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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


紫陽花の家(後編)



------<オープニング>--------------------------------------

 満開の躑躅を、赤い飛沫が斑に染めていた。柔らかな苔の上には、二人分の血潮が小さな池のように溜まって、午後の陽射しを照り返している。
 赤に彩られた光景の中で、女は崩れるような格好で地べたに座っていた。腰の下の柔らかい土が、太陽の熱を含んで温かい。初夏用にと出したばかりの単(ひとえ)の着物越しにじんわりと染み込んでくる、その熱とは対照的に、自身の体は急速に冷えてゆくのがわかる。
 住宅密集地から離れた場所に位置し、高い塀に囲まれたこの場所は、静かだった。
 幼い日から愛し続けた庭で、彼女は最期の時を迎えようとしている。
 ぐったりと投げ出した手には、既に感覚がない。
 指先からほど近い場所に、野外には不似合いなものが転がっている。包丁だ。赤く汚れていない僅かな部分が、鈍い銀色に光っていた。
 それの柄に手をかけたまま、男は倒れて動かない。ズボンの裾に掛かっているのは、争う内に飛び散った玉砂利だ。彼が微かに痙攣し、その一粒が落ちて、かちりと音を立てた。かつては愛したこともある、身勝手だった男の、それが最期だった。
 こんなことをするつもりでは、なかった。けれど、ついにこの家にまで訪ねて来た彼を、家に上げることだけはできず庭に通して、そして台所から包丁を隠し持ってきた――その時点で、自分はもうどこかおかしくなっていたのだと。女は思った。
 陽射しは、金色に傾く。
 夕刻には帰ると言って、夫は出かけた。子供が学校から帰ってくるのも、もうすぐだろう。
 妹も。
 今足許で事切れているこの男が、急に家に来ると電話を寄越してきた後で慌てて電話をしたので、心配して来てくれるかもしれない。
 女は、暴露を恐れた。それにより今の生活が、家族が壊れることを恐れた。何故、自ら全てを話して許しを乞おうとは思わなかったのか。
 薄れゆく意識の中、女はひたすらに後悔していた。


 後悔は未練となって、魂を縛るには充分な、重い枷となった。
 魂。そう、自分は一度はそういった存在になっていたのだろう、と、再び意識を得た女は考える。
 ――木槿(むくげ)も西海枝(さいかち)も、はこべも苺も。
 お父さんの書斎の本に載ってたものみんな、山と庭にあるよ。ねえ、お父さん。叔母さん。だから――。
 言いつのる子供の声を憶えているのは、きっと、魂となって留まっていた自分がその声を聞いていたからだ。


           ++++


 梅雨の深まる雨の午後、草間興信所には剣呑な空気が垂れ込めていた。
 その発生源は、依頼人を通す応接セットである。
「……話にならんな」
 依頼した調査結果のまとめを一通り読んだ後、前回の依頼人島津・礼二(しまづ・れいじ)は舌打ちし、書類を応接机の上に放った。
 分厚い書類の内容は、彼の兄の配偶者、つまり義理の姉に当たる島津・花枝(しまづ・はなえ)の不貞行為は確認できなかったというもので、それは礼二の望む結果ではなかったからだ。
「申し訳ありませんが。不倫の証拠になるのは、決定的な現場の写真や、一緒に旅行に行ったという確たる証拠など、でして」
 礼二と向かい合う草間は、苦い笑みを浮かべながら言った。
「調査期間中、対象者ご本人が、夫である義一(よしかず)さん以外の男性と一切接触を持っていない――どころか、外出さえしていないのでは、我々としてはこういったご報告を差し上げるしかないんですよ」
 探偵の仕事は証拠を余さず探し出すことであり、けして証拠を捏造することではない。草間の言いたいことは理解できるようだが、それでも礼二は不満げだった。
「普通に生活していたら、外出をしないわけがないだろう。香子の奴が、俺が探偵を雇ったことを花枝に知らせたんじゃないだろうな」
 憎々しげに言うのは、花枝の実妹である木崎・香子(きざき・きょうこ)のことだ。
 それを言われると頭が痛い。溜息混じりに、草間は答えた。
「……今回の調査が、依頼人様にとってアンフェアなものであった可能性は否めません」
 花枝の妹である香子は、礼二がこの興信所に依頼した内容を知っていた。前回の調査中、香子は調査に協力するそぶりを見せていたが、実際は花枝の不利にならぬよう裏で動いていたフシがある。
 しばらくの間、礼二は机の上の報告書を睨みつけながら苛々と膝を揺すっていたが、ややあって顔を上げた。
「そうだ。あの男は見付かったのか?」
「は?」
「あの男だよ。花枝の不倫相手じゃないかって、近所中の噂になってた」
 言われて、草間は慌てて報告書をめくった。その男についての記述が、何枚にもわたる報告書の中にある。 
「ああ……中肉で長身、30代くらい。長髪に、目尻に目立つホクロ、の男ですか。そういえば、調査中に彼の姿は影も形も見当たりませんでしたね」
 礼二は頷いた。
「次はその男を捜してくれ。花枝が尻尾を出さないのなら、そっちに当たったほうが早いだろう」


