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ふたりの母
――さらさらと、葉が鳴る。
目にも艶やかな緑が、誘うように日の光にきらきらと輝いている。
きちんと敷き詰められた庭石は、打ち水をされたばかりらしくしっとりと濡れている。この時期、日に何度も打ち水をするお陰で、この屋敷の中は真夏でも涼しい風が通り抜けるのだ。
そんな、文字通りの『御屋敷』の中で、暮らしている人々がいる。
――巨大退魔組織『白神』。
言葉通り、魔を退治る者たちで構成された大きな組織で、遥か過去からこの日本の裏側を支えてきたと言っても過言ではない。
古くは文献にあるような名の知れた強大な鬼の封印から、地鎮祭に近いことまで手広く仕事として請け負っており、白神の名を汚す事の無いよう、現場へと赴く者達は日夜厳しい訓練と修行を怠らない。
「――」
そんな中。
お付きの者達にかしずかれ、広い室内でふぅと小さく息を吐いた人物がいた。
「あら…どうかなさいましたか?どこか、ご気分でも…?」
「いいえ、大丈夫ですよ」
言葉少なに答えてにこりと笑う、白銀の髪を肩から流す、若々しい姿の女性。…これで成人した子どもを持つ母親だと誰が思うだろうか。しかも、この白神家の当主であり、全国の陰陽師たちを束ねる『白神』のトップとは、この女性…白神久遠を知らぬ者からすれば、到底信じられるものではないだろう。
尤も、今は半隠居状態。積極的に表に出る事は無くなったのだが。
「少し、昔のことを思い出しただけ――」
人を下がらせて、再び思いに沈む。
もう、何年前になるだろうか。時が止まったようなこの屋敷の中に、親友の彼女が訪れたのは――。
*****
「ふうっ」
大きく天井へ息を吐きながら、気分良さそうに笑うのは、若々しい笑顔を浮かべた女性、水上瑞穂。彼女の目の前には、たった今まで鬼ごっこに興じていた瑞穂最大の敵、若干3歳ながら大人の瑞穂をあしらって得意げな笑顔を浮かべる女の子の姿がある。
「久遠ちゃんの娘、元気だわー…もうこの身体じゃついてけないなー…」
きゃあきゃあと柱の向こうへ駆けて行った少女を見ながら、久遠が用意した座布団の上へとゆっくり腰を降ろす瑞穂。
「ご苦労様。…歩き始めてからあっという間だもの、びっくりですよ」
はたはたと扇子で瑞穂の顔を仰ぎながら、ゆったりと久遠が微笑む。
「本当に、瑞穂さんになついてるわぁ…どっちがお母さんかわからないくらいです」
「久遠ちゃんに遅れること3年かぁ…結局こうなっちゃったもんねー」
ふっくらと膨らんだお腹をぽんぽんと軽く叩き、久遠と顔を見合わせて苦笑する瑞穂。
以前はやや険のあった顔付きまでふわりと丸くなったような、そんな笑顔だった。
「あの瑞穂さんがついにお母さんなんてちょっと信じられませんけど」
「ちょっとぉ、『あの』って何よ『あの』って。私は昔からおしとやかで、いいお嫁さんになるって言われてたのよ?」
ねえっ、そうでしょっ?と同意を求めるように、甲高い子どもの笑い声が聞こえる辺りへと声を飛ばす。
返事は無かったが、何か咳払いのような音が何度か聞こえて来る。
「何よ、こんな時くらいいい返事を聞かせてくれてもいいのに」
「ふふ」
くすくすとそんな瑞穂の様子に笑う久遠。その彼女に釣られるように瑞穂も尖らせていた口を笑みの形へと変え、
「あはは…正直に言えば私もそう思っちゃったりしたんだけどね。ねぇ、久遠ちゃん。この子が生まれたらさ、久遠ちゃんもこの子のお母さん役やってよ?私がそっちの子供の面倒みてるみたいにさー」
ゆっくり、愛しげにお腹を撫でながら、顔を上げて久遠に笑いかける瑞穂。
「いいですよ」
そんな瑞穂に負けず劣らずの艶やかな笑みを浮かべた久遠が、目を輝かせ、
「そうしたらうちの娘と瑞穂さんの子供は兄弟みたいなものですね」
妹かしら、弟かしら、とそっとその腹部に手を伸ばす久遠。
「いいねー、兄弟。約束だからねっ♪…聞こえた?約束したのよ。あなたをこの『おばちゃん』が、可愛がってくれるからねー?」
「まあ、失敬な。そんな事を言うと、うちの子にも『おばちゃん』って呼ばせちゃいますよ?」
「ちっちっちっ、だーめーよ、そう言う事を覚えさせる前に『おねえちゃん』って呼んでくれるように私が先回りして教えるんだから」
それは、夢のような時間。
――親友の瑞穂が、『鬼』と結ばれ、その証を体の中で大切に育てながらいた、貴重な時。
その一報を、毒と悪意に満ちた身内の口から聞かされた時には驚きもした、嘆きもした。何故よりによって、と思ったのも一度や二度ではない。
