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<東京怪談ノベル(シングル)>


火蝶・風詠

 ねえ、綺麗なあなた。
 ────あなたは、どうしてこの穢土で生きることを選んだの。

 ねえ、優しいあなた。
 ────あなたは、この世界に何を求め、何を得ようとしたの。

 ねえあなた、あなた ──── ………… 。


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「……見事、ね」
 ぽつりと呟いた称賛は、休日で賑わう美術館の中へと霧散していった。誰かに、むしろ自分にすら聞かせるつもりのなかった徒し言の葉。はかなく消えるのが似合いだと嘉神しえるは口角を吊り上げ、しかし視線は眼前に飾られた画から外すことはない。
 元より著名な名画である。TVの美術番組にも度々特集で取り上げられたりして、本日この展覧会を訪れる以前にも何度か鑑賞の機会に恵まれることはあったの、だが。
「ホンモノを見ておけ、とは言うわよね。確かに」
 腕を組み、眼前に掛けられた絵画と対峙の格好を取る。この世には美しいという唯それだけで他を圧倒する威を備えるものがあるけれど、この画は正しくソレ、なのだとしえるは思う。だからこそ、筆を濡らした絵の具が乾き描いた人がこの世を去り、やがて持ち主が変わり変わったこの今現代だとても、その画は見る者を魅了して止まない。
 画の大きさは、縦が一米と少々で、横が片手を地と水平に伸ばした程度。絹に彩色された日本画であるそれは、背景を漆黒で塗り潰し、前方に赤々と燃え盛る炎を据えている。
 もしもこの画を夜闇の中で突然見せられたとしたら、自分は咄嗟に、視覚から熱を感じて戦くのではなかろうか。それほどまでに生々しい、ぬらりとした朱の炎が画の中で舌先を遊ばせている。そしてその炎の周りで、まるで戯れるように、いや飛び込む寸前かのように舞い踊っているのは幾匹かの鱗翅。白に黄、蒼に緋の羽根を広げたそれらは、果たして身を焼く炎に誘い込まれているのか、それとも自ら望んで請い焦がれ求めているのか。
 むしろ如何様な解釈も許せるように画家は筆を走らせたのかと、しえるはひとつ、興味深げに瞬きをする。閉じて、開いたその鳶色の瞳。再び、大きな炎が映った。

 まやかしながら真の命を授けられた火。
 名を、速水御舟作、『炎舞』。

 かの画家は明治から昭和初期まで生きた人だと、先刻パンフレットで知識を得た。十代で成した作品が宮内庁買い上げとなるなど、絢爛たる才能を早くから開花させていたらしい。然程長くはない人生の中で数多くの傑作を生み出した彼だが、この『炎舞』は大正の終わりに描かれたもので、現在重要文化財に指定されているとこのことだった。
 他人がつけた名や誉れで美術品を計る審美眼を、生憎しえるは持ち合わせてはいない。だが、実物を目にして否応無く心が動いたならば。現に今、自分の視線を堂々たる威風で、そのくせ慎ましやかな無愛想で受け止めているのだから、この画を「逸品」と呼ぶこと吝かではない。
 ふと解説が記されたプレートに目を遣れば、今から八十年も前の成立年が記されている。自分が歩んできた四倍もの時を、そして戦禍すらを薄い躯一枚で生き抜き、こうして現在、往時の輝きを何ら失うことなく此処にまします美しさよ。
「美術品って……そうね、そういうものだわ」
 展覧会のチケットを譲ってくれた同僚に手土産のひとつでも買っていかなきゃね、と。薄いルージュを引いた唇にしえるは艶な微笑を含ませた。


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 ねえあなた、知っている?
 地上には、夏に生きる蝶がいるそうよ。

 黄金色した灼熱の陽射しは、目覚めたての、柔らかな羽根には辛いでしょうに。
 海神の怒りかの様に襲い来る風雨は、いとけなき、ささやかな羽根には猛々しいでしょうに。
 何も、自ら進み出でてその道を選び取ることはないのにね。美しくか弱き命には、もっと相応しい時節がある。綺麗なものを綺麗なまま、愛しさを愛しいままに。優しさだけをその身に抱き続けられるようにと、神がそれらのために創り出してくれた季節が、世界があるというのに。其処でそれらは、何も案じることなく、ただ唇を甘い花蜜で湿らせていればいいというのに。

