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半夏生
夏特有の匂いに誘われて―――綾はふらり、と気ままな一人旅に出ていた。
いつもの事と言えばそれまでの話だが、それでも綾を誘う旅の魅力に、彼は逆らう術を持ち合わせてはいない。
肌を擽るのは緑の薫りと、太陽の光が綯交ぜになった風。
空を見上げれば、夏色の青が何処までも広がり、それに混ざるかのように白い雲も流れている。
「……すっかり、夏の気配だ…」
額に手を当て、雲の隙間から現れた日の光に瞳を細くする綾。
ぽつり、と独り言を漏らした後はまたふらりと歩みを進める。――何処へともなしに。
気の向くまま、そして風の赴くままに、彼は旅へと身を委ねる。
行き着く先で、どんな『出会い』があるのかという期待を抱きながら。
「――あれ…」
のんびりとした風景の中、ゆったりと足を進めていた綾の視界の端に、一瞬だけ掠めたものがあった。
彼はそれを無視することは出来ずに、ゆっくりと振り返る。
「半化粧か」
数歩、歩みを戻し膝を折った彼の視線の先にあったものは、この時期になると花をつける半化粧。
花の時期だけに葉を半分だけ白く染め上げる事から、その名がついたと言われる植物だ。別名に『半夏生』、『片白草』などがある。
『半夏生』は一年の半分を示すための名と同じ。半化粧もそのあたりから花を咲かせ始め、それと同時に葉の色を変える為に、読み方が同じというのもあり、そう呼ばれるようになったのだろう。
「……………」
綾が半化粧の葉に手をやり思いを馳せていると、何処からともなく現れたのは、小さな気配。
本来であれば、少し顔を上げた位置に影が見えるのだろうが、その存在には影は無い。
「…こんにちは」
綾は瞳に映る目の前の少女に笑いかけ、そう言葉を投げかけた。
「…………。
あなたは、私が見えるのね」
少女は綾の言葉に多少の驚きを見せ、間をおいた後に小さな口唇を開いた。
夏物の着物を身に着けた少女は少しだけ、古い印象を綾に与える。…それは、彼女は遠い昔の存在であったことを示す何よりの証拠となるもの。
つまりは、綾の目の前に立つ少女は…この世のものではないと…言う事だ。
「…そんな所に立っていたら、白い肌が焼けてしまう。良かったら少し…僕とあの木陰で話をしないかい？」
「………………」
綾の誘いの言葉に、少女はこくりと頷いた。
強い日差しの下で佇んでいるには忍びないと思わせるほどの、透き通るような肌をもつ少女。
差し出された綾の手を、ゆっくりと取り彼女は案内されるままに近間にあった木陰へと歩み進める。
道沿いに置かれた白木のベンチ。
その真後ろには日よけに丁度良い大木が静かに居座っている。
綾と少女は、そのベンチに静かに腰を下ろした。
さわさわ、と風の音だけが響き渡る、そんな場所だった。
身を落ち着かせると、じわりと滲み出る汗。綾はそれまで掛けていた眼鏡を外して、ふぅ、とゆっくり溜息を漏らした。
「……キミは、いつも此処にいるの？」
綾を見つめたままの少女に、彼は微笑みながらそう問いかける。
腰までの切り揃えられた漆黒の髪。風が彼女のその髪を攫い、流れていく。
「…不思議なひと、ね。今まで、たくさんのひとに出会ったけれど、こうして声を掛けてくれたのは、あなたが初めてよ」
年のころは１４、５と言ったところだろうか。時代が違うようなので現代の少女とは違い、少しだけ大人びた印象を持つ。化粧を覚えたか否か――その間に位置するような、目の前の少女。
まだまだ希望に満ち溢れた未来があったろうに、彼女はそのままの姿で刻を止め、今もこの世に留まっている。
言ってしまえば、少女は死人（しびと）。命を落としたことに気がついていないのか、未練があるのかは解らないが天へと昇ることを拒否し存在しているのだ。
「此処は、私の家があった場所なの」