------<出足は……?>--------------------------------------


 学生が四人に、興信所の職員が一人。放課後の時間帯だったことがあり、礼二が引き上げる前に前回の調査メンバー五人が興信所に揃った。
 依頼人と草間を交え、ぐるりと応接机を取り囲む形だ。
「と、いうわけだ」
 再度の調査開始に至った経緯を、礼二に代わって説明し終わった草間は、彼らの顔を見回して溜息を吐く。揃いも揃って、その度合いは違えど、あまり気乗りしない様子が見て取れたからだ。
 最初に口を開いたのは、興信所事務員のシュライン・エマだった。
「一つ確認を。草間も申し上げているとは思いますが、噂になっている男性の素性をつきとめても、必ずしも貴方にとって実りのある結果が出るとは限りません。それはご承知の上でのご希望ですね?」
「勿論だ」
 シュラインに視線を向けられて、礼二は少々気圧されながらも頷いた。
「私の能力は調査向きじゃないのよね。黒龍や成功の方が適任なんだけど」
 礼二が持ち込んだ花枝についての資料を手に取りながら、梅・蝶蘭(めい・でぃえらん)が呟く。
「卒業校に、結婚前まで勤めていた職場――このあたりを洗っていけば確実じゃないかしら」
 紙上には、島津花枝についての現状の他、結婚までの略歴も書かれていた。全て花枝の自称という但し書きが入っているが、彼女が嘘さえ吐いていなければ、過去の交友関係を洗うのは比較的容易だろう。
 うーん、と蝶蘭の隣で冴島・泉水(さえじま・いずみ)が怪訝げに唸っている。
「血液型のことで智彦くんが義一さんの本当の息子じゃないかもしれないって疑ってるんですよね? それだったら、DNA鑑定とかのほうが話が早くありません?」
「……そういうわけにはいかん」
 泉水の問いかけに、礼二は頭を振った。その表情は複雑だ。 
「兄貴の了承が必要になる」
 遺伝子による親子鑑定には、両親と子供、三人分の試料が必要になる。一般的には口腔内の粘膜などが用いられるが、当事者たちの了解無しにそんなものを入手するのは難しいし、当事者に内緒では倫理的な問題もあるだろう。
「智彦は兄貴の子じゃないかもしれないから遺伝子鑑定してみませんかー、なんてな。いくら俺でも面と向かって言えるかよ」
 眉間に皺を寄せ、礼二は苦々しげに言った。花枝の不貞は明らかにしたい。しかし兄に余計な心労はかけたくない、もしくは恨まれたくない。そんなところだろう。こすっからいところはあっても、悪党になり切るほどの度胸はない男なのかもしれなかった。
 泉水と礼二の会話を見守っていたシュラインが、口を開いた。
「智彦君については、義一氏が実子として認知して、届出期間も過ぎている以上、例え血のつながりがなくとも養育義務は発生します。花枝さんの不貞行為の有無とは違った問題になりますので、そちらもご承知を」
 礼二が頷くのを確認してから、シュラインは蝶蘭のほうを見た。
「彼女の言うように、まずは花枝さんの過去の職場と卒業校ね」
「そうだな。ご子息の出生に疑いがあるということなら、そこから調べて行くしかないだろう。当時のことを知っている人間に会えれば話は早い」
 言ってから、ふむ、と草間は鼻を鳴らした。
「聞き込みとなると人海戦術だな。お前ら、今回も頼めるか?」
「あ。……あの……」
 草間に水を向けられて、黙って話を聞いていた初瀬・日和(はつせ・ひより)は戸惑いを露に口ごもった。
「ああ。草間さん、悪いけど俺ら、今回はパス。期末が近いし」
 日和の隣の羽角・悠宇(はすみ・ゆう)が、ぶっきらぼうに二人分の返事をする。
 彼らが通う高校は都内でも指折りの進学校とはいえ、定期試験は予習復習さえ欠かしていなければ恐れるに足りないだろう。悠宇はともかく、日和は期末前に慌てるタイプには見えないのだが――そう思いつつ、草間は深く追求はしなかった。
「なら仕方ないな。調査はシュラインと蝶蘭と俺が行くとして」
 言葉を止め、草間は首を巡らせた。視線の向かう先には、事務机でせっせと帳簿をつけている零の姿がある。元・心霊兵器の彼女は、興信所に引き取られてから本当に変わった。まず、一般常識はほぼ身についた。電話の応対だって、来客への応対だってしっかり出来る。ただし、アドリブにはまだ弱い。時たま素っ頓狂なミスをしてくれるので気が抜けない彼女を、一人で事務所に置いておくのは不安があった。
「あー……、どうせヒマだろうし、宿題でもなんでもしてていいから、誰か零と一緒に留守番してくれねえか」
 はーい、と泉水が元気良く挙手した。その瞳は期待に輝いている。
「私っ。私がお留守番するー! 探偵さんのデスクに座らせて貰えるんだったら、タダでもいいわ!」
「……机の上と引出しの中をいじらないんならいいぞ」
「やった! 一度あの机使ってみたかったの!」
 草間の返事に、泉水が歓声を上げた。
 依頼人の礼二は、微妙に不安そうな顔をしている。壁に貼られた「怪奇禁止」の張り紙といい、もしかしてこの興信所ちょっと怪しいんじゃないかと、今更気付いたらしい。


