|
桜の出会い
蒼い夜に、月が鳴いている。
優しい月明かりに照らされた町並みや、さわっと風に揺れて、擦れる草葉たち。それらは微かとは云え色彩を欠いた闇夜の世界の中で、ひっそりと泣いていた。
静謐さが、何処からか滲み出て来るほどに、ひっそりと、無音で。
だからこそ、月が鳴くのだ。
夜鳴き鳥がそのひどくか細く、余りにも綺麗な声で、眠れと囁くように。
月夜の無音の静寂に揺らされて……街は眠る。
嗚咽を漏らし、それでも眠る。悪夢に魘されながらも、月の音色に顔をそっと撫でられるように。
ただ、蒼い闇ばかりが、全てを見守る。
すべては、ただひたらす優しく、哀しく、切なく。
…………………
……………
………
…
想いが胸を締め付けるように、淡い朝の日差しは彼女の眠気ばかりを強めて、瞼を重くさせる。けれど此処で瞳を閉じる訳にはいかず、少女は力一杯にレースのカーテンを開け放った。
飛び込んできたのは、やはり淡くて小さな朝日。春なのだ。ゆったりとした風だけではなく、すべてを照らす太陽でさえ、眠気を誘ってしまう。
滲み出すように東側の町並みから零れて来るそれを紅い瞳に閉じ込め、ようやく彼女は胸に溜まっていた眠気と軽いため息を吐き出した。
朝の日差しに瞬いたそれは、紅い、真っ赤な瞳だった。鮮血を吸ったような色なのに、それでも優しい赤の色合い。まだ整えられていない銀の前髪が数本その瞳の前に掛かり、綺麗に煌く。
そして彼女は、柔らかな声で言葉を紡いだ。
「ほら、もう朝ですよ? 起きないと大変ですよ?」
苦笑を緋色の瞳に湛えながら、少女、御坂・明が自分の妹を見ると、まだ布団に包まったままだった。もこっともりあがったベッドの様子を見ると、何故か猫のような印象を強く受けてしまう。
そんな布団とベッドの中から漏れて来たのはううっと、微かにくぐもった声。
御坂はひたすら苦笑する。だが、それでも落ち着いた雰囲気を彼女は崩さなかった。
むしろ……ただ、のんびりしているだけかもしれないが。
少しだけ乱れていた前髪を手で整えながら、御坂はもう一度妹に告げる。
「早くおきてくださいね? 食事の用意はしておきますから」
「姉さん……まだ……五時です……」
朝は弱いのか、妹はそう呟いた。けれど、彼女はまったく時計を見ておらず、ただ布団の中で丸くなっているだけだった。枕まで一緒に中へと持ち込んでいる様子。
完全な勘か、寝ぼけて言っているだけ。
そう思って御坂は、やはり苦笑。時計を取ると、針は六時半を刺している。
御坂自信だってまだ眠りたかったのだが、女の子なら身だしなみを整える為にも、もう起きないと駄目な時間なのだ。
♪
手の平を刺すような冷たい水だけが、この春を否定する。桜すら咲き始めているというのに、それでもこの水道水は冷たい間々だった。まるで、雪解け水がこの中に流れ込んできているかのように。
「冷たい……ですね」
言葉にしてもこの水の温度が変わらないのは知っていたのだが、その声も蛇口から流れ出す白々しい水音に呑まれてしまい、逆に余計に部屋の温度まで下がった気にさせられてしまう。
錯覚に過ぎないのだが、手の平から伝わった寒気が背筋を蝕んでいるように感じてしまっていた。現に、瞼の裏に張り付いて離れなかった眠気も、剥がれ落ちるようにして消えていく。
すっと眼を細めて、御坂は鏡を見つめた。
映る虚像は瓜二つ、整えられた銀髪の光沢は一寸たりとて変わらない。ぶつかりあう柔らかな深紅の視線すらそうだった。少し視線を逸らせば、もう一つの双眸も同じように動く。左右反対、それでも目に入ってくるのは、全く同じな鏡の影。
そんな物なのかもしれない。
まだ前髪が気になるのか、前髪を手で整えながら御坂は心の中で呟く。
――そんな物なのかもしれない。
春が訪れても、まだ水は冷たい間々で、鏡は本物ではないのに、まるで本物のように似ている。
夢に酷似したリアル。
過去にそっくりな今。
そんな物だと思いながら、それでも少しだけ変わらない日常に……否、いつか変わるかもしれない日常に、御坂は微かに微笑んだ。
吹っ切れるように、綺麗に、儚く、笑ったのだ。
朝の匂いに、春の散る香りが混じっていた。
――それは何処か、切なくて痛い香り。
それを振り払うように銀髪へと手櫛を入れながら、御坂は台所のある居間へと向う。
「さて……と」
