|
煙草の煙はエゴイストの香り
辺りは既に夜の帳に包まれていた。
草間興信所を出た五代は、ガードレールに繋ぎ止めてあるMTBのワイヤーロックを外すと、スタンドを蹴り上げながら器用にサドルへと跨る。そして、体重をかけながらゆっくりとペダルを踏みしめる。
初めはギアの重さに脚力が負けていたが、すぐに行き足が付いて緩和される。
五代はどこか無心でペダルを漕いでいた。
時折擦れ違う車の音、どこからとも無く漂ってくる夕食の香り、道路を点々と照らす白い街路灯の明り、普段、人間の営みを感じさせるありとあらゆる些細な事が、今は聴覚と嗅覚と視覚から送り込まれる単純な情報としてしか認識できなかった。
そんな中でやけにはっきりと聞き取れるのが、MTBのスパイクタイヤがアスファルトを噛む、単調で低い唸りだけだった。
今、五代の脳裏には去り際に草間の言ったあの言葉が響いていた。
――あまり思い詰めるな。因果なもんなんだよ、こういう仕事ってのは――
彼のその言葉が、タイヤの唸りに重なって聞こえた。
思いつめるな、因果なものだ、そういった言葉で瞬時に思考のスイッチを切り替えられるほど五代は成熟していなかった。しかし、この気休めにしかならない言葉以外に、自らを救う方法は無いだろうと思う程度には現実というものを理解していた。
草間の言葉、草間の思想に対して、理解は出来るがどこか納得できない。
そんな子供じみた理論がむくむくと頭をもたげる。今まで軽かったペダルがいつもより重く感じられた。
五代はそんな自分の靄を振り払うかのようにペダルを漕ぎながらポケットをまさぐって煙草を探す。
MTBに乗りながら器用に左右と尻のポケットを探るがそのどこにも煙草のパッケージを見つけることは出来なかった。
そうなれば思い至るのは一つ。草間のところに忘れてきたのだ。
「……くそっ」
五代は小さく悪態を吐いた。
一瞬、草間のところに戻ろうかとも思った。しかし、あんな会話をした後だという事実がそれを躊躇わせた。
逡巡と言うには少し長い時間が過ぎて、五代はMTBを停める。彼の目の前には煙草の自動販売機が置かれていた。
彼はMTBから降りて、車体をガードレールに寄りかからせると歩道を渡る。
ポケットから小銭を出して自販機の中へ放り込む。そして、迷うことなくラッキーストライクのボタンを押す。
五代は身体をかがめて取り出し口から、白地に赤のやたらと目立つパッケージを取り出し、慣れた仕草で封を切り、一本咥えて火を点けようとする。
その時、不意に話声が聞こえた。若い男女の声だ。
五代は火を点ける手を止めて、その声のした方を見やった。
高校生だろうか。歩道を二台の自転車がやってくる。
一台はワイシャツ姿の男子生徒。そして、もう一台はやはり夏服のセーラーを着た女子生徒。
二人は並んで走りながら、他愛無い話に興じていた。
五代はその擦れ違いざまに見た二人の表情が辛かった。あの二人のあり得たかも知れない未来と重なって見えたのだ。
そう、あの時、自分がミスをしなければ。もっと冷静になれれば、もっと別の、もっと幸せな結末があったのではないか。
吹っ切れたつもりでも、やはりそのことを後悔せずにはいられなかった。
五代は、夜の帳へと消える二人の背中を見送るとせっかく咥えた煙草を地面へと捨て、忌々しげに踏み潰す。
後悔や自責といったやるせない感情が胸の中で渦を巻いていた。胸が一杯で煙草を吸うどころではなかった。五代は煙草のパッケージをズボンのポケットへとしまい、入れ替わりに今までサイレントモードだった携帯電話を取り出す。別にマナーモードでも良かったが、万が一着信があってモーターの振動が聞こえるのを彼は嫌ったのだ。
今は、とにかく誰かと繋がりを持ちたかった。そして、誰か親しい者から着信はないだろうか、と携帯電話の電源を入れた。
こんなネガティヴな自分を無償で慰めてくれる、そんな都合の良い誰かを欲していた。
正直な話をすれば、今日、草間に会いに行ったのはその意味もあった。
年上のベテラン探偵から「お前は何も悪くない。悪いのはもっと別の何か≠セ」と、慰めて欲しかった。だが、結局そんな都合の良い言葉を草間の口から聞く事は出来なかった。
五代は微かに期待を抱きながら携帯電話のディスプレイを覗き込む。
不在着信なし。メール着信なし。
それが結果だった。
五代は小さく溜息を吐きながら発信履歴を開く。
履歴は数日前から止まっていた。最後の発信は、あの日付。そして、相手は彼≠ェ必死で守ろうとした彼女≠フ番号だった。
五代の指がほとんど無意識にリダイアルボタンへ伸びる。しかし、指がボタンに触れたところで彼はふっと我に返る。
