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<東京怪談ノベル(シングル)>


波の間に間に


 ざざざ、ざざ、ざざざざ……。
 波の間に間に月がたゆたう。
 天頂に晧々と輝く夜の女王は、海の女王。
 水面はこぞってその姿を真似て輝きを増す。
 真白い浜の細かな砂さえ、今は月の輝きに照らされて淡い光を放っているようだ。
 白浜の端の岩場から伸びた木橋が海上のコテージと島とを結ぶ。
 その窓から海を眺めるのは、やはり月を思わせる少女だった。
 流れる水のように胸元まで流れる銀の髪が風に揺られてさらりとなびく。真白い少女だ。しかしその瞳だけは朝方の清々しい青。その瞳を月から隠すように細い腕が空に掲げられた。
「なんて綺麗……」
 ため息のような言葉がこぼれる。月がこんなにも明るいなんてメイカはここに来るまで知らなかった。
 満天の星空を期待してもいたのだが、今宵は満月。満ちた月の輝きに可憐な星々はその姿を隠してしまっている。しかしそれもまた美しい夜空であった。
都会の明るさとは比べ物にならない。しかし、この夜は暗くない。月はこんなにも明るいものなのだ、とメイカは改めて思う。例えばマイナス何等星なんていう表現よりもこの夜空は雄弁に月の明るさを教えてくれていた。
「データだけでは判らない事もあるのですね」
 勿論この島を見つける事が出来たのはそのデータを駆使するコンピュータのおかげだ。
 夏休みのレジャーを探す時にメイカは彼女が慣れ親しんだ寒い北の地方よりも暖かい南を選んだ。――もっともこれほど暑いのは計算外で夜になるまで少しバテ気味だった。
 手付かずのままの自然が楽しめる場所。それがメイカの探した場所だった。そうなると当然、メジャーな観光地にはいけず、飛行機を降りてからも、長い時間船に揺られて、さらに乗り継ぐ羽目になった。
そのお陰か、彼女が今いる場所には人影はほとんどない。個人所有のこの島は全体で一つのホテルとも言うべき仕立てになっていて、スタッフがいる棟や食事の出来る場所、スパなどは中央に集中しており、島の周囲に点在するコテージが客室になっている。。
メイカのいる場所からは他のコテージを見る事は出来ない。中央に出向けばそれなりの人数がいる事が判るが、今この場所ではメイカ一人きりだ。
 貴方専用の浜と海をご堪能下さい。
 その謳い文句は正しい。今この光景を見ているのはメイカただ一人なのだから。
「でも、少し贅沢すぎる気もしますね」
 ふふ、とメイカは笑みを浮かべる。この感動を誰かと共有出来ないのは少し残念だった。
 それが少し残念で、そして少し誇らしい。
 今日この夜をメイカは絶対に忘れないようにしよう、と思う。この光景を守りたいと思うのは大げさだけど、『地球を守ろう』よりも判りやすい。この光景の為に少しづつ努力していこうと心に誓った。
 ぽーん、ぽーん……。
 柱時計が声高に深夜に差し掛かる事を知らせた。メイカはその音に振り返り、椅子にかけた薄手のショールを羽織った。ランプを片手に持ち誰にともなく告げる。
「そろそろ行きましょうか」
 ドアを開くとそのすぐ脇に繋がれている船を見遣った。
 硝子の舟だと初めて見た時、思った。触れればそうではない事が判ったのだが、でも今見てもやはり硝子の舟だと思う。
特殊な素材で出来ているその舟の櫂もまた透明だ。そしてシンプルな形の舟の底には大きな四角い水槽のようなものが海中に突き出している。これによって少し深い位置から海を見渡す事が出来るのだ。
勿論舟自体も透明なのだから、同じように海を見渡す事が出来る。昼間に乗った時には人懐こい魚がメイカのすぐ側まで来て、近づけない事を不審に思うかのように透明な壁をつついていた。
