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<東京怪談ノベル(シングル)>


 □さまよいの青□


 天から降りてくる光が常に熱を孕む季節。
 道行く人々は日差しの下を足早に通り過ぎ、我も我もと影を探す。ひんやりと冷やされた居心地のいい場所に滑り込んだ者たちは一度だけ安堵の息をつくが、すぐにまた自らの行かなくてはならない場所へと向けて、熱の下へと飛び出していった。汗をかき、ふうふうと息を乱して。

 熱と湿気が渦巻き、絶えず人が行きかう都市を、一対の瞳が見下ろしていた。とあるビルの屋上、打ちっぱなしのコンクリートの上でひらひらと紅い振袖をなびかせながら、黙々とその少女は熱を孕む眼下の世界を冷めた目で眺めている。
 いや、冷めた、というのは語弊があるだろう。
 少女の身体は本来熱をもたないつくりをしているのだから、それが当然の話なのだ。

「……………………」

 理想的な日本人、そう言うのが相応しいであろう緩やかな顎の曲線は、ここに立ってからずっと歪む事はない。
 人工的な赤みを帯びた唇は静かに閉ざされ、視線は変わらず風景をただ見つめるのみ。寡黙。ずっと彼女を見ていた存在がいるとするならば、きっとそう評しただろう。喋る事ができないのだろうか、と考える者もいたかもしれない。意地の悪い者ならこう揶揄するだろう、「このむすめには感情などないのだろうさ、人形のような顔をして」と。
 だが、少女の瞳をじっと見つめていればきっとそんな考えは霧散するに違いない。
 人形のように整いすぎた外見とは裏腹に、その青の瞳の中には「もの」などとは決して言えない感情のともし火が確かに存在し、揺らめいているのだから。

「……ここにも、」

 おられないのですね。
 ひとしきり人波を見下ろしていた少女は、澄んだ声でそれだけを呟いた。

 次の瞬間、少女の姿はビルの上から消え失せていた。
 まるで夏が気まぐれに見せる陽炎のように儚い、紅い影の消失。





 少女の名は四宮 灯火といった。四宮という苗字はその家の長女に買われた時につけられたものだ。
 牡丹の柄をあしらった紅色の着物と真白い肌、そして瞳にはめ込まれた鮮やかな青を、灯火の主はいつも微笑みを浮かべながら眺めていた。
 四宮家で流れる時間はゆったりと、時に賑やかに過ぎた。笑い、泣き、そして怒る。その全てを灯火はただ見つめていた。

 灯火は幾年経ってもその身を変化させる事はないが、人間は年を経ただけ老いていく。
 とある日の朝のことだ。いつも仕度をする為に灯火の前を横切っていた長女が、その日を境に姿を見せなくなった。
 それから人の出入りが激しくなり、黒い着物をまとった者たちが忙しなく家の中を歩き回ったかと思うと、その数日後にはただがらんとした風景だけが残った。
 しん、と静まり返った家。見慣れた風景の中で、灯火はただいつものように紅い着物をまといながら、虚を眺める。

 それから灯火には布がかぶせられ、次に布を外された時には薄暗い世界が現れた。その向こうには椅子と、幾人もの人、人、人。
 大きな声と、カンカン、という木を叩くような音が混じり合ったかと思えば、再度布がかぶせられた。目まぐるしく変わる景色。

 透明な箱の中で何処かへと運ばれながら、いつしか青の瞳の中にはちりちりと、ごく小さな輝きが浮き上がるようになった。
 いつしか景色を、そして空気を感じるようになった灯火は、己を一番美しく見せる角度にあった手や腰や足の位置を、自らの意思で破壊する。完全な美を崩し、ひとつの事を思いながら硝子の箱へと手をつければ、懐中電灯を持った青年が悲鳴をあげて走り去っていった。

