コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


イスベル・ヴェッドーレの憂鬱
 


 いっそ気持ちよくなるほどのどしゃ降りだった。
 前の晩にしかけておいたはずの時計は、いつも乗っている電車がホームを出てしまう時間の、わずか十分ほど前をさしている。
 イスベル・ヴェッドーレは、いつものようにクマの染みついた目を片手でさすりつつ、いつものように神聖都学園の制服に腕を通した。
「ぁあ……なんだか今日は、いつもよりも濃いような気がする……」
 ぼやき、鏡に映る自分の顔にため息を一つ。
「どうしよう……おまえ本当に不幸ヅラだよな、なぁんて笑われたら……いぃや、絶対笑われる。きっとみんなで私を指差して、よってたかってバカにするんですよぅ」
 呟くと、知らず涙があふれ、はれぼったい瞼を潤した。

 雨はざあざあと窓を叩き、つけっぱなしのテレビ画面からは、楽しげな音楽と共に、”きょうの運勢占い”という女性アナウンサーの明るい声が聞こえ出した。
(空模様はあいにくの雨ですが、梅雨のじめじめした空気を、この占いで解決しちゃいましょう!)
 アナウンサーはそう言って、惜しげもなく笑みを振り撒いている。
「……運勢占い……」
 その明るさに、イスベルはテレビ画面をちらりと一瞥した。画面では、星座別の運勢ランキングのようなものが発表されている。
「…………」
 寝癖ではねた茶色い髪を手櫛で整えながら、恐ろしいものに近付いていくかのような足取りで、そろそろとテレビの傍へと向かい、上目に画面を確かめる。
「…………うお座。うお座が一位だったら、クマのことでいじめられない」
 一人ごちてうなずき、柱の影から顔を半分だけだして唾を飲みこんだ。
(今日一番運勢さいあくな星座は! うお座のあなた! 通勤途中、車に水をひっかけられちゃうかも! そんな運勢をよくするためには……)
 アナウンサーは笑顔満面に言葉を続ける。イスベルの耳にはもう、その後の言葉など届いてはいなかった。
「ぁあっ、やっぱりいじめられちゃうんですよぅ。クマが濃いとか、髪のはねが大きいとか言われるんですよぅ」
 泣き崩れ、イスベルはその場に伏せって派手な泣き声をあげて、顔を両手で覆う。
「もぅ、今日はもう、どこへも出ていかないって決めましたぁ! 学校もお休みするんですぅ」
 泣き喚くイスベルだったが、不意に携帯電話のコール音を耳にして、全身を震わせて体を竦ませた。
 携帯の電子音はしばらく鳴りつづけていたが、イスベルが体を強張らせている内に、やがてあきらめたように音をとめた。
「…………」
 友達、と呼べる相手などいるわけがない。まして、イスベルの携帯番号は、誰ひとりとして知っているわけがない。なぜなら、誰にも教えてもいないのだから。
「……」
 こわごわと携帯を手にとって、発信相手を確かめる。表示されていたのは、見たこともない番号だった。
「ひぃッ」
 声をはりあげて携帯電話を放り投げ、再びその場に崩れ落ちる。
「だ、だれが私の電話にっ」
 恐怖のあまりうわずってひっくり返る声を絞り出し、腰をぬかした人のように後ずさる。
 と、携帯は再び電子音を鳴らし、着信を知らせるランプがちかちかと点滅しはじめた。
「ひ、ヒィィ」
 大きくかぶりを振りながら携帯の画面に目をやると、表示されていたのは、やはり見知らぬ番号だ。
「ななな、なんだっていうんですかぁ! み、みみんなして私をいじめるんですねぇぇ」
 頭を抱えて大きく振り乱し、電子音が鳴り止むまでわんわんと大きな泣き声をはりあげる。やがて電子音はぴたりと止み、――その代わり、簡易留守録の機能が働きだした。

