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<東京怪談ノベル(シングル)>


『凍えた庭』


 降り出した雨に小走りになる。
 藍原・和馬(あいはら・かずま)は、傘を持たない。黒スーツの大人の男が濡れ鼠なのはみっともないが、バイトも終わり、このまま家に帰るだけだ。濡れたって構わなかった。
 早朝からの仕事は午後の早い時間に終わった。帰って寝て、夜にまた起きてネットゲームの続きだ。
 和馬のバイトには二種類ある。一つは、時給千円前後の、時間を切り売りして資本主義国の一員として製品やサービスを提供する仕事。もう一つは、命を切り売りする、調査(戦闘含む)という日給十万単位のヤバイ仕事。今日は幸い前者の方だった。
 雨が強くなる。この辺りは住宅街で、雨宿りできる店舗も軒先も見当たらない。和馬は、塀からせり出すイチョウの樹の葉陰へ隠れた。

 その庭に、白い花を見つけた。
『夏椿・・・』
 文字通り今の季節に花を付ける椿だ。葉は冬の椿に比べると薄くて華奢で、花も、椿独特の、和紙をまとめたような今にも破れそうな柔らかさがある。雨に叩かれ地面に落ちないか心配になる。
 沙羅(シャラ)の樹とも呼ばれる。沙羅双樹に似ているので、そんな呼び名がついたらしい。この淡い白は、盛者必衰の色と酷似しているというわけか。
『もしかして、ここは・・・』
 まわりを見渡すが、もう記憶はおぼろげだった。住所表示は、新興住宅地に好まれそうな町名で、昔の名ではなさそうだ。区画整理で細かい住宅が立ち並ぶ。
 いや、夏椿くらい、どこの庭にもあるだろう。
 もう忘れたと思っていた。

* * * * *

 それは、ヤバイ方のバイトだった。10年前なのか20年前なのか定かでは無い。900年以上生きて来た和馬は、当時も外見は今同様30歳ほどの青年だった。
 家人が夜逃げしたような荒れた屋敷に侵入して、中を探るという仕事だった。無人に見えるその館は、書類上はまだ人が住んでいる。そして電気も水道も消費され、毎月口座から引き落とされているそうだ。
 高い塀に囲まれた洋館だった。郵便受けには、風化したピザ屋や改築屋のチラシが押し込まれていた。新しい物が無いのは、ここを居住者ナシと見切ったからだろう。手紙をよこす友人もいないらしい。
 和馬は、昼間から堂々と、鉄柵のエクステリアを「よいしょ」と乗り越えた。人通りの無い閑静な住宅街で、雨も降りだし(梅雨だから仕方ない)、見咎められる心配は少なかった。深夜に、懐中電灯片手に忍び込む方が、灯を見られて危険が大きい。
 突然の病死か強盗にでも殺られたか。人付合いの悪い洋画家の死体は、煌々と灯に照らされ、まだ屋敷の中で転がっているのか。蛇口の開いたままのバスタブで腐敗しているのか。
 その館の捜索を依頼したのは、隣人でも無く、世帯主の友人でも無かった。そんなマトモな依頼主なら、警察に捜索を依頼すればいい。
 植物の声が聞こえるというその婦人は、『あの庭の子達が、寒いと凍えています。助けてと訴えているのです』と言う。

「確かに寒い」
 和馬は肩をすくめ、思わず背広の衿を立てた。今は6月半ば。だが、この庭は真冬の寒さだ。
 庭には落葉して裸になった木々が並ぶ。和馬は目を疑う。都心の街路樹が排気ガスで枯れるのが社会問題になっていた。しかし、この庭でそれはあり得ない。
 広い洋風の庭だ。アーチに薔薇でも咲くのだろうか。だがそのワイヤーは枯れた茨に巻きつかれ、棘の痛みに悲鳴を挙げていた。薔薇は、今が盛りでは無いのか?
 煉瓦に囲まれた花壇に、血のしたたるようなシンビジウムが咲く。屋敷の壁に沿っていくつも置かれた紫のシクラメンの鉢植え。厚い葉肉は椿だ。臘月か嵐山だろうか。柔らかそうな白い花びらが雨に打たれ震える。雨。いや、霙に変わっていた。
 土を踏むとザクリと音がした。霜柱だった。
 ここは・・・何なのだ?