制服に着替え、身だしなみも整えた。残るは朝食である。朝の弱い妹の分も一緒に作らなければならない為、その責任は二倍以上だ。姉として妹の食事に気を付けねばならないし、その上、あの妹がマトモな朝食を作れるとは思えない。
自然に広がる笑みを隠す事もなく御坂は冷蔵庫のドアを開けて、冷気の漂うその中から朝食に使えそうな食材を物色し始める。
「卵と…ベーコンと………後は……」
視線で捕らえた物を手で取りながら、御坂は呟く。まず、この食材ならベーコンエッグが作れる。食卓に置いておいた食パンでトーストを作れば、後は野菜が何かあれば十分だろう。
朝は一日の最初にとる食事だからこそ、栄養バランスが最も重要だと彼女は思っていた。
「レタスで、十分ですよね」
それらの食材を取り出して台所に並べると、御坂はまずフライパンを火に掛けて油を敷く。続いては、ベーコンだ。じゅっという小気味の良い音を鳴らさながらそれらを並べ終わると、彼女は食卓へと走り寄って、トースターにパンをセットする。
取って返すと、続いては先程のベーコンの上に卵を落としてフライパンに蓋をする。後は、トーストとベーコンエッグが焼ける間にレタスを切っておけば良い。
御坂は、大人しい性格の持ち主である。そういった人は大抵料理が好きなのだが、その例に彼女は外れていないようだ。慣れた手付きが、それを示している。朝に弱い妹がいるから、姉である自分が朝食を用意しなければ、という考えがあるのかもしれないが、どちらにせよ大人しくて優しい少女なのだ。
その妹もそろそろ起きたのか、ごそごそと二階から物音がしていた。
「よし……♪」
勿論、その時には朝食の匂いに誤魔化されて、先程の匂いは消えていた。
玄関ですれ違った妹を思いながら、御坂は学校へと向っていた。
春の日差しは柔らかで、コンクリートの路面を優しく包み、覆っている。これが夏になると、ぎらりと光ながら反射熱をこれでもかという程に浴びせるのだが、今はまだ気持ち良い春風が滑る道になっていた。
上を見上げれば、透き通るような、水色の空。そこに、桃色の花弁を携えた桜が枝を伸ばしていた。
あの空へ届けと、伸ばされた枝。
まるで、願うように。
「春、なんですね」
そう囁くにように言葉を落としながら、あの冷たい水の感触を思い出した。やはり、あれ以外は全て春を肯定している。
あれは冬の残滓、だったのかもしれない。
「ありえませんよね。そんなこと」
苦笑で、胸の中に湧いてきたその言葉を笑い飛ばす。
そこに――――
―――にゃあ――――
猫の鳴声だった。
「ん……?」
御坂は首を傾げながら周囲を見渡す。
怯えた声だった。震える、小さな猫の声。
けれど、幾ら見渡しても何もいない。小さな桜の花弁が、ゆらゆらと踊るように散るのだけが瞳に映り込むだけ。
――にゃあ
それでも、聞こえていた。
春を示す桜色の雪に塗れて掠れるように、小さくその猫の声は御坂の耳に突き刺さっていた。
そして、気付く。
その声の元は上から聞こえているのだと。
はっとして、彼女は上を見上げる。公園に植えられている桜は一本だけではない。何本を植えられたそれらは、それぞれが花弁を枝に灯していた。
その中に、黒い姿が一つ。
黒猫だ。それが細い木の枝の上で、動けずにふるふると震えている。
「え……えっと」
助けないと、御坂はただそれだけを思った。枝の上から動けないその猫を苦笑するなんてできなかったし、思える筈もなかった。
困っているのに、助けない理由なんてない。
とても純粋で、子供っぽいその心と想いばかりなのだ。
「い、今助けますからねっ」
誰かが見ていたら、きっと彼女の慌てた様子を笑っていただろう。だが、周りの眼なんて関係なかった。ただ桜の幹に手を掛け、登るだけ。目を凝らしてようやく見える窪みに指を掛け、硬い樹皮の感触を知るだけ。
幸い、桜の木はそう高くなく、木登りの得意とは言い難い御坂でも登りきれた。服や肌に擦り傷を幾つも付くってしまっていたが、それは問題はない。
問題なのは……怯えている猫と、その下の枝の細さだ。
「お……おいで…ね……?」
御坂は掠れた小さな言葉を黒猫へと投げ掛ける。しかし、猫は動かなかった。人の言葉が通じないのもあるだろうが、木の枝というその状況がそれを許さないのだろう。
「大丈夫だからね……ね?」
