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生まれたての感情。
夕暮れ時の人気の無い小さな公園の端で、二つの影が折り重なるようにしていた。
「……持ってる情報、それだけ?」
地に頭を押さえつけられ、身動きを取れない状態でいるのは黒尽くめの怪しげな男。その男の動きを封じているのは曙紅であった。恐らくは、追っ手との軽い戦闘を終えた後なのだろう。
「黙っていても、いいことない。どっちにしても死ぬんだから、吐いたほうが、いい」
「………殺せ。これ以上話すことなど無い」
曙紅の言葉に男は低い声でそう答えた。死などはとうに覚悟出来ている、そんな表情だ。
「―――、…」
そんな男の態度に軽く舌打ちをした曙紅は、言葉なく彼を闇に葬る。無駄な時間をこれ以上取るわけにもいかない。人目についても困る。
「……………………」
事切れた男から離れ、曙紅は深いため息を吐いた。
以前とは、明らかに違う、自分の脳内。
どんなことよりも、やらなくてはならない事が、あったはずだ。追っ手から出来る限りの情報を聞き出し、組織に近づく事。そして恨みを晴らすこと。だから自分はどこまでも冷静で、冷酷でなくてはならない。――だが。
『――解ったか? お前のその感情が、『恋心』だ。』
何かと顔をあわせる機会が多い、一人の男に言われたセリフを思い出す。
「コイ…ゴコロ…」
ぽつ、と独り言を漏らすと、慌ててその口唇を両手で押さえた。どうやら無意識だったらしく、頬を真っ赤にして俯く。
「………………」
認めてはならない感情だった。だが、あの時、あの瞬間に――自覚してしまった。一度意識に入り込んでしまったものは、そう簡単には拭い去れるものではない。
自覚してしまったあの日を境に、曙紅は何をしているときでも気が散って集中力が欠けるようになってしまった。常に組織から狙われている身ではそれは致命的にもなる事なのだが、どうしても割り切ることが出来ないらしい。
曙紅にとっては、それが初めてになるだろう、生まれたての感情。
どうしていいのか見当もつかず、日々もどかしさを募らせる。
用は済み、後はもう部屋に帰ればそれでいいはずの今でさえ、その足が帰路へとは向かわない。
自分を出迎えてくれる者こそが、彼の生まれた感情の相手だからだ。
顔を合わせたら、何を言えばいい。視線が合ったらどんな顔をしたらいい。今までは、どうしてきた?
そんな思いが、常に曙紅の脳裏を行き来する。
今までは何事もなく過ごしてこれたはずなのに、現在ではそれが上手く出来ない。妙に意識してしまって、『普段どおりの行動』と言うものが何であるのか、解らなくなってしまったのだ。
「…………っ……」
堪らず、曙紅は足元にあった空き缶を蹴飛ばした。
それで何かが、変わるはずもない。
夏の生ぬるい風が、曙紅の頬を擽る。その風に釣られるように、彼は空を見上げた。橙に染まっていた色はもう、藍色に姿を変えようとしているところだ。
「………帰ろう…見つからない、ように」
暖かい色から寂しい色に変化を遂げる空。それを見て、自分の心にも寂しさを覚えたのか、曙紅は独り言を漏らしながら、ようやく帰路へと足を向けた。
都内に佇む、ひとつのマンション。
その5階と6階が、曙紅の居候先の住まい。彼の家主がマンション所有者で、1階から4階までは賃貸として他人を住まわせているらしい。
曙紅は人と関わりを持つことを避けているために、部屋に帰る際はエレベーターを使わずに、階段を使っていた。
コツコツ、と自分の足音が冷たいコンクリートに響き渡る。
「………………」
その音が妙に重く感じた。実際、歩みを進める足取りは重い。
(……出かけていると、いい)
心の中で、そんな事を思う。
もし出かけていなくとも、こっそりと帰り彼と顔を合わせなければいい、と勝手に浮かんできた考えを頭の中でまとめて残りの階段を駆け上がっていく。
たどり着いた扉の前で、曙紅は合鍵を取り出し、取っ手に差し込む。
「…………………」
そこから先が、なんとなくひっかかる感じがして、彼は一旦手を止めた。鍵を回すことすら出来ずにいる。
そしてこういう時の直感というものは、酷く当たってしまうものだ。
ガチャン、と扉の向こうで鍵を解除した音がしたかと思えば、次の瞬間には扉が開く。
「………!!」