------<調査その5・過去の柵(しがらみ)>--------------------------------------


 幸いなことに、花枝の卒業した短大も、OLとして数年勤めた会社も都内にある。
 調査を始めたその日に、同期の元同僚が見付かったのは幸運だった。
「花枝ちゃんね。懐かしいわー。あの子が寿退職する時にね、同期の皆でお祝いしたのよ、ここで」
 食前酒のグラスを傾けて、花枝の元同僚の女は笑った。細かな泡が音も無く弾けるシャンパンを、蝋燭の火が琥珀色に染めている。生のピアノ演奏が流れる、なかなか高級なムードのこのレストランを指定してきたのは彼女だった。
 現在、島津家周辺におかしな男が付きまとっていると、親族から依頼を受けた。そういった男が過去に花枝の周辺にいなかっただろうか、というのが、草間たちが彼女を呼び出した名目だ。もちろんというかなんというか、情報と引換えに夕食を奢ることになっている。
「それまでぜんぜん男っ気なかったから、びっくりしたわよ。相手がすごく年上の人だって聞いて二度びっくり。お式はしなかったみたいで、旦那さんの顔は結婚報告の葉書で見ただけだけど。すごい資産家だって言うじゃない、玉の輿よね。私なんかまだ独身で現役OLだもの、正直羨ましいわー」
 遠慮なく高いコース料理を頼んで、女は上機嫌だ。話好きで噂好きで、開けっぴろげなタイプらしく、この際助かる。
 もうすぐ前菜が来る。食事の間にできるだけの情報を引き出さねばならない。メニューの価格に愕然としている草間の袖を、シュラインは横から引っ張ったが反応は鈍かった。
「草間さん。草間さん!」
 蝶蘭の呼びかけても、草間はメニュー表から視線を離さない。ショックが醒めるまでもう少しの暇が必要そうだ。シュラインと蝶蘭は草間を挟んで視線を交わし、頷きあった。私たちが話を切り出さねば、と。
「じゃあ、花枝さんには恋愛関係のトラブルはなかったと?」 
 男っ気がなかった、というところを捉えてシュラインが問うと、女ははっきりと頷いた。
「そうね。私、花枝ちゃんと結構仲良かったけど。彼氏ができたとか別れたとか、そういう話は聞いてないわ」
 食前酒を飲み干してから、女は思い出したようにバッグを手許に引き寄せた。中から出てきたのは、ぎっちり写真の詰まったポケットアルバムだ。当時の写真があれば持って来て欲しいと、予め頼んでいた。
「飲み会の時の写真がほとんどよ。あの頃は景気良かったから、毎日のように上司が奢ってくれたのよねえ」
 受け取ったアルバムを、蝶蘭はテーブルの上でパラパラとめくった。写真の日付は、十年以上前のもの。女の言う通り、飲食店らしき場所で撮られたスナップ写真が大半で、その中にオフィスでの写真がちらほらと混じっているような感じだった。
「これ、花枝さんですね」
 蝶蘭はページをめくる手を止めた。指でさした一枚の写真の中に、確かに島津花枝――当時は旧姓の木崎花枝だが――が居た。ビールジョッキを高々と乾杯する同僚達から少し離れたところで、少しだけジョッキを持ち上げているのがそうだ。控えめと言うよりは、あまり元気がないように見える。
 女が覗き込んで、頷いた。
「そう。彼女、美人だけどちょっと影があるタイプだったわね。あんまり詳しくは話してくれなかったけど、両親が早くに亡くなってるそうだから、そのせいかしら。この写真の頃は、確か妹さんの学費を出すのが大変だって言ってたんじゃなかったかしらね」
 蝶蘭とシュラインは視線を交し合った。花枝の妹――香子のことだ。香子が姉のために必死なのは、花枝に苦労をかけてきたと思っているからなのかもしれない。
 花枝が写っている写真はその後も何枚か出てきたが、あまり明るい表情をしていなかった。どれも、隅のほうにぽつりと居て、誰かのついでに一緒に写っているという感じだ。
 最後のページをめくって、蝶蘭は再び手を止めた。初めて、花枝が笑っている写真があったからだ。
「この写真――」
 シュラインも、同じところを見ている。手前でピースサインをしているのは、今目の前に居る同僚の女だった。花枝が居るのは、その後ろだ。談笑しているところを偶然とらえられたのだろう、カメラ目線ではない。
 写真の中の花枝が笑顔を向けているのは、同年代らしきスーツ姿の男だった。彼は横顔だが、その目尻にかなり目立つ黒子があるのがわかる。
「この人は誰か、わかりますか?」
 蝶蘭はアルバムを女に差し出した。しばらく時間がかかったが、ややあって彼女ははっきりと答えた。
「ああ、三宅さんだわ」
 やっと草間も正気に戻って、三人揃って顔を見合わせる。
「下の名前はなんだったかしら。確か……そうそう、営業の三宅・弘平(みやけ・こうへい)!」
「彼は今もそちらにお勤めですか?」
 今のところ、その三宅が最有力候補だ。しかし、草間の問いに女は頭を振った。
「去年だったかしらね、退社したわ。一応、自主退社ってことになってるけど、実はリストラだったんじゃないかってウワサ」
「……現在の連絡先は?」
「飲み会でたまに一緒になったくらいで、別に仲良くなかったし」
 草間は藁にもすがる思いで訊いたが、それにもやはり頭を振られた。
 シュラインは食い入るように写真を見詰めている。小さいのでわかりにくいが、グラスを持つ三宅の左手の薬指には、銀色の輪が光っていた。
「彼は既婚者なのかしら?」
「ええ。ちょっといい男だったけど、私が入社した時にはもう奥さんが居たわねえ。だから、さっさと恋愛対象外にしたのよね、うん。子供も居たんじゃなかったかしら。大変よね、それなのにリストラなんて」
 シュラインの問いに答えてから、心から同情します、とでも言うように、女は大仰に溜息を吐く。
 もしも、花枝が十年前に三宅と恋愛関係にあったとしたら――恐らく、周囲には隠し通していたに違いなかった。


