……!
あれから二年が経ちます。私は相変わらず、赤い革の腕時計に引きずられる毎日を送っています。けれど、私は今、腕時計を外し、こげ茶色のトランクに荷物を詰めているのです。右手には、God's recipeの事務所の地図が握られています。本当は、ピアノの練習と、語学の課題をやらなければならないのです。私は何をしているのでしょう。このトランクを持って、どこへ行こうとしているのでしょう。私は、私は……。
◆
――はい、有難う。十六歳の奈津姫ちゃんのお話は、これで、おしまい。
――なぁに? 続きが知りたい? 語る必要があるの? テレビをつければ、God's recipeの看板女優という肩書きと一緒に、私の映像が絶え間なく流れているわ。それで十分じゃなくて?
――成功? そうね、世間的にいうならば、私は成功者の部類に入るのかもしれないわね。でも、ねぇ、あなた、聞いたでしょう。十六歳のの奈津姫ちゃんのお話を。彼女があの日、自分の「金魚」を見つけなければ、私は今、ここにはいないわ。大事なのはそれだけよ。成功なんて、関係ないわ。私が「私」になれたことが、重要なのよ。
私の話をここまで聞いたあなたなら、もう、わかっているはずよ。
〜FIN〜
|
|
|