|
真夜中の訪問者
蒼王・海浬 (そうおう・かいり)――異世界では太陽神という存在にある。
この世界へ来て一体どれだけの年月が過ぎたのだろうか。
いや、歳月など関係ないのだ。どれだけの年月を費やせば、彼の人に出会えるのであろうか――。
靴音を響かせながら、街灯の灯った夜道を歩き、自宅がある高層マンションに帰ってきた。
ふと、海浬は空を見上げた。
濃紺色の空には、小さな光りが幾つも輝いている。
その中心で、銀色の丸い月が優しい光を投げかけていた。
いつもと変わらない夜空である。しかし――海浬は瞳を細めた。
懐かしい感覚がするのだ。
とてつもなく懐かしい、そして、威圧的な感覚。
その感覚に、海浬は覚えがあった。
「……蝶」
見上げていた視界の中に、金と銀の蝶が螺旋を描きながら飛んでいった。
見覚えのある蝶に、懐かしい感覚――それが何を示しているのか海浬は知っていた。
だから――
「ふっ」
笑みを零した。
作り笑いが得意な海浬であるが、心から笑うことなどない。それなのに、笑みを零す。それは、無意識のことなのだ。
それだけ、その存在に彼が心を許しているということだろう。
黒に近い焦茶色をした、重厚な作りの玄関を開いた。
扉が開くと同時に、廊下の灯りが灯り、オレンジ色の明かりが、白い壁に模様をつくっていく。
海浬は玄関で靴を脱ぎ、廊下の突き当たりへ向かい歩いた。
「ん?」
海浬は視線を足下へ向けた。
なぜか廊下が濡れているのだ。
反射的に視線を上に向けると、白く汚れ1つないクロスが瞳に映った。
ゆっくり視線を戻し、廊下の先にあるリビングを見据えた。
そして、歩みを進めた。
リビングへと繋がる扉を開くと、壁前面の窓が飛び込んできた。
室内は間接照明だけで薄暗く、カーテンが閉められていない窓からは、街のイルミネーションと濃紺の空に散りばめた宝石が、光り輝いていた。
そして、窓に向かって佇む、1人の女性の姿があった。
海浬は同居生活をしている訳ではない。
誰かに合い鍵を渡した覚えもない。
しかし、彼女のことを知っていた――同郷であり地獄の女帝と呼ばれる存在、阿須羅 (アスラ)。
彼の御仁が、大家に適当な理由を付けて部屋を空けてもらう訳がない。が、一瞬そんな姿を想像してしまったのだ――だから、苦笑が漏れた。
ではどこから入ったのだろうか。
その絶対的な存在を持ってすれば、部屋へ入ることぐらい造作ないのだろう。
しかし――と、海浬は首を傾げた。
床の所々に水溜まりが出来、彼女は髪から洋服から、全身ずぶ濡れである。
雨でも降っていたのか、あるいは服のままシャワーでも浴びたのか――理由などどうでもよい。
すっと、隣の部屋へ行きバスタオルと着替えを取り出すと、リビングへ戻り彼女の前に歩み寄った。
「風邪をひきますよ」
そう言い、バスタオルと着替えを差し出した。
彼女は、手慣れた手つきでそれを受け取ると、美しい横顔に高圧的な笑みを乗せ隣の部屋へと消えていった。
いつ見ても美しい――その美貌に嫉妬した美の女神に呪いをかけられる程、阿須羅の容姿は端麗である。
その絶世なる美貌は、彼女に不幸しかもたらさなかった。その結果、半身にひどい火傷の痕が残っている。
見るからに痛々しい傷痕。しかし、傷痕のない半身の美しさが際だち、火傷痕の存在を薄れさせている。
「自由気ままな人だ」
彼女が消えていった部屋を見つめながら、そう呟いていた。
「しかし、何か用があって来たのでは……」
左右微妙に色を違えた瞳を細めると、彼女がいる部屋へと近付いた。
開け放たれた扉にもたれ、中を覗き込む。
阿須羅は、着替えも終わり、ベットに腰掛けていた。
海浬の存在に気付いたのか、阿須羅は瞳をくっと上にあげた。
阿須羅の緑色の双眸が、揺れている。
海浬は、問いかける意味を含め、少し首を傾けた。