------<事務所でお留守番>--------------------------------------


 草間たちが調査に出ている期間、泉水は約束通り零と共に事務所で留守を務めていた。
 ただし、二人きりではないことが多かった。
「義一さんと礼二さんって、すごく年が離れてるじゃない? 実はご両親が片方違うとかはあり得ないの? そしたら、義一さんの血液型、AAじゃないかもしれないし」
 草間のデスクでふんぞり返りながら、泉水が問う先には、礼二が居る。
「昔は、未婚の娘が産んだ赤ん坊を、既婚の親族が自分の子として戸籍に入れることも多かったからな。完全に否定はできんが、俺と兄貴に関してそういう話は聞いたことがない」
 応接机で零に出してもらったコーヒーを啜りながら、礼二はうんざり顔で答えた。
 事務椅子のパイプを軋ませて、くるくると回りながら泉水はなにやら考え込んでいる。
「それとか、そもそも智彦くんが花枝さんの子供じゃなかったりして!」
「なら誰の子だ?」
 ややあって言った泉水にうんざり顔をしつつ、答えるあたり礼二もわりと律儀だ。
「んーと、香子さん!」
「有り得ん」
「えー!? なんで? その絶否定の根拠は?」
「智彦が生まれる時、俺と香子は一緒に分娩室の外に控えていたからだ!! ついでに言うと、俺は生まれたてホヤホヤの猿みたいな智彦を見ている!!」
「……じゃあ無理だ。むーん、飛躍しすぎたか」
 椅子を回すのを止め、泉水は腕組みをして唸る。
 ヒマなのかそれともよほど調査結果が気になるのか、礼二は二日と空けず事務所を訪れていた。その度にこんな風に会話をしているので、泉水の礼二に対する口調はすっかりくだけたものになっている。
「お嬢ちゃん、無駄口を利いている暇があったら宿題でもしたらどうなんだ?」
「終わっちゃってるから小父さんとお話してるんじゃない」
 ケタケタと笑ってから、泉水はふと、真顔になった。
「それに、無駄口じゃないわよ。だって、わかったことがあるもの」
 怪訝げな礼二に、泉水は言った。
「小父さん、お兄さんとすごく仲が良かったんだね。それに、花枝さんや香子さんとも、昔は仲良かったんじゃないの? じゃなきゃ、甥っ子が産まれる時に一緒に病院行ったりしないもの」
「…………」
「それなのに、遺産相続だなんだって。そりゃ、他人の私には関係ないことだけど、あんまり騒ぎ立てるのは見苦しいだけだっていうのは、私にだってわかるわよ」
 これ忠告ね、と。人差し指を立てた泉水に駄目押しされて、礼二はコーヒーカップに口をつけたまま黙り込んだ。