 なのに ──── 。

 あなたは胸に手を当て、聴いたことがあるかしら? この、私たちの、穏やかにのみ命を刻む鼓動の音を。地上の四季に譬えるならば、そうね、総てが萌え出づる花の息吹の季節 ──── 春。
 この永久の国は、謂わば羊水に満たされた常しえの世界だわ。私たちは永遠に胎児のまま、傷つくことも恐れることも、自身が否定されることもなく生きてゆくの。終焉なんて誰も知らない、目覚めたばかりだから眠りさえ知らない。幸福に生を歩むことのみを希求し、愛していられる、そんな宝石の様に美しい心と身体を約束されて私たち、生きていくのよ。
 この命に、私は不満などない。だってあなたがいるのだもの。
 命が永いということは、それだけ永くあなたの手を握っていられるということ。心が穏やかであるということは、それだけ穏やかにあなたに微笑みかけていられるということ。久遠の幸福に包まれて、私たちずっと一緒にいられるのよ。
 私の総ては私のものだけれど、私の理由は、ねえ、あなたに全部あげるわ。
 だから、あなた、あなた、どうかこの手を、離さないでいてちょうだい。


 ──── …… そう願っていたのは、私の方だけだったの ?


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 多少後ろ髪引かれる思いで炎の絵画の下を去り、しえるはゆったりと残りの展示物を見て回った。あれ以上の衝撃を受ける作品こそなかったが、明治・大正期の日本絵画を集めたこの展覧会、無料で譲り受けたのを幸運と思う程には満足のいく内容だった。
 記念にと図録を購入し館内の喫茶店で一休み。アイスティーを飲み干し外に出ると、熱風を孕む白光が視界を眩ませた。冷房の程よく効いた室内から出た瞬間のこの酷暑、じめじめと水気交じりの蒸す感じに帰国子女は「もう」と顔を顰める。
「日本の夏ね……慣れたけど」
 空を仰げば虹彩を射る光の矢。網膜に残像を焼き付けるほどの強烈な陽光を取り巻き、白い雲が幾重にも横たわっているのがよく見える。
 と、東の空から徐々に広がってくる薄墨色が視界の隅に引っかかった。そういえば今朝の天気予報で、「所により、一時的に雷雨に見舞われるでしょう」と言っていたのを聞いた覚えがないわけでもない。
 しえるはやや小首を傾げながら空をねめつけた。服に合わせた手持ちのバッグは小さなもので、折り畳み傘など用意周到な物は当然入れてあるはずもなく。
「ま、降る前に帰ればいいのよ」
 言って、自分に首肯する。青空色の石をあしらったサンダルをカツカツ慣らし、街の中を駅に向かって颯爽と歩き出すその姿。風さえ平伏し脇を通り抜けていくかの様で、微笑するしえるは背筋を伸ばしたまま道を一直線に進んだ。

「…………」

 その、道中。ふと、先刻の炎を思い出した。
 暑さが呼び起こした熱に繋がるあの炎を、そこに舞う小さな羽根を命を。
 しえるは妙に鮮やかに、ほとんど無意識に。
 脳裏の内で反芻していた。


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 行くの? という問いに、あなたははにかんだ様に笑んだだけだった。
 あなたは私に本当しか言わない。だから、優しい嘘さえもついてくれなかったのね。

 あなたはとてもたおやかで、この腕中に白い肩を包み込めてしまうほど華奢な身体を持っていて。────そのくせ、心だけは誰よりもしなやかで強靭だった。
 一番大切なことを私にすら口にせず、総て一人で決めてしまったその固い意志。頑固よね、ええ、とっくの昔に気付いていたわ。私の大事な、あなたのことだもの。解ってしまって、当然でしょう?
 あなたは私のことが好き、私もあなたのことが好き。想いの色は違うけれど、その強さに何ら変わりはないのだから、「私のことなんてどうでもいいの」なんて詰ることすら出来なかった。唇を噛み締め見送る私、遠ざかっていくあなたの背中。二人の間を天界の風が通り抜けたあの日のこと。忘れられない忘れっこない、だってもう二度と、あなたに会えないのだと思ったから。

 そうして。門を潜り、激しく乱れる世界へとあなたは降り立った。
 背中の羽根は陽に焼かれ、地上の風にもまれて舞い散って。

 ──── あなたは、夏の蝶になったのね。


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 飛んで火に入る、という言葉を思い起こす。
 本能のまま光に集い、自らを滅ぼしてしまう哀れな小さな命を揶揄したその言葉。あの画に一応、当てはまらぬことがないこともない。何故あの羽根は炎に舞うのか、何故あの命は赤を慕うのか。美しき色彩をもつ躯は、あの数瞬のちには焦げて焼かれて消えてしまうのかもしれないのに。

