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<東京怪談ノベル(シングル)>


風待ちの夕べ

 鳴き続けていた蝉も声を嗄らしたのか、じじ、と一声張り上げ庭の何処からか飛び立って行った。
 開け放たれた障子の向こう、夏雲に白く縁取られた青空と庭あざみの紫が目に沁みる。
 今ではめっきり減った日本家屋を、早津田玄は住まいとしている。
 丁寧に手を入れられた家はそれなりに歳月を経ているが、床の間や玄関に家人の活けた野花がさり気なく色を添える風情は頑冥な当主も気に入る所だ。
 軒先に吊るされた硝子の風鈴が涼しげに時折鳴る応接間、玄は和卓を挟んで来客の向かいに座った。
 古い型の扇風機が、玄から居心地の悪そうな客の方へと首を振る。
「毎日暑いね」
「挨拶はいい」
 よろけ縞の黒を着流した玄は客に一度鋭い視線を向け、それきり押し黙ってしまった。
 着物の上からもわかる頑強な体躯、白髪の混じった銀髪に髭を蓄え、眉間に皺を刻む表情は頑なに技を究めんとする何がしかの職人を思わせる。
 が、玄の生業はそんなものではない。
 いや、ある意味で重なる部分もあるのかもしれないが。
 客は昔馴染みの男で、顎鬚に手をやる玄の仏頂面にも慣れたものだ。
 ネクタイを少し緩め、苦笑してやや温まった麦茶を口に含んだ。
「この前話した依頼の先生ね」
「あァ、くたばったか?」
 玄の脳裏に、政財界を引退してもなお一度得た権力に執着する男の姿が浮かぶ。
 確か一度は依頼を断った相手ではなかったか。
「違う、まだ生きてるよ。
でなきゃ私がこの暑い中、お前のしかめっ面拝みにわざわざ来ないよ」
「そらァご苦労なこった」
 男の言葉に一つ悪態をついて、玄は鼻を鳴らした。
 玄は呪医である。
 古より連なる呪医の末であり、呪をかけられた存在に対し、解呪、浄化を施す。
 依頼人は自分と似たように権力にしがみ付く相手から呪いを受けたらしい。
「先生、金は出すって言ってるよ。言い値で」
 金出しゃカタつくと思ってやがる。
 依頼人の、何でも金銭で解決しようとする態度が癇に障ったのか、玄は低い声で言い放った。
「勘違いすんな。金の問題じゃねェ」
 こっちは慈善事業やってんじゃねェんだよ。
 場合により、完全に解呪できない時には呪医自らが呪いを引き受ける事になる。
 引き受けた呪いは玄の身体に、醜い痣や腫瘍となって残るのだ。
「おエライ先生だか知らないが、生きたきゃ本人が這ってでも来るだろ」
 これ以上何を言っても玄の機嫌が戻らないと思ったか、仲介人の男は傍らに置いた麻のジャケットを手に取り、立ち上がった。
「また来るよ。金蔓が枯れないうちに」
「どうせまだ当分生きてんだろ」
 ひょい、と片眉を上げて、男は含み笑いを漏らす。
「涼しい秋口なら、私ももう少しここまで通うのが楽なんだがね」
 板張りの廊下に消える男を座ったまま見送り、玄は首筋の辺りをほぐすように揉んだ。
 障子の影に一瞬、男の足元にまとわり付く小鬼が見えた。
 依頼主の所で拾った奴が付いてきたのだろうが、矮小な裸身に申し訳程度の毛をのせた頭を振りながら男を追いかけて行った。
 霊格の差か、玄のいる応接間までは入れなかったようだ。
 あの程度なら、他の術師でも大丈夫だろ。ともかく俺の仕事じゃァ無い。


 応接間で一人になった玄はごろりと横になり、敷いていた座布団を二つ折りにして枕にした。
 束の間目を閉じ、時折鳴る風鈴の音に耳を澄ます。
 因果な商売だ、と玄は思った。
 派手さは無ェし、他人の負を請けおう損な役回りだ。
 呪い解いたらハイお終い、て訳にゃいかねェしな。
 玄は呪法の専門家であるが、総じて万能ではない。
そもそも何が原因で呪われたのかを明らかにし、解呪後も再び呪われないよう対策を練る。
 呪いが元で著しく依頼者の体力が損なわれていれば、診察し適切な指示をする。
 時に漢方薬の処方もする玄はただの拝み屋ではなく、呪いという病を治す医師なのだ。
 解呪が成功するかは、呪いをかけられた本人にもよる所が大きい。
 どれほど強く呪縛から逃れたいと、生きたいと願っているか。
 それは相手の、殺したい程の憎しみに対抗する根源的な想い。
 呪いを解く作業は、もつれた絹糸を手繰り寄せ紡ぎ直すのにも似ている。
 繊細な気遣いを必要としながら、時には呪いそのものをねじ伏せ、断ち切る力技。
 ここ数年、玄は新規で客を取っていない。
 念と念、想いと想いのぶつかりあいに介入するのだから、玄も並大抵の心構えでは請け負えないのだ。
 身体中に残された醜い呪いの残滓は、玄が己の判断を信じた結果でもある。
 本当に助けねばならない相手かどうか、依頼を請け負う度に玄は自問自答を繰り返している。
 果たして、俺は正しいのかと。
 玄の息子はまだこの仕事が嫌だと言う。
 それももっともな話だ、と玄も思う。
 昔は玄も呪医という仕事を負う事に抵抗があったのだから。
 自らの命すら時に懸けねばならない、その判断を死ぬまで続ける。
 それが飲めねェなら、辞めるこった。
 まァ、俺も腹くくるまでにちィと時間はかかったがな。


 ほんの一休みのはずが、寝入ってしまったようだ。
 軒の簾越しに見える空から青さは抜け、鮮やかな朱と橙の濃淡が庭の楓を染めていた。
 みずみずしい緑の葉は季節一つ先へと進み、紅く色付いて見える。
 扇風機を止め、玄は起き上がって庭を渡る風を受けた。
 あァ、いい風の吹く時間になった。
 風に混じる夕餉の匂いに玄は僅かに頬を緩め、応接間を後にした。

(終)