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夏炉冬扇 夏のおでん
「‥‥ない。‥‥ここにも‥‥ない‥‥」
憔悴しきったように肩を落としながら、青年は声を上げた。
「一体、日本という国はどうなってしまったんだ。これだけ、これだけ探しても‥‥無いなんて!」
いくつものガード下をくぐり、いくつもの路地を探し‥‥失望のどん底に突き落とされながらも彼は歩き続けた。
「会いたい‥‥本当のおでんに‥‥」
七月と言えば旧暦でも、新暦でも夏と呼ばれる時期である。
街を行く人々の腕は半袖や、ノースリーブで白く輝き、アイスクリームや冷たい飲み物を握り締める姿が良く見られる。
少し肌寒い梅雨もそろそろ終り。これからは暑くなっていく一方だろう。
「暇じゃのお」
単の夏着物をさらりと着流して、本郷源はやれやれ、とため息を付く。
「やれやれ、また嫌な時期になるのお‥‥気が重くなるわ‥‥」
「何を言うておる。暗い顔で愚痴るなどおんしらしくもない。夏や水遊びは嫌いでは無かったであろう?」
カウンターの向こうから、チンとコップの鳴る音がする。
源はその人物に向けて腕を捲くり、日本酒をとくとくとく、静かに注いだ。
潔いまできっぱりと、顔を上げてコップの酒を喉に通したのは、小さな少女。酒を注いだのもまた少女。
お巡りさんや、学校の先生、巡回員が見れば眉を潜めるだろうが、幸いここにはそんな人物はいない。
二人の少女は顔を見合わせるとくすり、小さく笑みを交わした。
「嬉璃殿の申すとおり、確かに、小学生のわしは夏は嫌いではないというか、好きじゃ。じゃが‥‥おでん屋台の主としては別。夏は嫌な季節じゃ。なにせ、夏はおでんが売れぬからのお」
吐き出すような源の声になるほど、と嬉璃は微かに肩を揺らした。
「最近、こんびにとかいうところでおでんが売られるようになって、ただでさえわしの店の売り上げは下がっておるし、この暑さじゃからのお」
蓋をそっと上げた。
いくつもにも仕切られた鍋の中ではくつぐつと、練り物が大根が、つみれがすじが、いい具合に煮えている。
早く食べてと言っているようにつゆの中で光っているが‥‥今日は出番が無いかもしれない。
「もったいないお化けがでそうじゃのお。こんなに美味しく煮えたのに‥‥」
浮かない顔で蓋をする源に嬉璃は小さく苦笑した。
源のこういう顔が見られるのは悪くないが、少し、気の毒にも思える。
「仕方あるまい、この暑さぢゃ、おでんなど食おうというのはよほどの物好きか、空腹の者でもなくば‥‥?」
嬉璃はふと横を見た。
屋台の暖簾がふんわりと上がり、一人の人物がそれを潜ったのだ。
「こんばんは。ここはおでんの屋台ですよね?」
鼻を微かに動かしながら入ってきた客に
「いらっしゃいませ。ようこそなのじゃ。ここはむろんおでん屋台。暖かいおでんと、美味な酒で疲れを癒す安らぎの場なのじゃ!」
源は手もみをしながら微笑みかけた。
少女の言葉に宇奈月慎一郎は、ああ! と心から幸せそうな顔を見せる。
「やっと、やっと見つけた。わが心のオアシス。おでん! どれほど会いたかったか。う、うれしい‥‥」
泣き出さんばかりのいい年の男に嬉璃はやや引き気味だ。
「よほどの物好きはが、ここにおったか‥‥」
「ならば、思う存分喰っておくれなのじゃ。まずは、味の染みた魚の練り物、とつみれ、魚と牛のすじからどうぞ!」
「ほお、お嬢さんがお作りになったのですか。それは楽しみですね。近頃おでんの屋台をとみに見かけなくなって‥‥私は本当に困っていたのですよ」
カウンターに腰掛けた慎一郎は差し出された皿を受け取り、箸を割った。
「ふむふむ、定番の具も揃っていて、なかなかいい色合いをしている‥‥。これは期待できそうだ」
日本酒もとりあえずは断って、まずはおでんを、最初の練り物を一つ
「いただきます!」
と頬ばった。
「な、なんですか? これは!!」
開口一番の言葉はそれだった。前から源が、横から嬉璃が瞬きをして顔を覗き込む。
「口に合わんかったのか?」
味には自信があるつもりだったが、思わぬ言葉に心がざわつく。拙いと言われるのだろうか? と。
しかし、幸いその心配は杞憂に終った。
「び、美味!」
顔を上げた源の前には、凄い勢いで空腹を埋めるようにおでんに向かい続ける慎一郎がいた。
「こ・これは!! 薄味に仕立てられた上品でありながら力あるつゆと、練り物から出た出汁が素材の持ち味を引き立て、調和して‥‥」
しゃべりながらも、食べる口も止まらない。
「今まで僕が食べていたモノがおでんと言うなら、これはおでんさまさまと言うしかありません!」
彼は次から次へと鍋の中で控えていたおでん達を口に運んだ。
「この厚揚げのしっとりとした甘さ。卵も奥まで味が染み込み格別で‥‥。この、このハンペンは本当のサメのすり身を使っていて‥‥おお! このすじのプリプリした食感!」
「おでんの味がわかる人とは、うれしいのお。さあ、では、最後にとっておきの大根をどうぞ、なのじゃ。出汁を吸い取ったこの大根ほど美味いものは無いぞ」