曙紅は瞳を見開きながら、思い切り後退った。
「―――なんだ、帰ってきたのか。遅かったな」
扉の向こうから姿を現したのは、家主本人――眞墨だった。さして驚いた様子も見せずに、目の前にいた曙紅に静かに声をかける。
「……あ、…ぅ……、……っ…」
一人、動揺を隠しきれずにいるのは曙紅だった。
後退りをしたはいいものの、バッチリ眞墨と視線を合わせてしまったが為に、思考回路がめちゃくちゃになってしまったらしい。
「……………」
眞墨は黙って、曙紅の狼狽振りを見つめていた。
頬を真っ赤にしては、それを隠したいのだろうが両手がうまく動いていない。おまけに何かを言わなくてはいけないという思いだけが強くなってしまい、言葉にもなっていない。
これが暗殺術を身につけている闇の人間の姿だと言っても、半ば信じがたいほどだ。
「…俺はこれから仕事だ。腹が減っているのなら、適当に冷蔵庫の中のものを食べるといい」
眞墨は腕時計の時間を確認しながら、そう言う。どうやら急ぎの仕事のようだ。すれ違い様に曙紅の頭に手をぽん、と手を置いた後、エレベーターに乗り込み姿を消した。
「……………………」
エレベーターが下がっていく音だけが、響いている。
曙紅は眞墨がいなくなり力が抜けたのか、その場でへなへなと座り込み、しばらく彼が消えた方向を見つめたままでいた。
部屋の中に納まった曙紅は、しんと静まり返った広いワンフロアのリビングで、うろうろとしていた。
眞墨の目の前で、あんなふうに挙動不審な態度を取ってしまった事に、後悔をしているのだ。
きっと眞墨は『変だ』と思ったに違いない。彼が帰ってきたらどう説明するべきなのか。それとも何も言わずにいたほうがいいのだろうか。
そんな思いがグルグルと脳内を駆け巡るように廻り――曙紅はますます混乱してしまう。
「うー………………」
情けない声を出しながら、曙紅は頭を抱えて床へとしゃがみ込む。
どうかしている。
それは自分でもよくわかっている。だけど、どうしたらいのかサッパリ解らない。相談するにも知り合いなど殆どいない。
想像以上に、手に余る自分の感情。このまま捨て去ってしまいたいほど、疎ましい。
だが、捨てることは出来ない。
失ったこの恋心を取り戻したときに、『大事にしろ』と言ってくれた存在がいたから。ヒトでも動物でもない、不思議な存在に。
「………でも……」
蹲ったままでいた曙紅は、ようやく落ち着きを取り戻したのか、ゆっくりと顔をあげた。
自分自身でどうにかしなくてはいけない問題。だが、曙紅にはその術が解らない。
「…疲れた…………」
はぁ、とため息を漏らしながら、曙紅はよろよろと立ち上がった。そして目に付いたソファへとゆっくり足を運び、迷うことなくその場に体を預けた。
必要以上に悩んだせいなのか、疲れも倍以上に感じる。
横になったソファの上で、曙紅は天井を見上げた。
「……………」
これから、どうなってしまうのだろう。
眞墨のもとで、これからどう過ごしていけばいいのか。もう…前のような態度は、きっと取ることが出来ない。
そんなことを考えているうちに、いきなり睡魔が襲ってきた。
慣れない感情に、脳も体も休息を訴えてきたのだろう。
それから数分もしないうちに曙紅は、すんなりと眠りへと堕ちていってしまった。
「…珍しいことも、あるものだな…」
夜が明け、明るくなってから部屋へと戻ってきたのは仕事を終えた眞墨だった。
リビングへと足を運び、最初に目に入ったのはソファで静かな寝息を立てている曙紅の姿。
普段、窓の無い部屋で寝起きをしている曙紅しか知らない為に、当然寝顔なども見る機会も無い。
その彼が、今は眞墨の気配に気がつくことも無く、すやすやと眠っている。
「…………………」
曙紅へと視線を落としたまま、眞墨は言葉無く絞めていたネクタイを緩める。
出かける間際、物凄い動揺っぷりを見せ付けていたために、ずっとその事を気にしていた眞墨は、自分で思っていたより仕事が捗らずに、予定より随分と帰ってくるのが遅くなってしまった。
そして心配で足早に帰ってきてみれば、当の本人はこうして気持ち良さそうに眠っている。
複雑な心境であるのには変わりないのだが、それでも呆れるわけでもなく眞墨はただ、曙紅の寝顔を物珍しそうに眺めていた。
しばらくそうしていた後、部屋の時計へと目をやる。