――彼女と一体何を話すつもりだ?――
少し冷静ならすぐにわかりそうな物なのに、と五代は自嘲気味に笑みを浮かべる。
全く、何のつもりで電話をしようとしていたのだろうか。己の失敗を謝罪するか、お悔やみの言葉でも上げるか。幾千、幾万の言葉を重ねようとも彼≠ヘ決して戻ってはこないし、自分の失点が消えるわけでもない。
ひとしきり、自分を嘲笑した五代は再び履歴を弄り始める。
この事件に無関係で、尚且つ自分のことを良く知り。そして、慰めてくれる。そんな都合の良い相手を探す。
程なく五代は一人の番号に行き当たる。それは、自分の幼なじみの番号。
別に好き合っている訳ではないが、物心ついた時からの知り合いの彼女なら自分の望みを叶えてくれるかもしれないと思った。そして、今度こそ迷うことなくダイアルボタンを押す。
無機質なダイアル音。無機質なコール音。やがて、繋がり有機質を装った無機質な声が電話口に出る。
『お掛けになった番号は現在、電波の届かない所に居られるか、電源が入っていない為、繋がりません……』
五代は、今度こそ落胆の溜息を吐いて電話を切った。正直、裏切られたような気すらした。だが、その時、不意に自分の顔に酷く皮肉げな笑みが浮かぶのを自覚した。
――草間さんの言った通りじゃないか。自責の念なんて格好つけても、結局、自分を正当化したいだけだったんじゃないか――
表情に少し遅れて思考が付いて来る。何故こんな笑みを浮かべたのかはっきりと理解すると、五代の頭脳は普段どおりとまでは言えなくてもある程度正常に働くようになってきた。そして、とりあえず目の前の問題を片付ける事にする。
単純ではあるが、ある意味非常に重要な問題。
買った煙草を吸うことだ。
興信所のブラインドはしっかりと閉ざされ、さして広くはない事務所は蛍光灯の無機質な青白い明りに満たされていた。
音を発するものといえば天井の蛍光灯が立てる単調な発振音だけだった。それはまるで、この部屋の時が止まってしまったかのようだった。しかし、この小さな部屋の主、草間武彦が立ち上がったことでガタの来ている椅子が悲鳴を上げる。それによって静寂が破られると共に、時が決して止まっていなかった事を証明する。
彼は硬質な足音を響かせて簡素な応接テーブルへと近づき、置き去りにされている煙草のパッケージを見やる。
銘柄はラッキーストライク。五代の吸っていた煙草だ。
草間は彼が帰ってすぐにこの煙草の存在に気付いたが、あえて追いかけて届けようとは思わなかった。たかが煙草、という気持ちもあった。だが、それ以上に目の前の煙草が欲しかったのだ。
ただでさえ財政は逼迫しているのだ。抑えられる出費は極力抑えたい。
――たかだか、300円の出費を気にしなけりゃならないなんて……フィリップマーロウやニックスペンサーだって金には困っていたが、煙草と酒をケチったりはしなかったっていうのに――
現実と理想のギャップを改めて思い知りながら草間は小さく溜息を吐く。そして、五代の残した煙草を一本咥え、慣れた仕草で火を点ける。
普段吸うマールボロとは違う、どこか薬臭いように感じる煙の味が口と肺を満たす。
草間は思わず顔を顰めて呟いた。
「……あいつ、こんな酷い煙草吸ってるのか? 一発で肺ガンになりそうな味だな」
草間は、そんな好き勝手な事を言いながらも、五代のラッキーストライクをしっかりと自分のポケットへ押し込んだ。
五代は愛車を快調に飛ばしていた。
口には先ほど火をつけた煙草が咥えられていた。その煙草の穂先は風に煽られてぶすぶすと音を立てて燃えていく。
五代は幼なじみに電話が繋がらなかった事に今更ながら安堵していた。もし、繋がって自分が泣き言を言え『何言っているの! しっかりしなさい、男でしょ!?』などと言われて、ガチャンと切られるのがオチだっただろう。
五代はそう思うと、自然と笑みがこぼれた。それは今までの皮肉げなものではなく、もっと純粋な笑みだった。
電話が繋がっていたとしても、結局、望んだ都合のいい言葉≠ネんて掛けられる可能性はなかった。確かに、自分はある意味傲慢だったかもしれない。
彼はそのことに気付いたのだった。
五代はまだ草間の言葉を全面的に肯定は出来なかったが、それでも確かに的を得ていたように思えた。そして、草間の言ったあの傲慢な言葉が結局一番の解決策なのだろうな、と漠然とではあるが理解する事が出来た。
五代はどこかすっきりした顔で、誰にともなく頷くとギアを一段下げ、勢いよくペダルを踏み込んだ。
彼のMTBはタイヤの低い唸りを残して、夜の街へと消えていった。
了
|
|
|