差し出された大根を、慎一郎はさくっ、と箸で突く。殆ど力を入れずに半分に割れた大根を食べた時。
「‥‥ああっ‥‥」
この世の恍惚を全て表したような表情で、慎一郎は目を閉じた。
「至福‥‥です。本当に‥‥美味しい」
「ありがとう。そこまで言ってもらえてこちらこそ、うれしいのじゃ!」
料理人にとって最高の賛辞。照れたように源は頭を掻いた。
おでん鍋の向こうから、白い腕が伸びてその源の手首を掴んだ。
「な、なんじゃ? 一体?」
「お嬢さん、いや! 師匠! 師匠と呼ばせて下さい」
「し、師匠?」
今までも、自分に擦り寄ってくる男などはいないでは無かったが、年上の男に手を握られて、源は目を何度も瞬かせた。
「はい! 僕は、この店のおでんを食べて実感しました。おでんこそ日本の国民食。広くそして、これからの日本に、世界に伝えていかなければならない、宝です! その為にどうか、僕に貴方のお力と知恵をお貸しください。一緒におでんの素晴らしさを広めましょう!」
はたから聞いていればまるで、冗談のようだが、当の本人慎一郎の目は、真剣そのものだ。
最初は戸惑っていた源も、だんだんに目を輝かせてくる。
「よおし! そこまで言うならやってやろうではないか! おでんの素晴らしさを日本中、いや、世界中に知らしめる為に!」
「師匠!」
「弟子よ!」
がっちりと手を握り合い、二人は意思を交し合った。
もう、既に慎一郎は客席から立ち上がり、源の隣でおでんの仕込みを見ている。
「よいか? おでんの具は下処理が肝心で‥‥」
「なるほど、小さな手間の積み重ねが味の真髄を決めるのですね」
自分よりもはるかに年下の少女に、真剣に教えを請うている慎一郎。言うことやること全てに感心してもらって明らかに機嫌の良さそうな源。
そんな二人を見て、嬉璃は、さて、と思った。
(「踊る阿呆に見る阿呆‥‥か」)
この二人がこれから何をやるか、なかなかに興味があった。こうして、ただ見ているだけと言うのも正直飽きてきたし‥‥グラスも乾いた。
立ち上がり、嬉璃は二人に声をかける。
「同じ阿呆なら踊らにゃ損‥‥ぢゃな。おい、源! ワシも手伝うてやろう」
こうして、夢のドリームチーム(?)の織り成す新たなる物語が始まった。
国際空港の純白の待合ロビーに人だかりが出来ている。
「オウ! これがさいきん、ワダイのヤターイですね」
「アジアン・アンティーク・ポトフショップ! オリエンタルでいいカンジで〜す!」
「いらっしゃいませ! ご注文は何に致しますか?」
ギャルソン風に白いシャツに黒いエプロンを締めた慎一郎が冷えたグラスを客達の前に置く。
「ボクは〜、えっとガンモ〜、ウインナ巻き〜、あとハンペンで〜す!」
「ワタシ〜は、やさい天、ゴボウ天、あとつみれとコンニャクおねがいしま〜す!」
「はい! オーナー。ご注文です! ガンモ、ウインナ巻き、ハンペン、やさい天、ゴボウ天、つみれ、こんにゃくオール1でおねがいします」
「了解! なのじゃ」
オーナーと呼ばれた少女が手際よく、注文の品を皿に盛っていく。
「日本酒は如何かな? おでんにピッタリの純米酒。腰の据わった銘酒ぢゃぞ!」
饒舌でうんちくを交えた売り子の誘いに、客はグラスを一杯傾けた。
「オウ! デリーシャス! おでんと日本酒、ピッタリ合いま〜す」
「このコンニャク、すっごくヘルシーでおいしい!」
「オーナー! こっちに夏おでんシリーズ!」
「トマトとアスパラ、豚足!」
「夏おでんも結構人気が出てきましたね。さっぱりとした冷やしおでんという発想はさすがです!」
「いやいや、慎一郎の全国各地のおでん、というのも素晴らしいぞ!」
「ありがとうございます!」
「これ! 二人とも! お客さんがお待ちじゃ。さっさとせよ!」
「わかってるのじゃ!」「はい!」
人が屋台の遥か先まで並んでいる。
「おでんは、素晴らしいのじゃ!」
源は声を上げた。
‥‥日本の国民食、世界に名だたるおでん屋台ばんざ‥‥い‥‥。
ゆらゆら、ゆさゆさ。
「師匠、起きて下さい。師匠!! 鍋で火傷しますよ?」
「ん? 慎一郎? どうした?」
寝惚け眼の源を慎一郎は少し困ったような顔で見た。
「新しいメニューの相談の途中で眠ってしまわれたのですよ。お疲れならご無理なさらずお休みになられては?」
ハッと顔を上げる。そこはあやかし荘側の小さな屋台。お客は誰もいない。
「あれは‥‥夢か?」
源は目を擦って確かめる。
確かに、あれは夢だろう。だが、慎一郎が側にいて、嬉璃ががらにもなく饒舌に売り子をしている。
夢でなくて、いつか現実になるかもしれない。現実になったら大変そうではあるが‥‥。
夏炉冬扇。夏の囲炉裏は役に立たない。
夏のおでんも役に立たない?
いやいや、そんなことはないはずだ。ここにこうして、おでんに魅入られた者達がいるのだから。
「まあ、のんびりやるとしよう‥‥」
微笑みながら源が開いた鍋からはほわほわと、暖かい匂いが静かに広がっていった。
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