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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


心撥


 藤井・葛(ふじい かずら)は全身に響き渡る鼓動を落ち着けようと、大きく息を吐き出した。
(大丈夫)
 ぐるぐると蠢く思いを落ち着かせようと、葛は自分に言い聞かせる。
(大丈夫、だ)
 何が大丈夫かなんて、葛には分からない。しかし、何度も自分に「大丈夫」なのだと言い聞かせているうちに、少しずつ心が落ち着いてきていた。
 相変わらず、胸の鼓動は早い。歩くペースが速いからかもしれないが、それだけではないような気もしていた。単なる動きによる鼓動の速さではなく、もっと別の理由から来る鼓動の速度が、確かにあると思ってしまう。
(確かめるんだ)
 葛はそう思いながら、ぐっと拳を握り締める。口が気付かぬうちに真一文字に結ばれ、翠の目は強い決意を秘めている。
(でも……確かめてどうする?)
 葛はふと立ち止まる。自然と早くに流れていた景色が、ぴたりと止まる。
(確かめて、俺はどうする?)
 それは突如、言い様も無い不安を伴って訪れた。
 あんなに確かめたいと思っていた気持ちだというのに、いざ確かめる機会が訪れたら、妙な不安が葛に訪れたのである。
(……どうするんだろう)
 葛は自問する。今から会いに行こうとしている藍原・和馬(あいはら かずま)を待たせているにも関わらず、葛はその場に立ち止まってしまった。
 ネットゲームにおける相棒、という立場を持っている和馬に対し、最近葛は「分からない」という感情を抱くようになった。はっきりと自分で答えを出す事が出来ず、曖昧な表現すら出てこないような感情。誰かに相談しようかと思ったが、結局誰にも話さずに胸の奥にしまいこんでいた。
 これだけは自分で答えを出さなければならないという気持ちに、駆られたのである。
(……分からない、は便利な言葉だよな)
 葛は思わず自嘲する。
 何事に対しても「分からない」という言葉は、簡単に物事を完結させてくれるのだ。分からない、と思えばそれ以上追求する事さえしなければ、一応の終わりを見せる。曖昧なまま、全てが宙ぶらりんのまま。
(でも、それじゃ駄目なんだ)
 葛は自らを叱咤する。今までどんなに色々な人に「恋愛感情に鈍い」といわれたとしても、また実際にそれを自分で痛感しているにしても。
(分からない、で終わらせたら駄目だ)
 ぎゅ、と電話をかけてからずっと握り締めていた携帯電話を握り締める。
(それは、分からないという言葉に逃げているだけなんだから)
 葛がそう考えていると、突如携帯電話がヴヴヴ、と震え出した。葛は突然の出来事にびくりと体を震わせ、携帯電話を確認する。
「あ……」
 それは、和馬からのメールであった。慌てて確認すると、待ち合わせ場所についたという他愛のないものであった。
(もう、着いたんだ)
 どくん、と体が大きく波打つ。
 今、待ち合わせ場所に着いたという事は、和馬は電話を切ってからすぐに向かってくれたという事だ。つまりは、葛が会いたいと伝えた気持ちを考慮してくれたという事でもあるのだ。
(……いきなりだったのに)
 葛が会う事を頼んだのは、ついさっきだ。それなのに、和馬は真っ直ぐに待ち合わせ場所へと赴いてくれたのだ。不思議と、胸が熱くなった。
「行かないと」
 葛はぽつりと呟き、携帯電話を握り締めたまま走り始めた。無意識のうちに足が動いたのである。走ろうと意識したからではなく、気付けば走り出していたのである。
 それは単に待たせているから、という気持ちからだけではない。はっきりとは口に出来ないが、奥底に存在する気持ちがあった。
「……いた」
 待ち合わせに選んだ噴水の所に、和馬は座っていた。のんびりと道行く人々を見ながら、葛を待っている。
(俺を、待っているんだ)
 そんな当然のことが、妙に心に残った。和馬を呼び出したのだから、和馬は待ち合わせ場所に着いたとメールをしてきたのだから、そこにいるのはあたりまえの事なのだ。だがしかし、実際に和馬の姿を見ると妙な嬉しさがこみ上げる。
「……よ、葛」
 そうこうしていると、和馬の方から葛に気付いて立ち上がってこちらに向かってきた。葛ははっとし、和馬の方に向かう。
「突然、ごめん」
「別に構わないって。どっか行くか?」
 和馬はそう言い、きょろきょろと辺りを見回す。喫茶店にでも行こうか、という事なのだろう。それを葛は「あのさ」と言って遮る。
「少しだけ、歩かないか?その……紫陽花が、公園に咲いてて」
 葛が言うと、和馬は微笑みながら「ん」と言って頷いた。葛は少しだけほっとしながら歩き始めた。隣には、和馬がいる。葛の翠の目が、和馬の姿を近くに捉えている。
(意識、しすぎかな?)
 葛は思わず苦笑する。あんなに確かめたかった気持ちが、いつの間にか別のものへと変わってしまっていた。隣に和馬がいる、という思いだけが頭の中にあるのだ。自分で意識しすぎかもしれない、と思いつつも目を離せずにいたまま。