もう一度、猫を安心させるように紡ぎながら、ゆっくりと腕を伸ばす。その指はひどく揺れて、元々不安定な彼女の姿勢をより不安定にさせる。
それでも腕を伸ばす。伸ばせる限界に達しても、それ以上伸ばそうと、身を前へ前へと倒しながら。
「……ね?」
震えた猫に指が届き、御坂はそっと猫を掴む。少々乱暴なやり方だったが、首の後ろ辺りを持って、引き寄せたのだ。
ここで、御坂は不安に駆られる。
よくある落ちだ。助けようとした猫を抱き締めようとしたら暴れたり、抱き締めた瞬間、枝が折れて落ちてしまう。今となっては漫画でもタブーとされる展開。でも、この現実では本当にあったりする。
時々、世界が灰色かつまらない悪夢に見える瞬間だ。
「………っ」
冷や汗、流れる。額を伝い、喉元に寒気が走った。
それでも御坂は猫を放さない。同様に猫も暴れたりはしない。吹く風も淡く、彼女の腕の振るえを撫でるだけだ。
「………」
それに押されるように彼女は息を呑み、腕を引き戻し続ける。真っ赤な瞳は小刻みに揺れて、指先にかかった黒猫の体温だけに意識を注意する。公園の芝生の上から見ると、その草らの木は決して高くない。しかし、登った視点から見ると、ひどく高い。
その高さから逃れるように、猫だけに、腕の中に抱き締めた猫だけに意識を集めて離さない、御坂。
一瞬、息が止まる。引き戻された腕で掴んだ猫が、彼女の胸に触れたのだ。人の体よりさらに暖かい体温と、柔らかな体毛。微かな呼吸音が伝わって―――
――安堵の想いを抱くと同時に、枝がぽきりと軽く折れて、御坂は落ちた。
落ちとか、驚きとか、溜息とか。
そんなもの、感じる間もなく、堕ちたのだ。
ふわりとした浮遊感が刹那走りぬけ、落ちたと脳が知覚するより速く、彼女の体は地面へと。
草薙・士郎。
何との事はない、ただの高校生。何故だか彼は幸運に恵まれやすいのだが、それは多少である。運など、人の目では測れないものだし、ただ運がいい人間なのだと彼の周りの人間は言うだろう。
けれど、今日ばかりは不幸だった。まずは目覚ましである。電池切れではなかった。徹底的なまでに破壊ないし粉砕されていたのだ。
「……んー……」
走りながら、士郎は唸る。その壊れていた時計のせいで自分は遅刻しかけ、こうやって走っている。しかも、その時計が何時壊れたのかを思い出そうとすると、昨日の朝という事になる。
確か、昨日起きる時に思いっきり目覚ましを叩いてしまい、何かが壊れた感触を自らの手刀が伝えてきていたような気がする。
寝惚けていた為よく覚えていないのだが、いわゆる、自業自得とというなのかもしれない。
その上、降りかかり続けた不運。朝食がなかったり、いざ出かけたら、途中で財布を忘れてしまっていたり。
ようは泣きっ面に蜂で、遅刻しかけているという事だった。
「急がないと、不味いかも……」
辺りに咲き乱れる桜に視線を送る余裕はなく、走るだけである。いつも通る公園に辿り着いてはいたが、時刻が遅い。どうやっても遅刻のペースだろう。春とはいえ、十分も走り続けたせいで彼の額には汗が滲んでいる。運動系の部活を励んでいる彼でも、流石に疲れを覚え始めていた。
そこに。
―にゃあ。
聞こえきた、猫の声。
走り続けた事で精神が高揚し、聴覚が研ぎ澄まされていたせいか、彼の耳にははっきりと、震える猫の声が聞こえてきたのだ。
「え……と」
はっ、はっと、鋭く小さく吐かれる呼吸を整えながら、彼は辺りを見渡す。遅刻するかもしれないこの状況ではそんな余裕はないのかもしれないが、士郎の性格ではそのまま学校への道を突き進む事などできなかったのだ。
そして、見つける。
「あ…っ……」
女の子、だった。長い銀の髪を肩に流しながら、赤い制服に包まれた腕を木の枝に先に伸ばしている。その先にいるのは、真っ黒な黒猫。彼には、その黒猫の瞳の色がエメラルド色であるというのと、その色がひどく怯えているのが微かに見えた。
その猫へと、その少女は手を伸ばした。
「……ね ?」
少女の細い指が、猫の体に届いた。
瞬間、士郎が感じたのは胸騒ぎ。
何故かは知らない。けれど、どくんっと脈打つ鼓動が異質なノイズを孕み、胸郭に響き渡る。それは次第に体中に浸透していき、彼の脚を震わせる。
予感だ。何か、嫌な予感がした。強烈な既視感に近いそれは、士郎の脚を無意識の内に動かす。
恐怖に近いそれ。体の芯を軋ませて、五感をより鋭利とさせる。靴を通して踏んだ地の感触がまじまじと足裏に伝わり、空気のざわめきが瞳の奥にまで聞こえてくる。