食事を用意するにも、今からでは少しだけ遅い時刻。
どうしたものかと思っていると、ようやく気配に気がついたのか、曙紅が軽く身じろぎをして目を擦り始めた。
「……目が覚めたか」
「…ん………、…!?」
眞墨の声に、曙紅は寝惚けながら応えるが、それから急激に眠気が覚めたのか、瞳を見開いてがばりと上体を起こす。
「おはよう」
いつもどおり。無表情でそう言う眞墨に対し、曙紅は再び慌て始める。
「…ぁ、…ぅ……その…お、おは……」
眞墨の顔をまともに見ることも出来ずに、曙紅は上手く出てこない言葉を発しながらあたふたとおかしな行動をした。
そして後ろへと手を突こうと腕を持っていったときに、がくん、と自分の体が傾いたのに気がついた。
「…あ…っ」
慌てていたために、自分が寝ていた場がソファであると言う事を忘れていたのだろう。手に触れるはずのソファの生地はそこにはなく、曙紅はそのまま体勢を崩して床へと転がり落ちる。
次にくるのは衝撃だ、と思い込んでいた曙紅は硬く目を瞑り覚悟を決めた。
だが――。
訪れたのは痛みという衝撃ではなく、暖かい何か。
「……何をしている」
そして降り注いできたのは、眞墨の声だった。
「!!」
ゆっくりと瞳を開けた曙紅の視界に飛び込んできたのは、至近距離の眞墨の顔。
間一髪という所で、彼が曙紅を受け止めてくれていたのだ。
「…、……!!!」
多少、呆れたような表情ではいるが、それでもいつも変わりの無い落ち着いた感じの眞墨の顔を、曙紅は目の当たりにし、彼の腕の中で暴れ始める。
「――おい、暴れるな。それとも床に落とされたいのか?」
不安定な体勢のまま暴れられては、さすがの眞墨も困るのか、少しだけ声が低くなった。
その声に、曙紅はぴたりと動きを止める。
「……ごめん、ありが、とう…」
間近で視線を合わせることなど当然出来ることなく、曙紅は横を向きながら、小さな声でそう言い、自分でソファへと這い上がった。
そこから、動くことも出来ない。
どうしたらいいのか、わからない。
曙紅は、眞墨に背を向けたまま俯いていた。
「…お前、何も食べていないんだろう。外に出るぞ」
眞墨はゆっくりと立ち上がり、曙紅にそう声をかける。
すると肩を落としていた曙紅が、ピクリと体を震わせた。
「早く着替えて来い」
眞墨はそう言い残し、自分も着替えるために曙紅から離れていく。
「……………うん」
静かに振り向いた曙紅は、眞墨の後姿に視線を投げかけながら、小さくそう応えた。
そこで曙紅は、初めて肩の力が抜けた気がした。
眞墨は何も、聞いてはこない。
「……………」
曙紅は、ゆっくりと深呼吸をしてみた。
緊張や、戸惑いはまだ消えない。胸を鳴らす鼓動も、静かにはならない。だが、少しだけ楽になったように思える。
今はまだ、何も解決策は見当たらない。だからといって闇雲に焦ってはどこにも進めない。
それに気がついたのか、曙紅はようやく穏やかな表情を取り戻すことが出来るようになった。
眞墨は、曙紅が打ち明けるまでは何も聞いてはこないだろう。それは、時間を与えられたと言う事と同じだ。
生まれたばかりの感情と、向き合うための、時間を。
「……着替え終わったのか? だったら出るぞ」
「うん」
遠くで眞墨の声がする。
曙紅は慌てて立ち上がった。
そして、彼の元へと掛けていく。
捨ててはいけない。
否定してもいけない。
曙紅の『想い』はこれから育っていくはずなのだから。
-了-
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李・曙紅さま&田中・眞墨さま
いつもありがとうございます。ライターの朱園です。
眞墨さんは初めましてですね(^^)
今回は曙紅くんの芽生えてしまった恋心の揺れ動きを中心に、という事でお話を書かせていただきました。
初めて味わう恋する気持ちと言うのを、うまく表現出来ていると良いなと思います。
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
今回も有難うございました。
またお会いできましたら、よろしくお願いいたします。
朱園 ハルヒ。
※誤字脱字がありました場合は、申し訳ありません。
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