 そして少女は誰もない闇の中、口を開いた。
 呼吸をする為ではなく、ものを咀嚼する為でもなく、ただ灯火は呆然と最初の言葉を発する。


『―――――――― 様……』


 響きは暗闇に染み、溶けて消え去るだけだった。





 あれからどのくらいの年月が経ったのか、灯火には分からない。
 ただ彼女にとっては、かつての自分の持ち主であるひとが全てだった。
 しかし主から遠ざけられてしまった今、少女の傷ひとつない白磁の胸の奥は常に軋んでいる。望みという名のそれと直結するようにつくりものの身体は動き、少女は暇を見つけては高いところへと足を伸ばす。

 こうすれば、どこに主がいようともすぐに見つけ出せるだろう――――

 とん、という音と共に、草履をはいた小さな足がコンクリートの円へと降り立つ。
 都心に何千何百とある電柱、その中の一本の上に危なげもなく立ちながら灯火は首を軽く前へと倒し、下界を見つめた。先程の繁華街とは違い賑やかさは多少減ってはいるものの、やはり人影の絶えない道を、少女はじっと眺めていく。記憶の中と同じ姿がそこを歩いてはいないかと、ただ真っ直ぐに。
 しばらくの後、灯火は一度だけ瞬きをして狭い電柱の上で踵を返した。
 艶やかな帯の色が、夏の空に溶けるようにして消える。

 こうして瞬間移動をする際に灯火が望むのは、高い場所、それだけだった。どこという指定も何もなく、ただ人よりも高い場所を望めば、草履は自然と目的の場へと降りていく。
 次に少女が降りたのは、民家らしき建物の屋根だった。深い色の瓦屋根の上に立って、また見下ろす。もう何度も同じ仕草ばかりを繰り返しているというのに、灯火の目には飽きもつまらなさも浮かんではいなかった。

「……………………」

 ふと、声がした。
 視線を動かせば、斜め向かいの民家から黒い着物をまとった者たちが出てくるところだった。皆一様に涙に暮れている中で、手を引かれた子どもだけが訳がわからなさそうに首を傾げている。
 やがて玄関から出てきた長い木の箱が豪奢に飾り立てられた車へと運び込まれ、黒服の者たちは走り去るそれを見つめながら口々に何かを言っていた。

 灯火は一連の光景を静かに見つめながら、いつか教えてもらったことを思い出していた。
 確か、これは人が死んでしまった時に行う儀式だ。黒い服は喪服といい、涙を流している人々は亡くなった者の死を悼んでいるのだという。

 死。
 その言葉に、灯火の胸が少しだけ熱を持った。
 いつしか現れなくなった自分の主。黒い服が行きかったあの日。

「………………………」

 もしかしたら。
 そう思う時があった。
 どこを探したとしても、もうこの世のどこにも自分の主はいないのではないか、と。
 灯火とは違い、主はあくまで人間だ。人間には寿命という、抗えない終着点があるということも、少女は知っていた。

 ならば。

「…………次へ」

 降り注ぐ熱の暴力さえ、顔を上げた灯火の静かな瞳を焼くことはできなかった。
 奥に眠るのは青い熱。ちりちりと静かに、けれど確かに少女がここに存在していると示す熱は、浮き上がりかけた考えをそっと退ける。

「……次へ、参りましょう」

 そう、次へ。
 灯火は主がいなくなってしまった事しか知らない。だからその後で主がどうなってしまったのか、もしくはどこへ行ってしまったのかなど、分からない。
 分からない以上、浮き上がる考えはただの憶測でしかないのだ。

 少女はもう誰もない民家を見下ろすことを止め、着物の袂をなびかせて踵を返した。
 今日という日はまだ終わらず、たとえ終わったとしても明日という日がまたやってくる。何度も、何度も。
 明日がやってくる限り、灯火はこうして高い場所に立つことをやめないだろう。
 それは約束でも何でもない、ただ少女が望む、ただひとつのことの為に。

 そうして少女の姿は、また、掻き消える。





 春の風に煽られても、
 夏の熱に焼かれても、
 秋の枯葉に遮られても、
 冬の雪に塞がれたとしても、

 灯火は街を彷徨い続けるだろう。

 ふらふらと、ただひとつの願いを。
 ――――かつての持ち主への想いを、小さな胸に秘めたまま。



 


 END.