「素敵な舟……海と何の隔たりもないような気分になれそう」
 舳先をそっと撫でると、メイカは慎重に舟に乗り込んだ。ランプを縁から付き出した形の台に設置すると櫂を手に取る。
ロープを解かないのは、この岸からはぐれない為だ。珊瑚の壁が遠く島を囲んでいるからそれ以上外に流される事はない。まして、こんな夜中に流されでもしたら助けを求める術もないのだ――だからロープは解けない。遠浅の海はメイカにとって、安心して船出出来る環境でもあったが、必要以上の危険を冒す必要はないのだ。
 しかしそれに落胆する必要はなかった。
 舟とコテージを繋ぐロープは随分と長いもので、それなりに沖の方まで出る事が出来たからだ。
 そうして、メイカは月が泳ぐ波間へと舟を滑らせる。
 櫂から弾けた水の雫は飛んで水面の月を崩す。舟もまた水面にその軌跡を知らせ、波が揺れる。
 その光景が何故だか楽しくてメイカは岸辺のロープが彼女の船を引っ張るまで櫂を休める事はなかった。
 櫂を一度上げてからメイカは遠くなった島を眺める。明かりがほとんどない島はそれでも月に照らされて、木々の緑と浜の白をメイカに知らせた。
「昼間見た時とは随分印象が違いますね」
 昼間の明るい島を思い起こしてそう呟く。勿論メイカはそのどちらも好きだ。
 ランプを手に取ると、船底にあいた穴にそっと足を伸ばす。まるで海の中に沈もうとしているみたいだ。水が体に触れる事もなく、彼女は海に入り込んだ。少し手狭な事を除けば、そこは快適な水中だった。何せ呼吸に困る事もない。
しかし、メイカはそんな事には思い至らずに息をのんだ。
 月明かりに照らされた水底で、色とりどりの珊瑚がそれぞれの美しい形を競い合う。
 細く海上を目指す可憐な形。
 どっしりと広がる重厚な形。
 森のように生い茂り、花のように踊る。
 表情豊かに珊瑚は海底でその存在を主張していた。
 水の青に隠されて本当の色は見る事が出来なかったが、それは豊かな色彩だった。
 暗い夜の中でも、それらは決して彼らの色彩を忘れ、沈んだ色合いをしている訳ではない。
むしろ、精一杯の色彩を躍らせていた。限られた色彩の中でそれでも精一杯の色を見せていた。
「なんて……」
 綺麗なのでしょう。その言葉はメイカの胸の内にだけ響いた。それ以上の言葉は必要がなかった。メイカは手にしたデジタルカメラのシャッターを押す。ネットで手に入れたこれは手ぶれ防止機能のついた最新式のカメラだった。見ている海そのものではないにしろ、これがあれば形に残す事が出来る。思い出すてかがりにはなる。
「……あ!」
 メイカは小さく叫んでから慌てて口元を覆う。万が一にも驚かせる事がないように。
 白と黒の縦じまの魚がメイカの周りをくるりと回る。まるで紛れ込んだメイカを見学に来ているようだ。
 海の色に紛れる青い小さな魚達は遠巻きに彼女を見ているし、黄色く細い魚の群はメイカとはまるで無関係に珊瑚の側で遊んでいた。
「可愛いです……」
 楽しげに呟くメイカの側を、それ位の賛辞では足りないとばかりに綺麗な赤の魚達がすり抜けていく。
綺麗な黄色の魚は度胸試しをするようにメイカの側まで来ては引き返して、また側に来て、と繰り返していた。
 メイカはその様子に小さく笑って、透明な壁に手をついた。額をこつんと当てて少しでも海に近付いて――。
「なんて素敵なんでしょう。こんなに海が近い。……けれども」
 決して海と一つにはなれない。判っていてもメイカにはそれが淋しかった。
 魚達もまた海中に夢のように浮ぶ海の色に染まった真白い少女が彼らと触れ合えない事を不思議に思うのか透明な箱の周りを泳いで回る。
お互いを見つめあうこの不思議な光景は夜明け近くまで続く事になった――。


fin.