------<ジジツマニア――調査最終日>--------------------------------------

 
「本当のことがわかるのが、怖いの」
 カップをソーサーに戻し、日和は呟くように言った。
 先日、島津智彦と共に訪れたカフェで、今は日和と悠宇が二人で向かい合っている。日和の皿の上のシュークリームは、ちっともなくならない。
「ああ。あまり考えたくないことが多いな」
 息を吐き、悠宇は机に頬杖をついた。彼の分のケーキも、半分残って皿の上で崩れている。
 この店で嗅いだ嫌な臭いを、日和も悠宇も思い出していた。智彦が残していった、あの臭気。そこからは、不吉なものしか連想できなかった。島津邸で何が起こったのか、智彦たち家族と香子は一体何を隠しているのか。
「あんなに一生懸命、お母さんのことを庇おうとしていたんだもの。真相を明らかにするのが、良いことなのか悪いことなのか、わからなくて……」
「俺もだよ。智彦が必要以上に傷つくことがなければ良いと思ってる」
 草間たちが再度の調査を開始してから数日。そろそろ何がしかの結果が出ている頃だろう。礼二はどう出るのか、義一や智彦にはどんな事実が伝えられるのか。
 気になって、なんとなく智彦の通う小学校の近くまで来たものの、何ができるわけでもない。
 窓の外を見ると、外は薄暗く曇っている。天気予報によると梅雨前線が活発化しているそうで、ここ数日雨が続いていた。風が吹いて街路樹の枝が揺れると、ガラスにぽつぽつと水滴がついた。
「……よく降るな」
 呟いて、悠宇は窓の外に目をやった。ふと向かいの歩道を見ると、黄色い傘を差した男の子がいる。その足許に、ちょろちょろとじゃれついているのは、銀色の毛並みの小さな獣。
「末葉(うらは)!?」
 声を上げたのは、日和と悠宇と、同時だった。
 慌てて傘を持って外に出た二人を、末葉を抱き上げた智彦が、きょとんとした顔で見上げた。
「あれ? この間の、探偵のお兄ちゃんとお姉ちゃん」
 きゅ、と鳴いて、末葉は智彦の腕から日和の肩に飛び移り、首筋にくりくりと頭をすり寄せる。勝手に日和から離れ、外に出たのを、甘えて詫びているのだ。
 見たことのない、少なくとも図鑑にも辞典にも載っていない生き物を前に、智彦は目を丸くしている。
「それって、もしかして、イヅナとか管狐とか言うやつ? 本物、初めて見た」
「イヅナの末葉というの」
 イヅナ、管狐。こんな子供が何故そんな言葉を知っているのか訝りながら、日和は頷いた。
「へえ。じゃあ、何か入れ物に入れて飼ってるの?」
「ええ。普段はこれに入ってるんだけど……」
 日和がポケットから出した銀色のピルケースを、智彦は興味深げに覗き込む。
「よく知ってるのね、智彦くん」
「うん。オンミョージュツとか、レンキンジュツとかの本、お父さんの書斎にいっぱいあるんだ。ぐねぐねした字で書いてある、古ーい本もたくさんあるんだよ。叔父さんはね、お父さんのこと変人のジジツマニアだって言ってた」
「ジジ……? ああ、呪術か」
 呟いてから、悠宇ははっとした。ポケットを押さえると、微かな震えを感じる。そこに入っているのは、日和の持っているものとお揃いのピルケースだ。彼の飼っているイヅナ、白露(しらつゆ)はその中にいる。智彦に何がしかの気配を感じて、悠宇に知らせようとしているのだ。
「叔父さんは非ィ科学的で無駄だっていつも言うけど。……そんなことないよね。イヅナだって本当に居たし。それに、ちゃんと書いてあるとおりにしたら、ちゃーんと、できたもん」
 黄色い傘が、独り言のように言う智彦の顔に緑色がかった影を落とす。できたって、何が。聞くのが怖い気がして、日和は問を飲み込んだ。代わりに口を開いたのは悠宇だった。
「……その本って、お願いしたら見せてもらえるかな?」
「うん。その代わりにお姉ちゃんのイヅナを見せてあげたら、お父さんすごく喜ぶと思うなあ」
 先日のこともあって気を許しているのだろう、智彦の応えには屈託がない。
「悠宇くん?」
「智彦の家に行ってみよう、日和。何が起こってるのかわからないと、力を貸すこともできないじゃないか――」
 驚いた声を出す日和に肩を寄せ、悠宇はそっと囁いた。