暫しの間の後、少女が再び口を開いた。
ゆったりと、遠くを見つめるような瞳で。
「素敵な洋館で、大きくて、広い庭があって…私は自分の家が大好きだったわ」
少女が懐かしそうに目を細めた。綾はその言葉を耳にしながら脳裏で彼女の言う洋館をイメージする。
この場に少女の家の面影は何一つ残ってはいない。それでも場の雰囲気を読み取ればそれなりの想像は出来る。
「小鳥を…飼っていたの」
「小鳥…？」
ぽつり、と少女は言葉を続ける。
「私のおともだちだった…いつでも一緒だった…」
少女は夢を見るかのように語り続ける。当時の記憶と今が、混ざり合っているためなのだろうか。
綾は静かに、その少女の語りに耳を傾ける。
「嬉しいときも、悲しいときも…あの子はいつだって私の傍にいてくれた。好きなひとが出来た時だって…黙って話を聞いてくれたわ」
「…そう、なんだ」
綾がそう応えると、少女はふわりと儚げに笑った。
その笑顔が痛いほどに繊細で、切なくて、綾は胸が締め付けられるような感覚に陥る。
「……家庭教師が、いたの」
少女のその言葉に、綾は『ああ』と心の中で呟いた。全てを語らずとも解ってしまう。家庭教師が恐らく、少女の恋した相手だったということを。
「キミは……」
そういいながら少女の手を、思わず取ってしまう綾。
「…私、死んでいるのでしょう？ それくらい…解っているわ。だって憶えているもの。私の家が、真っ赤に燃えていく姿を」
綾の手のひらの上に、少女は自分の手をそっと重ねて言葉を続ける。少女に似合わぬ微笑で。
「あなたの手も、温かいのね。あのひとと、同じね」
少女はゆっくりと瞳を閉じる。
綾の温もりを、自分の思い人に重ねているのだろう。
二人の間を、生温い風が吹き抜けていく。それと同時に頭上で大木の葉が、大きく揺れた。
「あのひとのお嫁さんになるのが…私の夢だった。だからね、打ち明けたのよ、彼に」
「……………」
少女の言葉に、綾は続きを促すような事は言えなかった。訊いてはいけない気がしたのだ。
「あのひとは…私にこう言ったの。『紅が似合うようになったら…僕は君を攫っていくよ』って…。だから私、早く大人になりたかった。紅の似合う、素敵な女性になりたかった…」
ぽつ、と滴を作ったのは、少女の目尻。それは静かに頬を伝い、音も無く地へと落ちていく。
綾の手のひらの中に自分の手を納めたままの少女のそれは、小さく震えていた。
「だけど、ね。前触れも無く…私の家は、燃えてしまった。放火だったみたいだけど…原因なんて確かめる時間も与えられなかったわ。だって…皆みんな、炎に包まれてしまったんだもの。私も、小鳥も…あのひとも」
少女の涙は宝石のように光っていた。だがそれは…あまりにも悲しい輝きだった。
綾には少女の冷たい手を通じて、当時の光景が垣間見えた気がした。
業火に包まれる洋館。庭が焼け、家人が逃げ惑い…そして少女は煙に撒かれ…。
「…此処にいては、いけない」
ぎゅ、と手のひらを握り締め、綾が口を開く。
少女は驚き、瞳を見開いた。いっぱいの涙を溜めたまま。
「キミは、此処にいつまでもいてはいけない…。皆とともに、往かなくては」
どうして居座ったままでいるのかは解らない。少女に問うた所で、答えが返ってくるとも思えない。だったら…自分が導いてやるしかないと、綾はそう思えてしまった。
関わった以上はそのまま見放すことなんて、出来ないと。
「……どうやったら、私は逝けるの？ 今までどんなに願っても、私は空へと飛べなかった。あのひとと一緒に、逝きたかったのに」
「思いを、捨てなさい」
綾は少女の瞳をじっと見つめながら、そう言った。
「自分を強く…そして過去に捕らわれているキミを、キミ自身で解放してあげるんだ。哀れんでいるばかりでは…前には進めないよ」
「………………」
「紅の似合う、女性になりたいんだろう？」
