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<東京怪談ノベル(シングル)>


あちこちどーちゅーき 〜空を見上げて

「…………さて、と」
 一人呟き、敦己は島に降り立った。
 緑茂る、夏。その瀬戸内海の名も無き島に一人降り立った事に、特に意味はない。
『一代にて遺産を食いつぶせ』。
 祖父の酔狂な遺言に、己の酔狂さで律儀に応えた末の話に過ぎない。

 酷暑を予想される夏の気配に息を吐き、うっすらと額に浮かぶ汗をぬぐう。
 やはり北へ向かえば良かっただろうか。
 詮無い考えはすぐに捨てられ、現代には珍しい程の緑に覆われた島への好奇心が、それに取って代わった。
 小さな島だった。
 人口も果たして百に届くかどうか。
 中央部分に山があり、その裾野を民家が固めている、といった印象である。
 
 敦己は港を出ると、取り敢えず手近な島民を見つけて話しかけた。
 旅館か民宿の所在を尋ね、ついでにこの島で何か面白い物はないか、と話を振る。
 こういう質問は大方空振りに終わるが、その漁師らしき男性はそうだなぁ、と少し考えて口を開いた。
「そら、その山の真ん中辺りにちょっと開けた所があるだろ。夕方くらいに行ってみな」
 その山、と指したのは当然、島の中央に鎮座するそれであった。目を凝らせばなるほど、遠目からでもその草原らしき一角を見つける事が出来た。
「……何があるんですか?」
 尋ねても漁師は笑ったままで、ただ促すだけだった。

 そういう言い方をされると、敦己としては好奇心を捨てられなくなる。
 民宿に部屋を予約し、わずかな手荷物を置くと、すぐに山へと向かった。
 時間は既に昼下がり。
 距離と山歩きである事を推し量れば、今から向かっても早すぎるという程ではない。

 島唯一な為であろう、名前はないらしいその山は、敦己が予想していたよりも幾分歩きやすかった。
 多少は人の手が入っているのか。
 獣道とはいえ道を切り開くような必要も無く、他の者はいざ知らず、敦己にとっては普通の道を往くのと大差なかった。
 滲む汗を拭いながら、空と周囲の位置を確認して、およそ行程の半ばほどには達したか、と察した頃の事であった。
「――――おい」
 不躾な声が、敦己の行く手を遮った。
「…………はい?」
 横手から草を鳴らして現れたのは、一人の老人だった。
 一見して猟師か何かに見える老人は、甚だ非友好的な視線で敦己を貫いた。
 「余所者か……」という呟きは、敦己にあまり良くない想像をさせるのに充分だ。
「山に何か、用か?」
 単刀直入な言葉に、取り敢えず敦己は苦笑を浮かべるしかない。
「えぇ。なんというか……物見遊山なんですけどね」
 老人の眉間辺りに、多く刻まれた皺が寄った。
「……この山は日が暮れると道が見えんようになる。今からでも引っ返した方がえぇ」
「あ、どうもご親切に。……でもまぁ、大丈夫ですよ。これでも山歩きは慣れてますので」
 老人の表情に、更に硬さが増した様な気がした。
「……そういう奴でもこの山は迷う。余所者を拒む山じゃからな」
 港の猟師も民宿の人も、そういう事を口にしてはいなかった。
 心の中で怪訝な顔をしていると、老人はふい、と背を向けた。
「……山の中で夜を明かしたくなかったら、今からでも降りる事だ」
 そう台詞を残し、そのまま茂みの奥へと消えていく。
 とりつく島もないとはこの事か。
 苦笑の表情のまま、敦己は溜息を吐いた。