------<木崎香子、再び――調査最終日>--------------------------------------


 興信所に呼び出された香子は、不機嫌も露にどっかりとソファに腰掛けた。
「ちょっと! 調査は終わったはずでしょう、まだ嗅ぎまわってたの!?」
 吠えたのは、向かい合って座っているのは礼二に対してだ。この二人に会話をさせると納まりがつかないのはわかっているので、草間はさっさと間に割り込んだ。
「当興信所は、先日から調査を引き続けておりました。つきましては、香子さん。あなたにお尋ねしたいことがいくつかありまして」
 礼二の隣に草間、その隣にシュライン。蝶蘭は香子を見張るかのようにその隣に。相変わらず留守番に来ている泉水は、草間のデスクから顛末を見守っている。
 草間の前に、先日からの調査結果を纏めた書類を、シュラインが横合いからサっと差し込んだ。花枝の元同僚に聞いた話のほか、再度島津邸の周辺に聞き込んだ結果も、そこに収められている。
 紙束の一番上にゼムクリップで止められた一枚の写真を見て、香子の表情があからさまに引きつった。
「三宅弘平さん。ご存知ですね」
 驚いてしまった後で否定しても白々しいだけだと観念したのか、草間の問いに香子は頷いた。
「知ってるわ。花枝姉さんと同じ会社に勤めていた人よ」
「それだけではありませんね?」
 シュラインの声音は柔らかかったのに、まるで怒鳴られでもしたように、びくりと香子の肩が跳ねる。
「近所の方々に写真を見せたところ、花枝さんの密会相手はこの三宅さんでほぼ間違いないようで――」
「違います!!」
 シュラインの言葉をかき消そうとするように叫んで、香子は立ち上がった。全員の視線が香子に集まる。鼻筋に汗を浮かべ、拳を握って、香子は震えていた。異様だった。礼二ですら、それは嘘だろうとたたみかけることができない。
 しばらくの間、肩で息をする香子の呼吸音と、外の雨の音だけが室内に響いていた。
「もう、回りくどいことはやめましょう」
 沈黙を破ったのは、蝶蘭だった。
「このままお互いの腹の中を探り合っていたのでは、疑いばかりが増してゆきます。香子さん。花枝さんに本当に何もやましいところがないのなら、皆さんはきちんと向かい合って話し合うべきではないでしょうか」