間を置き、続けた言葉の後、綾はやさしく微笑んだ。
すると少女は涙を零しながら、こくりと頷く。
少女の頷きを確認した綾は、辺りを見回した。そして少しだけ離れた場に見つけたのは、小さな赤い実をつけた背の低い樹木。
「すこし、待ってて」
少女にそういい残しながら、綾はその木へと歩みを寄せた。
そして赤い実を手に取り、感触を確かめながらひとつだけ実を頂く。
手にした赤い実を指ですり潰すと、じわりと滲み出たのは紅い液。
少女の下へと戻った綾は、再び彼女の隣へと腰を下ろし、微笑みかける。
「…目を、瞑ってごらん」
頬に残る涙をふき取ってやりながら、そう言うと、少女は黙って綾に従った。
少しの間を置いた後、綾は手の中の実の液に、指を落とす。そして瞳を閉じたままの少女の薄桃色の口唇へと、その紅を、持って行ってやった。
「じっとして」
知らぬ感覚に、一瞬だけ少女が小さく震える。綾は安心させるように優しい言葉を投げかけながら、つつ、と指を静かに這わせた。本物の口紅のようにはいかないが、それでも可憐な口唇を飾るには、充分だった。
「……目を開けて。キミ、鏡は持っているかい？」
綾の言葉を合図に、ゆっくりと瞳を開いた少女は、不思議そうな表情で彼の言葉に応えるかのように帯に忍ばせていた小さな手鏡を取り出して見せた。
「…自分を、見てごらん」
促され、少女は恐る恐る自分へと鏡を合わせる。
「………………！」
「キミはまだ若い。だから白粉なんてまだ必要ない。…これだけで、充分綺麗だよ。……そうだね、例えるなら…半化粧、かな」
紅を差された自分の顔に、少女は驚いていた。
白い肌に紅い色は良く映え、少しだけ妖艶さを醸し出しているような感じにも見える。
「きれい、ね。いつか…自分で紅を差せるような…大人になれるかな？」
そういう少女は、再び涙を零していた。
「きっと、なれるよ。そしてそんなキミを…彼も待っているだろう。だからもう…往きなさい」
綾の言葉は、少女の心に静かに染み渡っていくようであった。じわりじわりと胸が温まり…少女は手鏡を抱いたままで、胸に手を当てるようにしながら、頷いた。
「……ありがとう。あなたに出会えて、良かった。ありがとう…私の、導きのひと」
少女の笑みは本当に美しいものだった。
ふわり、と浮いた身体を見上げる綾に、少女は手を伸ばし触れるか触れないかの感覚で口付けを残してくれた。何も残っていない彼女の、せめてもの礼のつもりなのだろう。
「…迷わず、進むんだよ」
「―――はい」
幼い口付けに、綾は微笑で答える。そして見送りの言葉を告げると、彼女は光が弾けるように、姿を消した。
「………………」
それから暫く、綾は空を見上げたままでいた。少女が迷わぬように、心の中で祈りながら。
一陣の風が、吹き抜ける。
その風に視線を落とすと、あたり一面、半化粧の群生に囲まれていた。
綾はその現象に驚くことも無く、小さく笑った。
そして静かにベンチから腰を上げ、言葉無くこの場を後にする。
気ままな一人旅を、再開するために。
-了-
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槻島・綾さま
初めまして。ライターの朱園です。
この度はご発注有難うございました。
ギリギリの納品になってしまい、申しわけありません（汗
半化粧と半夏生を掛け合わせ、それをベースにしながら
イメージとご希望を崩さぬように、書かせて頂いたのですが…如何でしたでしょうか。
少しでも気に入っていただけましたら、幸いに思います。
またお会いできる機会がありますときには、よろしくお願いいたします。
今回は本当に有難うございました。
朱園ハルヒ
※誤字脱字が有りました場合は、申し訳有りません。
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