 古びた重い扉は、曲がった釘で簡単に開いた。玄関に立つと、柱時計の音が聞こえた。室内が無音なので、時計の音だけが響いた。庭よりも室内の方が気温が低い気がした。息が白い。バネ式の扉が締まる。まるで冷蔵庫に閉じ込められたような。

 血の匂いはしない。和馬は人間よりは数段鼻が利いた。人の気配も無い。生き物の匂いは皆無だ。和馬は靴のまま廊下を進んだ。寒さのせいか、壁や天井に蜘蛛の巣も無く、廊下には雪に似た白い埃だけが積もっていた。
 アトリエだろうか。広い部屋の扉は開きっ放しで、和馬はそこで足を停めた。何かが動いたのだ。
 扉から無防備に室内を眺めた。動いたのは毛皮のコートの腕だった。
『生きた人間が?!』
 慌てて壁に背を付け、息を殺して覗いた。臭いがしなかったのに、何故。
 毛皮を着て毛糸の帽子を被った長髪の男。世帯主なら、和馬とそう外見も違わぬ30代の男のはずだ。だが、縛りもせず銀狐にたらした長い髪には白髪が混じっている。指無し手袋をした男の手は、油絵の絵筆を握る。男の前にはイーゼルが仁王立ちしていた。
 寒さで麻痺した鼻孔に、初めて膠とシンナーが飛び込んで来た。
 その男の視線の先にあるもの。
 和馬は、『ああ』と、目を閉じた。
 
 氷漬けにされた裸体の女が揺り椅子に座っていた。椅子は決して揺れることは無いが。

 妻、だろうか。黒い真っ直ぐの髪が胸まで届き、白い乳房を見え隠れさせた。俯いた顔はきつく瞼を閉じ、長い睫毛が頬に影を落とす。女は唇に紅を差し、日本人形のように美しかった。
 男が振り向き、和馬を見た。
 目は、血走ってもいなかったし、朦朧ともしていない。恍惚もない。正気の瞳で和馬を見据えた。そのことが、余計に和馬を戦慄させた。寒さのせいでなく、背に悪寒が走った。この男は正気なのだ。
 頬がこけて目が窪んでいるのは、きちんと食事を取っていないからだろう。それ以外はいたってまともな表情だ。
「あと少しで完成だったのに」
 男はそれだけ言った。
「自然死だったとしても、おまえのしていることは犯罪だよ」
「犯罪か。俗っぽい言葉だ。こんな抜け殻を、今さら裁いて投獄するか。面白いな」
 男はそれだけ言うと、その場に崩れ落ちた。張っていた緊張の糸が切れたように。いや、和馬から見たら、ただの栄養失調に思えた。

 救急車と警察を呼ぶ為に屋敷内を探して歩き回り、居間でアンティークな電話器を見つけた。だが、無音だった。電話は止められていた。いや、男が自ら止めたのかもしれない。室温が上がっているのに気付く。寒さはもう感じない。
 公衆電話を求め屋敷を出た。むっとした湿気が和馬を襲う。霙は止み、初夏の日差しが庭に痛いほど照りつけていた。ひまわりが背筋を伸ばし、落葉樹は輝くばかりに青々と葉を揺らした。椿は土に落ちて腐っていた。シンビジウムにももう花は無く、尖った葉先が暑さにしおれている。アーチには赤や黄の薔薇が咲き乱れ、和馬を見送った。
「雪の女王の、魔法が溶けたか」
 和馬は誰に言うでもなく呟いた。

 コールから数分たたずに、高級住宅街をサイレンの音が巻いた。男はやはり、『俗っぽい音だ』と吐き捨てるように言うだろうか。
 和馬はズボンのポケットに手を入れて、ゆっくりと歩き出した。
 その区画を抜けた時、白い椿の花にぎくりと足を止めた。ありきたりの一戸建ての、雑多な庭。ここにも、アレに似た狂気が存在するのか、と。
 葉が、冬に咲く椿より薄いのに気付く。それは、夏椿だった。風鈴の音が響く。頼り無い花びらが、風に揺れていた。

* * * * *

 今も、どこかの軒先で、風鈴が土砂降りの雨粒に叩かれて、風情の無い乱れた音で鳴いていた。


< END >