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ひびわれの記憶
地鳴りのような騒音に眠りをさまたげられた。
何かと思えば、……それは、わしの呻き声よ。
新月。
忌々しい、見えぬ月め。
目にも見えぬ分際で、このわしを戒め、苦しめるか。月の呪縛の苦痛には、最早慣れた。しかし慣れてはいても、わしは忘れることがない。この、苦痛を。
今宵は新月――わしは、窮屈なこの姿のままで、苦痛に呻きながら朝を待つより他はない。傾きかけたわしの家には、娯楽の類はひとつもない。わしは独り、何もせずに、朝を待たねばならぬ。
「……」
独りにも、慣れようと努めておるところじゃが。
わしは宵闇でさえずり、使い魔の狗鷲を呼んで、明かりをつけた。壁の古びた掛け時計は、まだ朝が遠いことをわしに伝えてきた。
さっさと歩みを早めんか、針めが。
わしが唸り声を上げると、金魚がわしを見つめ、ヒヨコが足元に寄ってきた。狗鷲はともかく、ヒヨコも金魚もものを言うことはない。わしがなにを問おうと、わしを見つめるだけだ。……なるほど、やはりわしは、独りであるのだろう。
――独り……。
『らっこ、らっこ。なーなーなー、おれさ、こないだ、らっこそっくりなやつとキャンプしたんだぜ。らっこって兄弟いんの?』
『おや、ラカさん。入れ違いでしたね。……いえ、生き別れのお兄さんを探しているという方が、先ほどまでこちらにいらしたのですよ。その方がですね……いや、なんとも……ラカさんにそっくりでして。うっかりラカさんと呼ぶところだったほどなのです。ひょっとすると、その方が探しておられるお兄さんというのは……』
わしは、独りじゃ。その、はずだ……。
いまは、独りじゃ。少なくとも、いまは。
だがしかし、ともすれば、わしは忘れさせられているだけなのやもしれぬ。古い記憶には霞がかかっておる。記憶に頼らずとも判るのは、わしが、この世界においては“異”なるものであること。どの時代のどの世界で生まれ出でたはわからぬが、わしはともかく、この世界の竜ではない。
記憶の霞は、すぐに消し飛ばせる。
しかし……わしは、いつまでも霞を抱いていた。
霞をかきわけ、わしの記憶を辿ってゆけば、わしは思い出したくもない過去と相見えることになる。
誰にもけして吐くことはなかろうが――わしは、その、霞の向こうのわしを知るのが……恐ろしい。
新月の霞は、いとも容易く吹き飛んでいく。わしの咆哮と視線があれば、記憶はわしの前にかしずき、不敵に笑いおる。わしは、馬やうっかりものから『弟』の話を聞くたびに、霞の向こう側を覗くのだ。ここのところ、宵闇が明けるまでの刻を、そうして潰しておる。
廃墟の異形と闘り合うこともなく……、
狗鷲とヒヨコや金魚に餌をやり……、
仕事もせずに、月が満ちて欠けてゆくのを待っておる。
この新月の夜とて、そうじゃ。わしは霞を食らいて、記憶をさかのぼってゆく。
***
ここから出たくない。
痛みと恐怖が外套を広げて自分を包む。
ここは暗くてとても湿っているが、ここにずっと隠れていれば、もう恐ろしい痛みを味わうこともないはずだ。
隠れるのだ。
永遠に隠れていればいい。
この隙に、力をたくわえて……
***
あああ、白い白い白い。
赤い、赤い、
痛い、
ここは、
あがあああああああ。
こわい、こわい、
しろ
い
たい
ぎ・ぎ・ぎ
白い白い白い。
出し
ぎゃは
***
わしはぼんやり、天井を見上げて寝転がっておったらしい。霞の向こう側に、いつものように立ちはだかっていた記憶めに痛めつけられ、わしは跳ね起きた。そうして、流しに顔を突き出した。胃袋の中には何も収まってはおらぬ。しかし、思い出せば苦痛が喉の奥からこみ上げてきた。
昔を思い出そうと足掻けば、この有り様じゃ。
人間ごときに、わしは心を蝕まれた。