猫を掴んだ少女の腕が引き戻される。
だっ。
地面を蹴る自分の足音が、嫌な程大きく聞こえる。まるで鐘の音。なら耳奥で聞こえる脈動は、警鐘なのだろうか。
彼は知らない。知るよしもない。
だが、確かに今、自らの物とは思えない程に異様な鼓動の中に、少女の座る枝が壊れ始めた音が聞こえたのだ。
暗転するように、枝の繊維が弾けるその音を支点とし、彼の視界がぐにゃりと曲がる。
そんな中でも、彼の視覚以外の五感は正常に働いていた。いやむしろ、第六感と呼ばれる『勘』がひどく研ぎ澄まされ、逆に視覚が鈍ったような感覚。彼は何度か、その感覚を味わった事があった。
部活の、サッカーの試合だ。
一つのボールを焦点として、他の全てが淀んで、掠れて見える。周りの選手すらもそうで、相手プレイヤーが、まるで一つ一つの障害物のように見えてしまう。
精神が、高揚しすぎている。
故にこそ、脚に異常なまでの力を込めて前へと駆け、木の枝の悲鳴をはっきりと聞いてしまうのだ。
――間に合え。
ただそればかりを願う。この直後に何が起こるのか、それが判ってしまっていた。
きっとこのままでは枝の根元が弾けて、
枝の根元が弾け、
軋むように、垂直を保っていた枝の方向が捩れる、
枝の方向が捩れる、
安堵した銀の少女の笑顔、彼女は気付いていない、
笑顔、彼女は気付いていない
間に合え。そう想って走る彼は、その後を理解していた。
彼女は気付いていない。多分、猫だけに意識を集中しているのだろう。恐怖が余計にそうさせる。単純な人間ほど、そういった恐れを振り払う為、一つの事に意識を集めてしまうのだ。だからそれ以外の事に対しては疎かになってしまう。俗に、ドジと呼ばれるのがそれだ。
しかし、今の状態ではそんな事は関係なく、士郎は駆け寄る。
ぼきんと木材が折れる、軽くて湿った音がしたが、その時士郎は前だけを見ていた。より早く走る為に、より速く駆け寄る為、それだけに。
伸ばした腕に、折れた枝から散った桜が降り注ぐ。
目の前も、空の指先も、全てを多い尽くすように。覆って、塗りつぶしてしまうように。
掛かる、過重。
落ちる。御坂が思ったその時は既に遅く、視界を桜色の吹雪が飲み込んでいた。微かに漏れる外の景色は、余りにも鮮やかで、春の暖色…いや、優しげなパステルカラーを目一杯に吸い込んでいた。
恐い、というよりも、ただ柔らかな光景。それを瞳に刻み込んで、瞼はきつく閉じた。
目に入ったのがそれだけだったからこそ、固い地面ではなく誰かの腕に抱きとめられても、然程驚かなかったのかもしれない。焼きついたパステスル調の景色は今にも剥がれ落ちてしまいそうな、そんな儚いものだったのだが、同時にそれは雪の儚さであり、雪の柔らかさだったのだから。
だから、瞼を落とした彼女には、まるで世界が自分を受け止めて、抱き締めてくれたように感じてしまったのだ。
しかし、聞こえてきた息遣いが、その考えを否定した。
小さな、呼吸。
猫のものではない。もぞもぞと、逃げ込む場所を探すように御坂の胸に摺り付く黒猫の息は、あくまで胸の中にいる。今、瞼の上から落ちてきた息の雫は、別の誰かのものなのだ。
開ける、瞳。
落下の瞬間、桜と共に踊った銀の髪は未だに小さく揺れ続け、紅い瞳は全てを映す。
幻想的な、銀と雪桜。三日月の銀光を束ねたかのような、細い燐光の髪を映す瞳が、自分のものではない別の黒瞳に入り込んでいるのを、見たのだ。
とくん。
それは、傷口に疼くのに近い。胸を刺されたような痛みに続き、けれど、痛みではない切なさばかりが、瞳を刺激して揺らしていく。
そう、眠り仔を包む揺り篭のように。
「あ……えっと」
黒い瞳の少年はたじろぎ、御坂は芝生の上へと下ろした。精細さを欠く、そんな動き。
途端、彼女の頬に朱が刺した。瞳の方が紅いとはいえ、それは元々白に近かった彼女の肌を綺麗に彩る。
何か、云おうとした。お礼を、伝えようとした。
だが、喉は掠れて粘ついて、何も言葉が出なかった。
急いでいるのか、少年は一礼をするとすぐに走っていく。
その背中を、これでもかとばかりに桜が追っていく。追うのだが彼女の脚は動かずに、桜は彼の背を見えなくしてしまう。
桜の雪が、潤んだ紅い瞳の奥底へと滑り込む。
恋の始り。
告げる、ように。
|
|
|