 だが。
 日は落ち、周囲を月の光が支配する頃になって、敦己は老人の言葉が現実になった事を悟った。
 時刻、月の位置。更には切り株から方角まで確かめても、そこから導き出される答えは「遭難」の二文字だった。
 ありうべからざる事である。
 道の複雑でもないこんな山で迷った事など、ついぞ敦己には記憶にない。
「…………参りましたね」
 流石に荒くなってきた息でそう呟き、適当な樹の根本に腰を下ろす。
 普通なら迷うはずの無い所で迷う。つまり――――迷わされているのだろう。
 町の人達はこの山を特に神格化してはいないようだった。そういう所でこういう事はあまり起きないと思うのだが……。
「……ま、別に良いですけどね」
 いい加減な所で思考を打ち切って、敦己はごろりと横になった。
 季節は夏。空腹もまぁ、手持ちのちょっとした携帯食で凌げる程度。
 むしろ状況をを楽しむ体で、敦己は笑顔を夜空へと向けた。見れば、まばゆいばかりに広がる月と星。
 周囲の虫の合唱も、それに身を委ねてみれば快い。
 迷った事など、些細な事だ。

 どれだけ時間が経っただろうか。
 十分、二十分程度かも知れないし、二時間、三時間にも及んでいたかも知れない。
「――――おい」
 自然の風雅を満喫していた敦己の前に、いつの間にかあの老人が立っていた。
「あぁ、どうもこんばんは」
 敦己は視線も姿勢も変えないまま、のんびりと応じた。
「……やっぱり迷いよったな。……ほれ、こっち来ぃ。町まで連れてったる」
 無愛想に踵を返そうとする老人の背を、やはりのんびりとした敦己の声が叩いた。

「――――あぁ、お構いなく。いいですよ、このままで」
「…………なに?」

 心底意表を突かれたような声を上げて、老人は振り返った。
「御忠告を無視したのは俺ですし。それにまぁ……これはこれで、結構楽しんでますから」
 老人は無言で敦己を眺めた。
 敦己は上半身を起こし、人好きのする笑顔でそれに応じた。
 怒っているのか、呆れているのか、驚いているのか。
 案外全部かも知れない。
「…………お前、この山に何しに入ったんじゃ」
 ようやく出たその声には、なにか疲労めいた響きがあった。
「ですからまぁ、文字通り物見遊山ですよ。この山の平原の所で、何か面白い物がある、って言われましてね」
 敦己の言葉には、裏も表もない。ついでに言うなら、そもそも意図がなかった。
 老人は一つ、溜息を吐くと背を向けた。
「着いて来ぃ」
 そう言って、来た茂みを掻き分けて歩き始める。
 敦己は身軽に身体を起こすと、枕にしていた荷物を拾い上げた。
「いいんですか?」
「……ええわい」
 なにが、とは二人とも言わなかった。

 その場所への距離は、大したものではなかった。
 少なくとも敦己が歩かされた距離に比べれば。
 歩き始めてすぐに見覚えのない場所に出たのは、敦己の推測をおおよその範囲で裏付けるものであった。
 そして、急に視界が開けた。
「うわ…………」
 思わず、敦己は感嘆の声を上げた。
 夜空という黒いキャンパスを、無数の宝石が乱舞する。
 朧な光と光が交錯し、幻想的な光景がその空間を支配していた。
「蛍…………ですか」
 流石の敦己も、目の前の状況に見たままの事しか言えない。蛍を見た事がないわけではないが、これだけの数が飛び交う光景は中々無い。
 老人は何も言わず、空を舞う宝石達に見入っている。
「…………悪かったな」
 やがて、そうぽつりと呟いた。
「……知らん人間に荒らされると、台無しになっちまうでな」
「いいですよ」
 敦己は軽く応えた。
 実際、これだけの光景を見せつけられると、迷わされた事など簡単に忘れられた。
「また、いつか来ても構いませんかね」
「……また、迷うかも知れんぞ」
「いいですよ」
 軽く返すと、老人はわずかに呼気を漏らした。
 笑っているようだった。

 そのまま、奇妙な青年と老人は、夜が白み始めるまで、その光景を瞼に刻み続けた。
 まるでその光景と、同化するかのように。



―了―