「今日は、何かあったのかい?いきなり会いたいだなんて」
 和馬は歩きながら葛に尋ねる。葛は曖昧に「ん」とだけ答え、歩を止める事なく和馬を見て少しだけ笑った。
「今日、何かがあったっていう訳じゃないんだ」
 葛はそう言い、歩を止めた。和馬は「どうしたんだ?」と尋ねながら自らも歩を止める。葛は掌を空に向け、自らも空を仰ぐ。
「今、雨が降らなかった?」
「雨?」
「だって、雫が……ほら」
 葛がほら、と言った途端に、ぽつりぽつりと目に見える雨粒が空から舞い降りてきた。和馬は「おお」と言いながら、持っていた傘を開く。
「葛は傘……無いな」
 和馬は傘を出す様子の無い葛を見て笑いながらそう言うと、手招きをした。葛は「有難う」と言って和馬の隣に立った。
 雨は霧雨のように、細かい雨だった。その中に時々大きな雨粒があって、それが傘を叩いていた。
「雨、降っちゃったな」
「傘を持ってて正解だったな」
 葛の言葉に、和馬はそう言ってうんうんと頷いた。妙に誇らしそうな和馬に、思わず葛はくすくすと笑った。
 一つの傘に二人が入るという事は、自然と二人の距離を縮めた。葛のすぐ隣には和馬がいて、和馬のすぐ隣には葛がいた。至極自然な空気が、そこに流れているかのように。
「……確かめたかったんだ」
 ぽつり、と葛は口を開く。近付いた距離に、気付けば口から出てきたのである。突然の言葉に和馬は首を傾げたが、葛は和馬を見てそっと微笑みながら言葉を続けた。
「確かめたかったんだ、この気持ちを」
「気持ち……?」
 問いただす和馬に、葛はこっくりと頷いた。口元が何故だか綻ぶ。
 さわさあと霧雨が降っている。
 柔らかで細やかな雨粒だ。
 中に時々大きな粒があって、それが大きな和馬の傘を柔らかく叩く。
 ぽつり、ぽつり、と。柔らかく、だが確かに。
 そんな中で、和馬はそっと笑った。柔らかく、暖かな笑みで。
「有難う」
 どくん。
 胸の鼓動が大きくなり、葛は少しだけ戸惑う。だが、その戸惑いは決して嫌なものではなかった。驚くほど柔らかな鼓動であったから。
(いきなりだったかな)
 再び歩き始めながら、葛は思う。突如思い立って、どうしても自分の気持ちを確かめたくなって、ついつい和馬を呼び出してしまった。
 だが、和馬は来てくれた。それに、葛の言葉にお礼を言ってくれた。柔らかく暖かな微笑を携えながら。
『傍にいたい』
 言葉が葛の頭に浮かぶ。人を思う、という根本にあると思われるその気持ちが、不意に葛の脳裏を掠めた。
 傍にいたい、というその言葉が、今の状況になんとあっていることか。
「お、葛。紫陽花、凄く綺麗に咲いてるな」
 和馬はそう言って、公園内にある道の両側に植えられている紫陽花を見て笑った。雨を受けた紫陽花は、徐々に色を変えている。
「紫陽花って、雨によって色を変えるんだよな」
 葛が感心しながらそう言うと、和馬は「ああ」と答える。
「しかも、すぐに変わるわけじゃない。雨が花弁に浸透するに従って、ゆっくりと変わっていくんだ」
 決して急ぐ事なく、雨によってゆっくりとその色を変えていく。その事柄が、妙に葛の心に入り込む。
 すぐに変わる事なく、浸透するに従ってゆっくりと変わっていく。
(焦らなくていい、と言われてるみたいだ)
 和馬にはそんなつもりはないのかもしれない。それでも、紫陽花が色を変えていくその様を説明する和馬の口調は、どこまでも優しかった。
「綺麗だな」
 葛はそう言って紫陽花を見、再び和馬に目線を移した。そっと微笑むと、和馬も紫陽花から目線を葛に移してにっこりと微笑んだ。
(良かった)
 歩きながら、葛は考える。
(和馬の傍にいられて、良かった)
 和馬と会うまで、あんなに悩んでいたのが嘘のようだった。こうして一つの傘に入り、笑い合い、ゆっくりと話し、共に歩く。傍にいられるという事が、ただただ純水に嬉しかったのである。
 雨が本降りになってきた。ざあざあ、という雨音が傘の中にも響き渡る。
「結構、降りだしたな」
 和馬はそう言って、傘の外を見つめた。葛は「そうだね」と頷いてから、紫陽花を見つめる。
「こんなに降ったら、色が変わるのも早くなるのかな?」
 和馬は「どうだろうな」と答えてから、少しだけ笑う。
「あまり焦らないんじゃないか?雨如きではどうにもならないのかもしれないぞ」
 葛はその口調が妙に可笑しくて、くすくすと笑ってしまった。
「和馬らしいな」
「いい意味だと信じておくよ」
 二人は顔を見合わせ、笑い合う。ゆったりとした時間が流れて行く。
「とりあえず、何か飲みに行かないか?紫陽花のように、俺たちも喉を潤そうぜ」
「賛成」
 葛がそう言うと、和馬はにっこりと笑って大きく頷いた。
 二人は喉を潤す為のカフェに向かって歩き始めた。道すがらに咲いている紫陽花を横目で見ながら。
『傍にいたい』
 再び葛の頭をあの言葉が横切った。葛は和馬に聞こえぬように、小さく「そうだね」と答えながら歩き続ける。

<ゆっくりと心は撥ね・了>