 ――長い、長い間考えた末に、香子はゆっくりと首を縦に振った。


------<告白>--------------------------------------


 一行が島津邸に着いた時には、数日降り続いていた雨が止んでいた。薄灰色の雲に、夕焼けの桃色が滲んだ不思議な色合いを背に、平屋建ての大きな家は一層古く、暗く見えた。
 玄関に入るのは、まるで深い洞へと潜るような心地がする。あまり良い気分がしねえな、と。出迎えた花枝と義一に聞こえないようにこっそり呟いたのは草間だ。
 通されたのは、庭の見える部屋だった。欄間の下の障子を開け放つと縁側になっていて、掃き出しのガラス窓の向こうで紫陽花が夕日に照らされている。
 これまでの経緯は、本人の希望で礼二が語った。まずは、言葉を濁しながらも、花枝を疑うきっかけとなったのが智彦の出生についてであることを告げる。興信所の調査で花枝が三宅という男と接触のあったことが判明したところまでを説明し終えると、礼二は深く息を吐いた(彼が兄の遺産分配を気にしている件については流石に口にしなかったが、誰も敢えて追求はしなかった)。
 香子は、何かを恐れるように姉とその夫を見詰めている。義一は隣に座る妻を気遣わしげな目を向け、花枝は一人、毅然と頭を上げて礼二と向かい合っていた。
「そこまでご存知ですのね」
「姉さん! 駄目よ!!」
 香子が、悲鳴のような声を上げて花枝の袖にすがりつく。
「ねえ、香子。人一人いなくなってしまったのを、ずっと隠してはいられないわ。いつかは、誰かが私のところへたどり着くでしょう。それなら、いっそ今の内に話してしまいたいのよ。秘密が、あなたや、義一さんや、智彦を押しつぶしてしまう前に」
 花枝は宥めるように香子の手を握ると、袖口を握る指を外して立ち上がった。向かうのは縁側だ。
 人一人いなくなった――その言葉に、この場の誰もが悪い予感を感じていた。ある程度、それは予測されていたことでもあったが。
「三宅弘平は、この庭に居ます。紫陽花の花の下に」
 紫陽花を背にして窓際に立ち、花枝は言った。庭いっぱいの青い花。その一部に赤い花が群れている部分がある。
花枝が指さしたのは、そこだった。
「ごめんなさいね、香子。この家は、あなたにとっても思い出の家だったのに、こんな形で汚してしまうなんて」
 座っていることすらできず、腰が抜けたように畳の上にへたり込んでしまった香子に、花枝は静かに笑いかけた。しかし、笑っているのは唇だけだ。目元は、涙を浮かべて歪んでいた。
「十年前、私は三宅弘平と不倫の関係にありました。陳腐なお話ですが、いつかは奥さんと別れるという彼の言葉を信じていました。若かったんですね。それで数年間も関係を続けていたのですから、彼の奥さんに悪いことをしていたと、今となっては思います」
 その頃のことを思い出したのだろうか。息を吐き、花枝は頭を垂れた。結い上げた髪がほつれて、肩に落ちている。
「けれど、終わりはあっけなかった。子供ができたとわかると、彼は掌を返すようにに別れを告げてきました」 
「……子供」
 礼二が、ぽつりと呟いた。頷いて、花枝は続けた。
「絶望した私は、気がついたらこの家の前に来ていました。両親が生きていた頃、この家は私たちの家でした。私が中学に上がってすぐに、経済事情から手放して、それきり来ていなかったのに。幸せだった子供時代を思い出したのかもしれません。ちょうど、季節は今と同じ、梅雨の頃でした。門扉の隙間から塀の中を覗くと、紫陽花が咲いていました。私が好きだからと、父がたくさん庭に植えてくれた花が、そのまま残っていたんです。他の庭木も変化がないようでした。新しい持ち主が、お庭をとても大事にしてくれているんだと思うと、涙が出てきて」
 妻の告白を、義一は黙って聞いている。その視線に勇気付けられるように、花枝は言葉を継いだ。
「その時初めて、義一さんに出会いました。泣いている私に、庭の紫陽花を両手で抱えるくらいたくさん切って渡してくれて」
 花束を持つような仕草をして、花枝は目を細めた。濡れた睫毛から、ぽたりと雫が落ちた。
「私は義一さんと結婚して、黙って子供を……智彦を産みました。その頃、三宅にもう未練がなかったと言ったら嘘になります。この家に戻れるという打算も、あったかもしれません。けれど、義一さんを好きになったのは、誓って本心からのことです。年月が経つにつれ、三宅のことなど忘れて行きました。幸せでした。気がかりなのは、智彦が義一さんの本当の子供ではないということだけでしたが、それを知っているのは香子だけでした」
 花枝は、順を追ってとうとうと語る。香子から電話があった時から、ひょっとしたらもっと以前から、話す覚悟をしていたのかもしれなかった。
「それが――去年の末頃からでしょうか。三宅が、私の前に現れたのです。智彦は自分の子ではないかと言って、私が顔色を変えたのを見ると、黙っている代わりにとお金を要求して来ました。だんだん、それが頻繁になって……私が内緒で自由に出来る金額は、すぐに越えました。もう無理だと断わったのが、先月のことです。そうしたら、三宅はうちに押しかけてきました。お金が出せないのなら、義一さんにも智彦にもバラしてやると。私だけのうのうと、幸せにしているのが気に食わないからと言って。私は、家族が居る今の生活を、失いたくなかった。…………恐ろしかった。知らぬ間に、手が、台所から包丁を持ち出していました」
 花枝が言葉を切るのと、廊下側の襖が開いて小柄な人影が飛び込んできたのとが、同時だった。
「お母さん!」
 叫んだのは、小さな少年――智彦だった。背後に、日和と悠宇が立っている。二人の沈痛な面持ちから、かなりの部分の話を襖の向こうで聞いていたと推測された。勿論、智彦も聞いていただろう。智彦がどこまで理解できたのかはわからない。しかし、母の告白がこの先一生引きずる傷になるであろうことは、容易に想像できた。
 花枝は苦痛の表情を浮かべたが、それは一瞬のことだ。柔らかな衣擦れの音を立てて、花枝は智彦に歩み寄った。
「智彦。お母さんは悪いことをしたから、これから警察の人に来てもらうの。わかるわね?」
「わからないよ! だって、折角、」
「折角、呼び戻してもらったから、罪を償うのよ」
 智弘の口をそっと掌で塞いで、噛んで含めるように、花枝は言う。
「智彦たちがおかあさんにしてくれたことは、絶対に誰にも黙っているのよ。いいわね?」