どこの国のものともつかぬ研究所に、わしは、捕らえられ――白鼠のようにいじくりまわされたことがあるらしい。らしい、とでも思わねば、わしは恐らく気がふれる。
或いはすでに狂うておるかもわからぬが。
わしは自ら記憶に霞をかけ、己の正気をまもっておるのか。わしはそこまで、弱いものだというか。わしは――最強にして最凶の、竜なのではなかったのか。
***
そう、竜は、この世のものではなかった。太陽の鱗を持つ光の竜は、どこからかふらりとやってきたのである。まだ若い竜だった。世界の風と空気と月に、彼は違和感を抱いて、寒気と眠気に襲われた。彼は、昼になれば太陽が見下ろしてくれる岩場で丸まり、長い眠りについたのである。眠りながら力をたくわえ、故郷に戻るために。
しかし、眠れる異界の竜に、人間たちが気づいてしまった。異形の存在に恐れをなす人間たちの中から、ひとりの識者があらわれ、赤い幼い竜をとらえていったのである。
識者は白鼠のように竜を扱った。禁断の秘法や呪法を古文書から見い出しては、幼い竜に施したのである。竜が抗うすべは奪われていた。記憶と力は、呪鎖や呪いで封じられていたのである。赤い竜には、余分な頭が与えられた。
人造の六面王が、そこで生み出された。
***
「があ、あ、あ、あ!」
わしが頭を振れば、ぢゃらりぢゃらりと鎖が耳障りな声を上げる。月の呪縛はわしを捕らえたままじゃ。月はいつまで、この羅火を戒めるつもりか。わしは力をたくわえ、戻らねばならぬ。
――何処に。
それを思い出そうとすると、わしの頭は恐ろしく痛んだ。まるで雷を脳漿に通されているかのように……鑿で頭蓋を穿たれているかのように……硝子の破片を、脳髄に突き立てられているかのように。
わしは、思い出してはならぬのだ。
思い出さねばならぬことが、あるというのに。
『らっこ、いっぺん会ってみろよ。あいつンち、おれ、知ってるからさー。もし他人つーか他竜だっとしてもさ、たぶん、らっことあいつならすっげー仲良くなれると思うんだよなー。それにあいつ、けっこー強いぜ。ケンカも出来そーだぜー。らっこ、ケンカ好きだろ?』
『ラカさん、一応、その方の連絡先はこちらになっています。お心当たりがあれば、一度お会いしてみては……』
その、わしに瓜二つだという輩とは、いつでも会える。わしの知るものどもが、いつでも手引きをするだろう。わしが望まずとも、世話を焼こうとするやもしれぬ。
しかし、わしは――
!!!!
「ぐ、う、う、う、――」
思い出すことが出来ぬ。
霞が赤く染まってゆく。
わしは……もし、存在するとしても……血縁のものの名すら、思い出すことが出来ぬのだ。わしは拳でこめかみを殴りつけたが、赤い痛みはいつまでも脳髄にこびりついていた。
忌々しい。
新月の夜でなければ、ここまでわしは苦しまずにすむか。
見えぬ月め――見えぬ、過去め。
目にも映らぬ分際で、この羅火を苦しませるか。この竜を嘲笑うか。この光を、殺すというか。
わしは新月が照らし出す手錠と鎖を、ねめつけた。骨をも貫くこの枷は、未来永劫消えることはあるまい。月があらわれ、消えていく限り。
「弟か……この、わしに――」
わしは使い魔の目を見た。狗鷲は何やら、知っておるのやもしれぬ。わしと目を合わせようともせず、黙りこくった。
わしは、独りじゃ。
弟と名乗るものと会うたとしても、わしはその弟を「他人」(他竜、じゃろうか)と思うにちがいない。弟がわしの生い立ちを語ったところで、わしはその話を己の過去として納得出来得るだろうか。
わしは――独りであるべきか。
わしは――恐れているのだろう。
おのれ、目にも見えぬ『弟』め。
この羅火を、これほどまでに、恐怖させるか。
新月よ、砕けよ。
宵闇も、さっさと死ぬがいい。
<了>
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