久遠にとっての白神のように、水上という一族を束ねるだけの実力を持ち、またその事を周囲から期待されて生きていた彼女だからこそ、そうした弁えだけは持っていると思っていたのだ。
…けれど。
『心配かけちゃったみたいね。ごめん』
妊娠が発覚して、水上の一族から散々責められたらしい瑞穂が久遠を訊ねて来た第一声がこれで。
『でもね、悔いる暇なんてないのよ。だって、それ以上に幸せなんだもの』
恋人、いや夫か。その鬼である彼の惚気っぷりを瑞穂から聞かされた久遠は、最後には一緒になって笑いながら、瑞穂の手をしっかりと握っていた。
――誰が責めても、恨んでも、蔑んでも、自分だけは彼女の味方でいようと。
「久遠ちゃん…ごめんね」
不意に、そんな言葉が瑞穂の口から漏れる。
「どうしたの?急に。謝られるような事は、何もしていませんよ?」
「もう、そう言う事を本気で言うんだから…古老達を抑えてくれたんでしょ?」
古老達とは、白神の中で現役を退いたものの、組織全体に睨みを利かせている文字通り老練の者達の事で、長に告ぐ発言力を持っている。
その彼らからの諫言を、久遠は無視し続けている。瑞穂はその事を気付いていたらしい。
『白神』組織でトップの実力を誇る瑞穂に対する粛清は、彼女と鬼との恋が発覚してから常に持ち上がってきた話題だった。――鬼を封じず、子を成した彼女は、この組織から放逐した方が良いのだと言う者は、今も少なからずいる。
だが、それでも尚、瑞穂を越えるだけの能力を持つ者がいなかったから、そして白神の長である久遠が積極的に瑞穂を擁護していたから、誰1人として手を出す事が出来ないのだ。
「…私はただ、長としての務めを果たしているだけですよ。…だから、瑞穂さんが気に病む事はなんにもないの。それよりも、瑞穂さんの今の務めは、ちゃんと養生して、丈夫な赤ちゃんを産んで私に見せてくれること、ですよ」
――そしてまた、それらの重圧など、長になってからの日々の中では些細な事だったのだ。一族プライドや思惑にいちいち左右されるようなら、久遠がこうして今日も長でいる事など出来なかっただろうから。
「うん。そうね、この子が生まれてくるまでは大事にしないとね。よぉし、それじゃあ遠慮なくこき使うわよーっ」
――なにぃぃぃっ、と言う声が聞こえて来たような気がしたが、瑞穂も久遠も聞こえないふりに徹していた…。
*****
それも今となっては遠い話。
瑞穂はこの世を去り、後を負うように彼女の夫の鬼も消え、そして――約束どおり瑞穂の娘を親代わりに引き取った。
敵は外ばかりではない。寧ろ、彼女の生まれを知る内部の者からの風当たりはきつかっただろう。
――自分の衣だけでは、守りきる事は難しい。
それでも、約束だったから。
自分の娘と姉妹のように育て上げたのは、何よりも彼女との約束だったからに他ならない。勿論、育てるうちに本当に自分の娘のように愛しくてならなくなったのだが。
「瑞穂さん…あなたの娘はいい子の育ってますよ…貴女に似ないでちょっと生真面目過ぎますけど」
彼女が滅多に笑わない事が、唯一と言っていい心残り。
あの子を心底笑わせる事が出来れば、瑞穂を思い出しては溜息を付く事も少なくなるのかもしれないが。
そんな久遠の様子を、すぐ近くから見ている目があった。
『――ありがとね。久遠ちゃんが約束守ってくれてるおかげだよ…けど、似てないは余計だ』
この屋敷に訊ねて来た時の定位置にちょこんと座り、苦笑を浮かべるのは、この場にいない筈の瑞穂の姿。
…だがそれも、久遠が気付く事は無い。
例え陰陽師の一族の長とは言え、瑞穂がこの世に戻って来る事の出来る条件として課せられた『枷』からは逃れられないのだから。
「ほんと、誰に似たんでしょうねぇ」
――不意に。
瑞穂の顔が驚きでぴたりと止まる。
自分の目の前にある、親友の微笑に。
そんな筈、無いのに。まるで自分がそこにいるのが分かるみたいに、昔と同じくまっすぐ瑞穂を見詰めて。
「…それに、何度言っても『久遠ちゃん』って呼んでくれないんですよ?」
『自分の娘分にちゃんづけで呼ばせてどうするのよ。――全くもう、久遠ちゃんってば』
――互いに、くすくすと笑う。そこに居るなんて分からなくても。
ひとりは、目の前の彼女に気付かないまま。
ひとりは、気づかない事を知っていながら。
それでも――。
こころのどこかで…通じている事を、信じていた。
何故なら、2人は親友だから。
相手の事を、常に思いやっていたから。
――『子ども達』の、母だから――。
-END-
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