 
------<人の世に生きるならば>--------------------------------------


 複雑でスキャンダラスな事件は連日ワイドショーを賑わせたが、梅雨が明ける頃にはすっかり話題にのぼらなくなった。
 そして、すっかり晴天となった、終業式の日。興信所には、礼二から支払われた報酬を受け取りに、調査に関わった面々が集まっていた。
「……義一さんは、礼二の小父さんがここに依頼に来た時点で、全てを知ってて花枝さんを許していたのよね? 調査さえしなかったら、今頃親子三人で静かに暮らしてたかもしれないと思うと……なんか、スッキリしないって言うか。余計なことした感じがしちゃうなあ」
 報酬の入った封筒でパタパタと顔を扇ぎながら、泉水が言った。
「興信所の仕事ってな、本来そんなもんだよ。今回はちっと特殊だったがな」
 デスクに積み上げられたファイルの向こうから、草間の声がする。
「昨日行ってみたらさ、礼二さんと香子さんが居たからびっくりしたぜ。あの家に智彦と義一さんだけじゃ心配だからって、一緒に住むことにしたんだってさ」
「今のところ、二人とも喧嘩はしてないみたいですよ。いつか花枝さんが帰って来る時には、仲の良い家族になっていると……良いですね」
 悠宇と日和は、あれからも時折イヅナたちを連れて島津邸へ遊びに行っているらしい。
 梅雨が終わるのと同時に、あの家に篭っていた不快な臭気は消えたようで、末葉も白露も反応を示さなくなった。あれは庭に埋まっていた三宅の遺体の臭いだったのかとも思う。しかし、悠宇にはまだ気になっていることがある。
 ニュースでは、花枝が一人で三宅弘平を殺害し、庭に埋めたことになっていたが、それは果たして可能なことだったのだろうかと。
「……女の人が包丁で、大の男を一方的に殺してしまえるものかな」
「多分、無理じゃないかしら」
「そうね」
 悠宇の呟きに答えたのは、黙ってなにやら考え込んでいた蝶蘭と、冷たい麦茶を運んできたシュラインだ。
「普通の女性の力で切りつけたんじゃ、まず相手が失血死するまでに時間がかかるわ」
「その間に逃げられるか――何らかの反撃を受けるか。ひょっとして、私たち同じことを考えているかしら?」
 ちらりと、シュラインが視線を流すと、蝶蘭が頷く。
「じゃあ、私たちも黙っておかなくちゃね。花枝さんが、智彦君のために必死で守ろうとしている秘密だもの」
 言って、シュラインは人差し指を唇に当てた。
  
 
                                      紫陽花の家・後編 了
                               

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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま/26歳/女性/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【4700/冴島・泉水 (さえじま・いずみ)/15歳/高校生】
【3524/初瀬・日和(はつせ・ひより)/16歳/女性/高校生】
【3525/羽角・悠宇(はすみ・ゆう)/16歳/男性/高校生】
【3505/ 梅・蝶蘭 (めい・でぃえらん)/15歳/中学生】

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          ライター通信         
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 前後編に、続けての御参加ありがとうございました。期日ギリギリで失礼します! お届けさせて頂きました、階アトリです。
 今回は、いつもの依頼とは大分違う雰囲気に仕上がったと思います。(二時間サスペンス風に、犯人(?)の告白なんかも入れてみたりして……。)
 色々と、推理を繰り広げてくださりありがとうございました。
 思っていたとおりの展開だった、という方にはウフフと含み笑っていただきたく思います。
 花枝の台詞など、意味がわからない個所がありましたら、西行法師の『撰集抄』について、ネット検索していただけましたらと思います。
 お話の都合上、NPCの描写や台詞がとても多くなっているのですが、それも含めて楽しんでいただけましたら幸いです……! 

 では、またの機会がありましたら、よろしくおねがいします。