「最近……夢見が悪い」
すっと、瞼を落とし、そこに深い影を作った阿須羅は、顔に流れ落ちる前髪を払いのけた。
計り知れない力を持ち、地獄の女帝にまでのし上がった存在――そんな彼女がたかが『悪夢』に畏れる必要などあるのであろうか。
しかし、海浬は知っていた。とても脆い部分を持っていることを。
「わかりました」
阿須羅の吐露に近い呟きに頷くと、海浬は踵を返した。
阿須羅が自分を信頼してくれていることは、一目瞭然である。
互いの立場からして違うはずなのに、不思議な関係だ。
それでも、そんな関係が心地よく感じるのは、海浬だけではないのだろう。
思わず、鼻歌を漏らしながら、薬を調合する。
太陽神である海浬は、医療を司る神でもあった。
だから、薬の調合など朝飯前なのだ。
自然界に存在する元素を結合させ、阿須羅の為の薬を創造した。
「ただの抗不安定剤なんだが……」
そう呟きながらも、親指ほどの小さな瓶に、透明な液体を注ぎ入れる。
阿須羅の為に、海浬が調合した薬――。
海浬はそれを阿須羅に渡した。
透明な瓶に入った、透明な液体。
阿須羅は、瓶の上下を指で挟み、月の光に透かしてみる。
液体の中に、丸い月がすっぽりと収まった。
それに満足したのか、瓶を傾け一気に飲み干した。
「……甘い」
「甘い方が飲みやすいでしょ?」
「……子供じゃないぞ」
むっとして告げながらも、ふと微笑が零れる。
空になった瓶を海浬に戻すと、阿須羅はベットに横になった。
もちろん、そのベットが海浬が普段使っている物だということは、言うまでもないのだが。
阿須羅から受け取った瓶を片付けると、寝室へと戻った。
肌布団をかぶった阿須羅は、子猫のように丸まった格好で瞳を閉じている。
マットレスを軋ませながら、海浬は阿須羅の隣へ潜り込んだ。
とはいえ、2人の関係は甘くベタベタしたモノとは違う。
文字通り、添い寝するだけなのだ。
「最近はどうだ」
眠っているのかと思われた阿須羅だが、瞳を閉じたままそう尋ねた。
「そうですね……」
阿須羅の突然の問いかけに、別段驚く風でもなく、何から話そうかと思案すると、頭の下で腕を組んだ。
「この世界というのも案外悪くないですよ」
そう言うと、F1ドライバーのマネージャー業をしている時に起こった出来事や、普段の生活などを淡々と語った。
「この世界に馴染んでいるな」
それは皮肉などではなく、素直な感想。だから、海浬も「はい」と素直に返事をした。
まだ語り足りないのか、海浬はさらに話しを続けた。
阿須羅はといえば、閉じていた瞳を開き、海浬の言葉に相づちを打ちながら、楽しそうにしている。
が、海浬の語る言葉の中に、かの存在が含まれていないことに気付いた阿須羅は、嘆息した。
そんな阿須羅に気付いた海浬は、語る言葉をやめた。
「たかが女一人探すのに何時まで手間取ってるつもりだ」
阿須羅の言葉に苦笑を漏らす。
その通りだ――一体いつになったら探し出せるのか。
自嘲気味な吐息を漏らすと、ふと阿須羅に視線を向けた。
先ほどまで楽しそうに人の話を聞いていたその気配は消え、微かに寝息が聞こえてくる。
「薬が効いた……か」
そう呟くと、阿須羅の顔を覗き込んだ。
その表情は、苦痛に歪むこともなく、安らかな笑みを浮かべている。
「悪夢は見ていないらしいな」
微妙に色を違えた双眸に、笑みが浮かぶ。
薄く引き締まった唇を、彼女の形のよい耳に近づけた。
触れるか触れないかの所で、そっと囁く。
「良い夢を……」
甘い吐息を残し、近づけた顔を離すと、ベットに体を沈めた。
月光が、窓から差し込んだ。
それは、ベットの上に降り注ぎ、淡い光で2人を染め上げる。
美しく、それでいて神々しいその2人を前にして、何人もその眠りを妨げることは出来ぬであろう。
良い夢を――
END.
|
|
|