 ──── 綺麗なまま、美しいままではいられないかもしれないのに 。

 ──── どうして、どうして、この炎の様な世界を選んだの 。

 ……カツ。
 道の途中で不意にしえるは歩みを止めた。
 さわり、と吹き抜ける風が髪と頬を撫でていく。汗ばんだ首筋を通っていく風もまた熱の眷属、白く輝いているかの歩道の石畳。ふと傍らに目を転じれば、何処か公園の前だったのだろう、覆い被さる様な濃い緑が上へ横へと枝を伸ばし、それが道の先までずっと連なっている。
 ────その眺めに、思わず目を細めたのは必然だったのか。

( 何て、何て、鮮やかな色彩 )
( むしろ、むしろ、これは荒ぶる命の色 )

 ぽつり、と冷たさを鼻先に感じて空を見上げれば、時は既に遅かったらしい。雨雲が頭上にまで移動していたことに気づかなかった。
 放物線上に加速していく雨足に、行き交う人々が宿りを求めて駆け出した。薄い夏服を濡らし肌まで染み透ってくる激しい通り雨の中、しかししえるの爪先はどこにも向かおうとしない。立ち止まった位置そのままに、掌を天に向け秀でた柳眉を僅かに寄せたのみ。擦れ違った若い男女が不審そうにこちらを見るのが窺えたけれど、しえるはただ、夏の雨に打たれてその場に立ち尽くす。


  大事な大事な恋しい人。私の大事な愛しいあなた。
  果てなく続いていく魂総て、私はあなたを追いかけることに賭した。


 ざああ、と雨が足元で砕けて跳ねる。カプリパンツの素足の踝を、生温い水滴が容赦なく濡らしていく。


  巡り会える“いつか”なんて日を信じ、か細い糸に縋るように、願って。
  だから、私はこの地上で、再びあなたに出会うことが出来た。


「……夏の、蝶」


  あの頃のあなたは春の蝶。
  総て一切優しさのみを享受して、命の息吹を歓び合う存在であればよかった。
  今のあなたのは夏の蝶。
  命が高まり総ての色が覚醒していく中、逞しくなければすぐに羽根など手折られてしまう厳しさに。

  ──── けれど、あなたは、しなやかに、そして雄雄しく生き抜いている 。


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 炎に惹かれた蝶がいて、彼女はその紅蓮の中へと飛び込んだ。
 私はそんな蝶を追いかけて、ただその一心で灼熱の中へと身を投げた。
 幾度もの輪廻を乗り越えて、蝶の指先を掴まえることだけを考えていた。
 蝶が炎を選んだ理由なんかに目も呉れず、ただ蝶を、あなただけを望んで私は此処までやって来たのよ。

 ……でも、でもね。


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 一頻りの風雨を齎したのち、重たい雨雲はゆったりと西へ流れ去った。甦る晴れ間、そこから差し込む夏の陽光が濡れそぼったしえるの総てを温めていく。足元に落ちた雫は数え切れぬほど、波打つ長く豊かな髪を伝う水筋も未だ絶え間ないけれど。

「……ねえ」

 しえるは極上の笑みを浮かべて空を見上げた。額に張り付く前髪を掻き上げ、嗚呼、と思わず漏らした感嘆の声に嘘も偽りも何もないのだと、他でもない自分が一番わかっている。

「あなた……?」

 円を描く様に髪を振る。その幾房もから舞い散る飛沫が陽光を浴びてきらきらと輝き、中心に立つしえるを彩る。
 欠片も破片も総てが七色、虹の光で以って雫は中空に踊り、微笑を浮かべた口許は花が綻ぶ緩やかさで笑みを深めた。





「此処は……とても、綺麗ね」





 ──── まるで、あなたの様に 。





 ひとつ、何かを噛み締めるかの表情をしえるはする。そのまま睫を伏せ、翳りの中に刹那瞳を閉じ込めたのだけれど。
 きり、と顔を上げた時にはもう一切総て常の通りで、濡れた爪先を軽やかに運び彼女は再び道を行き出した。
 喜びよりは哀しみが、至福よりは切なさの勝るこの世界の“道”を。
 力の示現としての六枚羽ではなく、苛烈を選んだ揺らめく命のみが持ちえる羽根をその背に広げて────。





















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 羽ばたくは、白い羽根をもつ小さな蝶が二匹。
 遠く楽園を離れた今もなお美しく、光の中睦みあう様で、彼方へと消えていった。


 了