先日お電話いただきましたMR株式会社の者ですけれども、先日の件に関してもう少しお話を伺いたいので、おりかえしお電話ください。

 若い男の声はそう留守録に残し、電話を切った。

「え、MR株式会社なんて知らないぃぃぃぃ」
 イスベルは派手に泣き喚き、その場に突っ伏して、そしてしばらく後に小さな寝息をたてた。

 ざあざあと窓をうちつける雨の音で、ふと目を開ける。つけっぱなしになっていたテレビには、お昼番組の定番ともいえるサングラスの俳優がうつっていた。
 木内からの留守録におびえて突っ伏したまま、どうやら数時間ほど眠ってしまっていたらしい。当然、学園は無断で休んでしまった形になる。
「…………」
 開いたまぶたを再び閉じて、ざあざあと降る雨音に紛れて嗚咽する。
「なんの連絡もなしに学校を休んでしまいましたぁ……。い、今頃きっとみんな、私のことを笑ってるんですよぅ……。きっとありもしない噂を流して、みんなで喜んでるんですよぅ」
 しくしくしくしく。流れる涙はとどまりを知らず、床板の上に小さな水溜りを作り出していく。イスベルはその水溜りに気がつくと、ありえないような跳躍で後ろに引き下がり、濃いクマのついた目をごしごしとこすりつけた。
「み、みみみず! きっとこの水は床のずっと奥まで伝っていって、湿った木材は腐っていって、そこにヘンな業者のひとが来て、あぁこれは改築しないといけませんとかなんとか言って、高い工事費を請求されるに違いないんですぅ!」
 頭を抱えこんで大きくかぶりを振ると、今度は再び床に這いつくばり、自分の流した涙でわずかに濡れた床板を神経質に何度も何度も拭いた。
 拭き掃除を終え、今この様子を目撃していた者がいないかどうかを何度も確かめると、そこでようやく小さな安堵のため息をもらす。
「……だいじょうぶ、だいじょうぶですよぅ、イスベル。きっと誰もあなたをいじめたりしな」
 途端に、携帯電話が着信を告げた。イスベルは大きくとびあがると、目を見開いて携帯電話に目を向ける。
「え、え、MRかぶしきがいしゃ?」
 そう口にすると、ますます恐怖が募っていくような気がする。
 電子音はひとしきりイスベルの心を怯えさせた後に、再び留守録へときりかわった。

何度もすいません、MR株式会社です。さっき先方さんから催促の電話がきました。今日中に決めてしまいたいので、早めに連絡ください

 聞いたこともない会社名を名乗る男の声は、焦りを全面に漂わせ、その上でどこか苛立っているような、そんな空気を匂わせている。
 気づくと、イスベルの手は電話をつかみ、通話ボタンを押していた。
「あ、あのぅ……」
 ぼそりとかえすと、男は驚いたような声を一声あげて、それから小さなため息をひとつついた。
(あ、助かりました。こんにちは、先日はお世話様でした)
 もちろん、イスベルにはMR株式会社などという企業には覚えがない。しかしイスベルはおどおどとした声で
「こ、こんにちはぁ……」
(風邪でもひかれたんですか? なんだか声の調子が違いますね)
「い、いぃえぇ! ごごごめんなさいですぅ……。ち、ちょっと調子が……」
 わざとらしい咳を二つほどついてみせると、きうちはどうやら納得したらしく、
(それじゃあ、さっそくですが、先日のお話を)
 と、きりだしはじめた。
「せ、先日のお話っていいますと……」
(……? もしかしたら結構調子悪いんですか? この前お会いできたときにお話した件ですよ)
「げふげふ……そうなんですよぅ……えぇと、だ、大丈夫だと思いますぅ」
(……ハァ?)
「あ、あのぅ、だから、大丈夫ですってぇ……」
(すいません白王出版の方ですよねぇ?)

 男の声は苛立ちを色濃いものへと変えていく。

白王出版なんて知らないぃぃぃぃ!

 豪雨のように流れ出した涙が、震える手を見る間に濡らしていく。
「ご、ごごごめんなさいぃぃぃ。わ、わた、私ぃ、嘘ついてましたぁぁ」
 電話を放り投げて床板に突っ伏してしまったイスベルに、男はしばし慌てた様子をみせていたが、イスベルはわんわんと泣き崩れるばかりで返事をかえそうとはしない。
「もうイヤ、もう、私なんか死んじゃったほうがいいんですぅぅ」
 
 ざあざあと、雨が窓をうちつづけている。気がつけば、つけっぱなしのままだったテレビから、夕方を知らせるニュース番組が流れていた。
 聞いたこともない企業からの電話は当然のように切れていた。

(今日は一日雨模様でしたが、どんな一日をお過ごしでしたか?! さぁ、それでは、明日の運勢を占ってみましょう!)
 テレビ画面にうつっている女性アナウンサーが、明るい笑顔を満面に浮かべてそう告げる。
 イスベルは突っ伏していた顔を持ち上げて、そろそろと確かめるように、テレビに視線を向けた。
「……おひつじ座……おひつじ座が一番だったら……」
 ぼそぼそと呟いて、泣き腫らした目を手で拭う。
 今日もまたツイていない一日だった。でも、明日こそは。
(12星座中、明日の運勢がもっとも悪いのは!)

 ざあざあと、雨が窓をうちつける。
 床板に突っ伏して嗚咽はじめたイスベルの声は、雨音にかき消されていくばかり。


―― 了 ――